+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教18

旧約聖書:イザヤ書25章1‐10節 新約聖書:Tコリント15章50−58節

「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず、アーメン」

1.使徒信条の締めくくり

 私たちはこれまで使徒信条に基づいて講解説教を続けて参りましたが、今日はその終りの部分、

我は「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず、アーメン。」

の部分を取り上げます。使徒信条は大きく三つの段落に分けることができます。第一は父なる神に対する告白、第二は御子なる神に対する告白、そして、第三に聖霊なる神に対する告白です。そう致しますと、この部分は聖霊なる神に対する告白に含まれることが分かります。

「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず、アーメン。」

 これらは皆、キリスト者の生活に関する事柄です。その際大切なことは、キリスト者の生活というものは、すべて聖霊の御支配の下に置かれている生活であるということです。聖霊によって新しく造り変えられた者は、聖なる公同の教会の肢として、キリストの体に繋がれ、そこにおいて聖徒の交わりに入れられます。それが具体的な教会生活です。そして、教会を通して罪の赦しを与えられるのです。更に、聖霊によって新しく造り変えられた者には、将来に対して一つの希望が与えられます。それが「身体のよみがえり」であり「永遠の命」なのです。ここで使徒信条は、私たちの目を将来の希望に向けるのです。キリスト者の生活というのは希望に生きる生活です。キリスト者にはどんな時にも取り去られることのない希望が与えられています。最終的な勝利が約束されているのです。それは私たちの古い人間が滅び、新しい人間に生まれ変る希望です。だから、キリスト者はどんな時にも挫けず、希望を持って生きることができるのです。

2.「霊のからだ」

 言うまでもなく私たちの復活の希望は、イエス・キリストが死者の中から復活したということにその唯一の根拠があるのです。イエス・キリストは十字架に架けられて死に、そして、三日目に死人の中から復活なさいました。すべてはそこから始まったのです。その際大切なことは、イエス・キリストが「体」をもって復活なさったということです。墓の中に主イエスを探しに行ったマグダラのマリアは、そこで復活の主と出会いました。マリアは復活の主イエスの姿をその目で見たのです。ヨハネによる福音書20章11節以下にそのことが記されています。復活なさった主イエスは、明らかに身体をもって復活なされました。手には釘で刺された傷があり、脇腹にも槍で刺された傷がありました。そこで大切なことは、マリアが主イエスを慕うあまり、主イエスにすがりつこうとした時のことです。主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」とマリアに言われたのです。これは一体何を意味しているのでしょうか。これは明らかに復活された主イエスは生前の主イエスの体とは異なった身体に復活されたことを示しています。主イエスは肉の体に死に、霊の身体に復活なさいました。永遠の命に復活なさったのです。まさにそのことによって、この方が真の神であるということをそこで示されたのです。ですから、マリアが主イエスに触れることを許されなかったのです。

 パウロはこの「霊の体」についてコリントの信徒への手紙一15章において語っています。15章44節には次のようにあります。

「つまり、自然の命の身体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」

 そして、45節では次のように続いています。

「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。」

 ここからも主イエスは肉の身体を十字架に架けて滅ぼし、霊の体に復活なさったということが分かります。イエス・キリストはその霊の身体を伴って、天に昇られたのです。そこに私たちの希望があります。私たちもまた終りの日にこの死ぬべき身体を造り変えられ、新しい霊の体に造り変えられて天に挙げられる。その希望があります。主イエスは私たちの罪に汚れた死すべき身体を十字架につけて滅ぼし、そして、御自身の復活を通して、新しい霊の体に復活されたのです。イエス・キリストを真の救い主と信じ、この方の名の下に洗礼を受ける人は、キリストと同じように新しい霊の体に復活させられるのです。そのことをパウロは15章50節以下で語っているのです。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」
 

 このように終りの日にはイエス・キリストがこの地上に来られて、死を克服されることが約束されているのです。

3.「身体のよみがえり」の意味

 私たちにとって死とは何でしょうか。死の恐ろしさはどこにあるのでしょうか。それはその先が見えないということではないでしょうか。死んだ後どうなるのか分らない。それが死の恐ろしさです。結局はすべてが空しく終わる。死は私たちの人生がすべて否定されることです。死をそのように受け取らないならば、それは単に死を美化しているに過ぎません。死の現実から目を逸らしているに過ぎません。死そのものには積極的な意味はありません。死は人生の否定です。すべてを無に帰するものです。それだけではなく、死は今を生きる力を私たちから奪い去ります。死は遠い先のことではありません。今現在私たちの生活を脅かすちからです。過去に犯した過ちによって人間の良心はとがめられ、過去を悔い、将来に対する漠然とした不安に捕えられます。死に直面した人間は、過去に犯した過ちによって良心を咎められます。死に直面した人間は、次のような問いの前に立たされるのです。「果たして、私の人生には何か積極的な意味があったのか。私は人生の中で何か積極的なものを残して来たのか。結局、自分が死ねば、他の人々は自分のことなど忘れ、あたかも私など存在しなかったかのように、人々はそのまま生活を続けて行くのではないか。一体、私はこの世に生れて来た意味はあったのか。むしろ、他人に迷惑をかけ、周りの人々の重荷になり、ただ汚点だけを残して人生を去って行くのではないのか。」そのような問いの前に立たされるのです。それこそがまさに死の力に他なりません。死は人生の意味を否定します。私たちが生きている意味を否定します。生きながらにして、生きる力を奪い、生きる屍同様にするのです。それが死の力です。死の力は人間の罪を利用して、今の私たちの生を蝕むのです。

「死のとげは罪であり」(Tコリント15:56)

とパウロは言いました。死は罪を利用して、私たちを神から引き離そうとします。積極的に人生を生きようとすることから心を反らし、過去に犯した罪によって私たちの良心を責め立て、将来への漠然とした不安によって、今という時を無駄に過ごすように追い立てるのです。死の力は今という時を生きる力と気力と意欲とを私たちから奪い去るのです。死の不安に捕らわれた人間は今を生きることはできません。

 また私たちの人生には、生きていても無駄のように思える日々が多くあります。私たちは毎日時間に追われ、同じことの繰り返しだと空しさを感じるかも知れません。毎日、朝早く起きて仕事や学校に出かける。そういう生活に空しさを覚えている人もいるかも知れません。毎日、三度の食事の用意をし、洗濯をし、子育てに追われる中で生きる意味を見失っている人もいるかも知れません。毎日病院のベットの上で過し、長い間病と闘っている人は、そういう人生に一体意味があるのかと問いたくなる時があると思います。誰からも理解されずに一人孤独に悩んでいる人もいるでしょう。私たちが人生の中で生きる意味を見失い、生きる気力が薄れてしまう。それこそ死の力なのです。

教会生活もそうです。一生懸命伝道に励んでも、すぐに目に見える成果は現れません。「伝道はざるで水を汲むようなものだ」と言った人がいます。伝道をしてもすぐに実が実るとは限りません。真剣に御言葉を語っても人々の心には届かず、むしろ、教会の中に新しい分裂が生まれ、教会を去って行く人々が出て来る。次から次へと問題が生じてきます。建てては崩して行くような虚しい歩みです。毎日が戦いの連続です。昨日したことが必ずしも積み重なって行かない。無駄に思えるような時があります。

4.死に打ち勝つ復活の信仰

 しかし、パウロは言うのです。

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(15:54−56)。

 「死のとげは罪である。」そのとげがイエス・キリストの十字架の死によって取り除かれたのです。死はもはや私たちにとって恐るべきものではなくなりました。むしろ、死は復活の命に至る入口になったのです。ここで大切なことは、「朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と言われていることです。それを使徒信条は「身体のよみがえり」として表しているのです。ここで言う「身体」とは、単に私たちの肉体のことだけではありません。私たちの人生すべてを含んでいます。終りの日の復活は今の私たちの生活と全く無関係に起こるのではありません。私たちの今の人生がすべて否定され、打ち消されるわけではないのです。だからパウロは言うのです。

 「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:57−58)。

 パウロは、主に結ばれているならば、私たちの苦労は何一つ無駄なことはないと語りかけるのです。どうして彼はそのように確信をもって言うことができたのでしょうか。それは彼が「身体の甦り」を信じていたからです。私たちの歩んでいる人生には、何一つとして無駄なことはない。確かにそこには失敗もあり、罪もあり、敗れもあります。思い起こしたくない過去があります。私たちの人生の歩みというものは、そういうものが入り混じっています。しかし、それだからと言って、過去をすべて否定する必要はないのです。そのような欠けの多い、不完全な、後悔だらけの人生であっても、最終的には主イエス・キリストがその欠けを覆い、完全なものとしてくださるのです。朽ちるべきものが朽ちないものを着る時が来る。パウロはそのことを確信していたのです。復活は今の私たちの生活を否定するものではなくて、むしろ、完成するものなのです。不完全な私たちの人生を完成へともたらしてくださる方が主イエス・キリストなのです。

 ですから、復活の信仰というのは、今の現実の生活からかけ離れた所に何かバラ色の人生を追い求めることとは違います。それは現実逃避とは違うのです。むしろ、復活の信仰は、現実に目を向けさせ、現実に立ち向かって行く力を与えてくれるのです。復活の信仰を持っている人は、今という時を精一杯生きることができるのです。動かされないようにしっかりと立ち、「主の業」に励むことができるのです。「主の業」とは何でしょうか。それは何より、この喜ばしい福音を人々に伝えることです。自らその希望に生きることです。主に結ばれているならば、私たちの苦労が決して無駄に終わらないことを態度をもって示して行くことです。それは何も立派な業でなくて良いのです。それぞれが与えられた立場で、できることを感謝と喜びをもって、忠実にそれを果たして行けば良いのです。主から与えられた命を感謝をもって生きる。また他の人の命に対して、そのような敬意をもって接する。身近に与えられた人と愛の交わりの中で生きる。それが「主の業に励む」ということです。復活の信仰を持っている人は、どんな小さな業にも全力で励むことができます。なぜなら、その人は主に結ばれているならば、私たちの苦労が決して無駄にならないことを知っているからです。

 そのように私たちが今の時を神と共に生きることこそ、「永遠の命」に他ならないのです。永遠の命とは、今の時が無限に続くということとは違います。それはむしろ、「満たされた命」と言った方が良いかも知れません。「充実した人生」、「神様に対する感謝に満たされた生活」。それが永遠の命です。ですから、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」と語りかけるのです。復活の信仰を持っている人は、今の時を感謝をもって生きることができるのです。

5.聖餐における交わり

 今日はこの後、共に聖餐に与ります。ドイツ語で聖餐式のことを「ユーカリスティー」(“Eucharistie”)と言います。これはギリシャ語の「感謝する」という言葉から派生した言葉です。聖餐式は「感謝の祝い」です。感謝の生活は、聖餐に与ることから生まれて来るのです。私たちは聖餐においてこそ、復活の主と一つにされます。そこで復活の信仰を強められ、永遠の命を養われるのです。なぜなら、そこにおいてこそ、生ける神との交わりの中に入れられるからです。神を中心として、キリストにあって兄弟姉妹が一つに結ばれる。キリストにあって互いに和解させられて生きるのです。そこにすでに永遠の命は始まっているのです。愛の交わりの中で神と共に生き、隣人と共に生きる。これが永遠の命に他ならないのです。聖餐は終わりの日に実現する神の国の祝宴の先取りです。私たちは聖餐において、すでにそのような永遠の命を生き始めているのです。

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

天の父よ
 あなたは愛する独り子を私たちの救いのために世に遣わし、その十字架の死と死から復活によって、大いなる救いの御業を成し遂げて下さいました。心から感謝致します。あなたがどれほど私たちを愛してくださっていることか。そのことに気づかされます時、私たちは身の震える思いが致します。どうか、主よ、あなたの愛から私たちを引き離すものはもはや何もないことを確信し、今与えられた時を、心からなる感謝をもって生きることができますように、聖霊によって私たちを日々新たに造り変えて下さい。どうか、死に直面している兄弟姉妹が、復活の主御自身から永遠の命に生きる希望を与えられますようにお守り下さい。この世界は未だに死の力によって脅かされ、矛盾と不条理が支配しています。どうか主よ、私たちが終わりの日の勝利を約束されていることを信じて、この世の悪と自らの罪と戦い続けることができますように、私たちの信仰を強めて下さい。この祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。