+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教17

旧約聖書:詩編49編8−9節 新約聖書:マタイ福音書18章21−35節

「罪の赦し」

T.キリスト教的生活の基礎:罪の赦し

 私たちが洗礼を受けて信仰生活に入る時、私たちにとって一番関心があるのは、「信仰を持つと一体何が変わるのか」ということではないでしょうか。「一体、信仰を持つと何か得をすることがあるのか」と誰でも考えるでしょう。わざわざ損をするようなことをするはずがありません。何か得することがなければ、人は信仰を持つことはないでしょうし、わざわざ日曜日の貴重な時間を使って、教会の礼拝に来ることもないと思うのです。信仰を損得勘定で考えてはならないと思う人もいるかも知れません。しかし、そのように考えることは決して間違いではないのです。信仰を持つと確かに私たちにとって「益」となることがあるのです。

 私たちの教会では、受洗準備会などで良くハイデルベルク信仰問答というキリスト教の入門書を用いています。このハイデルベルク信仰問答の特徴は、私たちが信仰を持つことによって与えられる「益」ということについてはっきりと述べていることです。ハイデルベルク信仰問答は、その中心部分において「人間の救い」について述べていますが、その主な内容は使徒信条の解説です。そして、その使徒信条についての解説を終えた後、次のような問いがなされます。

「それならば、このすべてを信じたら、あなたは、どんな益を受けるのですか。」

それに対する答えは次のような内容です。

「わたしが、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となる、ということです。」

 ハイデルベルク信仰問答は、私たちが信仰を持つことによって与えられる益を二つ挙げています。一つは「キリストにあって神の御前に義とされる」ということです。言葉を換えて言えば、「イエス・キリストを信じる信仰によって、神の御前に罪を赦される」ということです。そして「永遠の命の相続人となる」ことです。つまり、「罪の赦し」と「永遠の命」こそが信仰を通して与えられる益なのです。

 それが使徒信条においては、最後の部分において語られています。
「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の命を信ず」

と告白されているのです。この部分を理解する上で大切なことは、この部分がすべて聖霊なる神を信ずる信仰の告白に含まれているということです。つまり、これらはすべて聖霊なる神が与えて下さる賜物なのです。イエス・キリストを信じる信仰は、聖霊が私たちに与えて下さるものです。そして、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた者は、聖なる公同の教会の一員となり、聖徒の交わりの中に入れられます。そして、その教会を通して何が私たちに与えられるのかと言うと、それが「罪の赦し」であり、「身体の甦り」であり、「永遠の命」なのです。

 しかし、もしかしたら、皆さんの中には次のように思われる方もおられるかも知れません。「使徒信条には、私たちの生活について全く触れられていない。キリスト教はこのような無味乾燥な教理よりも、もっと具体的な生き方について教えるべきではないか。その方が多くの人々に伝道ができるのではないか。『罪』、『罪』と言うと、初めて教会に来た人には躓きを与えるのではないか。そのようなことよりも、もっと温かく包み込むようなメッセージを説教で語った方が良いのではないか。」そのように思われる方もおられるかも知れません。

 しかし、使徒信条は決して私たちの生活と何の関わりもないことを語っているわけではありません。むしろ、私たちが考えるよりももっと深く、もっと根本的に、私たちの人生について考えているのです。つまり、使徒信条は、神との関係の中で私たちの人生を考えているのです。その神との関係が良くならない限り、人間同士の関係も決して良くはならないというのが、使徒信条の考え方なのです。ですから、使徒信条は、クリスチャンの生活を「罪の赦し」というたった一言でまとめたのです。そして、それは聖書が伝えようとしていることと正確に一致しています。「罪の赦し」こそ、聖書が伝えようとしている中心メッセージなのです。そこに聖書の主題があります。逆に申しますと「罪の赦し」ということを抜きに、聖書を理解しようとしても無理なのです。「罪の赦し」は、聖書が語ろうとする多くのことの中の一つというのではなくて、まさに「罪の赦し」について語るためにこそ聖書は書かれたのです。私たちはよく神の「恵み」ということを口にします。しかし、聖書で言う神の恵みとは「罪の赦し」に他なりません。この「罪の赦し」の中に、神のすべての恵みが込められているのです。使徒信条はその聖書の主題をしっかりと捉えているのです。

U.原罪

 そのことは、聖書の最初に記されている創世記の物語を読めばすぐに分かります。創世記の1−2章では、この世界が神によって造られた次第が語られています。特に1章では、人間だけが神に似せて男と女に造られたことが語られ、第2章では、人間は土の塵から造られ、神の命の息を吹き入れられて生きる者となったこと、そして、女が男のあばら骨を抜き取って造られたことが語られています。創世記1−2章においては、神が人間を他の被造物とは区別して、どんなに価値ある、貴い存在として造られたかということ、そして、私たち人間はただ神との関係の中でだけ生き続けることができるということが語られています。神の命の息を欠いては、人間は生きる者とはならないからです。

 ところが創世記3章において、この神との関係が歪んでしまいます。人間が神に対して罪を犯した結果、人間が神に呪われる者となり、その結果、死がこの世界に入り込んだことが語られます。それのみならず、神との関係が崩れた結果、人間同士の関係も崩れて行く次第が語られています。エバは神から食べてはならないと命じられていた善悪の知識の実を食べたいという誘惑に駆られましたが、それを一人で食べる勇気がなかったものですから、アダムを誘いました。後になってアダムが神からその責任を問われた時、アダムはエバにその責任を押しつけました。ここにすでに人間の「責任転嫁」の問題が出てきます。私たちがいろいろな人間関係において経験する最も根本的な問題は、責任転嫁の問題です。皆、罪の責任を人に押し付けて、自分で責任をとろうとしないのです。しかもアダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださったあの女が、木から取って与えたので、食べました」と罪の責任を神に押し付けたのです。人間が神の上に立って、神を裁いているのです。人間は神のようになりたいという誘惑に負けた結果、自分を神とするようになりました。

 私たちも人生の中でいろいろな問題が起きますと、それを神様のせいにしたくなることがないでしょうか。「神様が自分をこのように造られたからいけないのだ」、「なぜもっと多くの才能をくださらなかったのか、そうすれば、もっと幸せな人生を生きることができたのに」と、神に文句を言いたくなる時があるのではないでしょうか。自分の責任は棚上げして、神にその責任を押し付けようとする人間の姿。そこにすべての問題の根源があります。

 更にアダムとエバから生まれたカインは、弟アベルを妬みゆえに殺してしまったのです。妬みというのは、まさに他の人と自分を比べて、他人を羨む気持ちから生まれて来るものです。それは突き詰めて言えば、自分を造った神に文句を言うことになるのです。

 このように聖書は、すべての人間関係の問題の根底には、神に対する人間の罪の問題があることを見ています。ですから、私たちが人間関係を良くしようと思うならば、まずその根幹にある罪の問題が解決されなければならないのです。問題はどのようにしたら、罪が取り除かれるかということです。

V.罪の贖い

 それはただ人間が悔い改めて、謝れば済むという問題ではありません。罪を犯した者には、その責任が問われるのです。具体的には、罪を犯したことに対する「償い」が求められるのです。それは先ほどお読みしました詩編の御言葉にはっきりと語られています。そこには次のようにありました。

「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」

 ここで贖うという言葉が出て参りますが、これは「罪の赦し」ということと深く関係した言葉です。それは人質になっている人を身代金を支払って買い戻すという意味の言葉です。

 丁度、先日、韓国人のクリスチャンの団体がアフガニスタンにボランティアに行って、タリバンに誘拐された事件がありました。男性2人が殺される痛ましい事件となりましたが、幸いにして19人が解放されました。しかし、一説によりますと、そのために23億円相当の巨額な身代金が支払われたということでした。一人当たりに換算して見ますと、1億数千万円になります。それを韓国政府が支払ったというのです。しかし、他方で、韓国では自己責任論を唱える人もいるそうです。わざわざ危険の多い場所に自分から言ったのだから、人質になった人自身が払うべきだというのです。1億もの金額であるならば、余程の金持ちでない限り、それを払うことなど不可能です。増して、人質になっている時には、自分で身代金を支払うことなどできないのです。今回のような場合、国際的な問題となり、国が肩代わりしてくれたから良かったものの、普通であったら、到底支払えないような金額です。

 聖書における罪の問題も同じように理解することができます。先ほどの詩編では「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。タリバンは一人一人の命に1億数千万という値をつけたわけですが、私たちは一体、自分の魂にどれだけの価値を見出すでしょうか。少なくとも、神から見た私たち一人一人の魂の値は、測り知れないほど大きなものなのです。それは人が一生かけても払い終えることができないほど高価なものなのです。そのような価値あるものを神は私たちに一人一人に下さったのです。

 ところが人間は、そのように価値ある存在として造られていながら、創り主なる神に感謝もしなければ、神の呼びかけに応えようともしない。しかも、人間は造り主なる神を忘れ、自ら与えられた命を罪に売り渡し、罪と死の奴隷となってしまったのです。タリバンの人質になった人々が自分で自分の身代金を払うことができないのと同じように、人間は自分で自分の命を贖うことはできません。神から離れるということは、それほど無謀なことなのです。人間は自分でその道を選んだのですから、それは人間の自己責任です。しかし、私たちは自分で犯した罪の責任を自分で解決する能力がないのです。

W.負債を負った家来のたとえ

 先ほど読みました新約聖書の譬え話は、更にそのことをはっきりと私たちに教えてくれます。この譬え話によれば、ある王が家来に貸した金を決済しようとして、その家来を王の前に連れて来させました。その額は一万タラントンでした。一万タラントンというのは、途方もなく巨額な金額です。当時、労働者が一日働いて得られる賃金は一デナリオンでした。それを6000倍したのが、一タラントンなのです。仮に今の私達のお金に直して、一日5千円稼いだとしたら、1タラントンは、その6000倍ですから、3千万円です。そうすると1万タラントンとは3000億円になります。そのように生涯かけても払い終えることのできない巨額な借金をこの家来は王に負っていたのです。私たちが神に罪を犯すというのは、そういうことなのです。それは神から与えられた人間の命の値といっても良いでしょう。私たちは神様からこのような価値ある命を頂いておりながら、それを神様のために用いようとはせずに、罪の支配に売り渡してしまったのです。私たちが一人で3000億円の借金を背負うならば、文字通り、人生の破綻を意味します。それは一人の人がとても返せるような金額ではありません。人間は自分で負いきれないほどの罪を神の御前に犯しているのです。

 王は家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じました。ところが、その家来はひれ伏し、「『どうか待ってください。きっと全部お返しします』」としきりに願いました。すると王は、家来を憐れに思い、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやったというのです。

 これが神に罪を犯すということなのです。神に罪を犯すということは、私たちが自分では払い切れない借金を身に負うことを意味します。しかし、イエス・キリストはこのような罪の負債を私たちの代りに肩代わりして、私たちを罪から贖い出して下さったのです。キリストは、御自分の命を十字架において捧げることを通して、私たちの命を罪から贖って下さいました。イエス・キリストは罪の汚れのない神の御子です。その方の命の値というのは、どれほどのものでしょうか。それはまさに、全世界の人々の命を贖って余りあるほどの貴い命です。主イエスはそのような貴い命を御自分の命を身代金として支払って下さった。それのみならず、主イエスは死から復活なさることによって、死を打ち破って下さったのです。主イエスは私たちが人質になっている敵地に一人乗りこんで、私たちの代りに人質となって下さった。しかし、主イエスは死んでおしまいではなくて、敵そのものを滅ぼし、敵に勝利されたのです。もはや私たちの命を脅かす敵は滅ぼされたのです。私たちの命はもはや罪と死の奴隷になることはありません。私たちはイエス・キリストによって贖われ、主のものとされたのです。

 それが実際に、私たちの身に起こるのが、「洗礼」においてなのです。私たちが洗礼を受ける時、私たちはキリストと共に十字架に架けられて罪に汚れた古い自分に死に、キリストと共に新しい永遠の命に復活させられるのです。イエス・キリストは2千年前にただ一度、私たちの罪のために十字架に架かって死に、そして、三日目に死から復活なさいました。そのキリストの身に起こった出来事が洗礼を通して、今私たちの身にも起こるのです。私たちはイエス・キリストを救い主と信じ、告白し、洗礼を受けることを通して、罪を赦され、イエス・キリストと一つの体に結び合わされるのです。聖餐はそのことのしるしです。イエス・キリストによって神と私たちが和解させられた。金輪際、神は私たちを決して見捨てることはなさないということのしるしです。永遠に主のものとされたのです。今私たちは罪赦されて生かされている者たちなのです。

X.罪赦された者として生きる

 しかし、そこで私たちが本当に罪の赦しを信じているかどうかが試されるのです。先ほどの譬え話には続きがあります。この譬え話の中では、王によって多額の借金を免除された家来は、王の前を立ち去り、外に出ると、ある友人に出会いました。彼はその友人に100デナリオン貸していたのです。100デナリオンというのは、先ほどの計算で言えば、50万円程の借金です。この家来はつい先ほど3000億円という破格の借金を王に帳消しにしてもらったのです。ところがこの家来は50万という小額の借金の返済を猶予することすら、友人にしてやらなかったのです。それを聞いた王は心を痛めて言いました。「『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』」そして、王は怒って、借金をすっかり返済するまで、家来を牢屋に閉じ込めたのです。主イエスはこの譬え話を語り終えられて、最後に次のように言われました。

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 私たちもこの家来と同じことをしているのではないでしょうか。私たちがイエス・キリストによって罪が赦されているということを本当に信じているならば、私たちは自分に対する兄弟の罪を赦すことができるはずであります。それは私たちが神に犯している罪と比べたら、全く取るに足りないものです。ところが私たちは、自分に対して犯された罪をなかなか赦すことができないのです。それは私たちが本当にはイエス・キリストによる「罪の赦し」ということを信じていないからです。罪を赦された者は、自らも赦しに生きるはずであります。私たちは聖餐において神とだけ和解させられるのではなくて、兄弟姉妹と和解させられている、一つとされている、互いに罪を赦された者同士、互いの罪をも赦す交わりがそこにおいて実現しているのです。まさにここにこそ私たちがこの世にあって、本当に平安な人生を送ることができる鍵が隠されています。罪の赦しこそ、私たちが最も必要としているものなのです。神に対しても、人に対しても、罪赦された者として生きること。神に対しても、人に対しても和解させられて生きること。ここに本当に幸せな道があるのです。これこそが信仰を通して与えられる大きな益なのです。今週も感謝の生活を送って参りましょう。

天の父よ、
 あなたは愛する御子イエス・キリストを通して、測り知ることのできない大きな恵みを私たちに与えて下さいました。私たちが一生涯かかって払い終えることのない巨額な負債を免除し、私たちに神の子として生きる新しい人生を備えて下さいました。心から感謝致します。どうか、私たちが己が罪を真実に悔い改め、ただイエス・キリストにのみ救いを求める者となることができますように。どうか、あなたの赦しの愛によって、私たちの頑なな心を打ち砕き、共にキリストの身体の枝とされている兄弟姉妹の罪をも赦し、互いに和解し、一つとなって、主の御用のために働く者となることができますように。また、私たちがこの和解の福音を人々に宣べ伝える者となることができますように。私たち一人一人がこの争いの絶えない世にあって、和解をもたらす使者となることができますように導いて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。