+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教16

旧約聖書:申命記7章6−8節 新約聖書:マタイ福音書16章13−20節

「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」

1. 母なる教会

 本日は使徒信条の講解説教の第16回目、

「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」

という告白を取り上げます。ここでは「教会」が問題となっています。皆さんの信仰生活において、教会はどのような位置を占めているでしょうか。カルヴァンという神学者は、教会は私たちにとって信仰を育み、私たちを救いへと至らせる「母」であると言いました。教会は信仰者を生みだし、養い育てる母としての役割を果たします。ですから、私たちは洗礼を受けた教会を「母教会」と呼びます。この母の存在を抜きにして、私たちは成熟した信仰者へと成長することはできません。しかも、人間の場合は成人すれば、母親の下から離れて独り立ちするわけですが、信仰においては一人立ちということはあり得ません。私たちは生涯この母の下に留まり、信仰を養われなければ、救いに到達することはできないのです。

 今日の使徒信条の言葉は、この教会を「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」として告白しています。この短い告白の中に「聖」という言葉が二度も繰り返して用いられています。つまり「教会は聖なるものである」ということを強調しているのです。当然のことではないかと思うかもしれません。実際、教会は聖なる場所である、聖人君子の集まりであると思っている人が少なくありません。

 しかし、本当にそうでしょうか。むしろ、私たちは教会において、厳しい罪の現実に直面します。教会は決して聖人君子の集まりではありません。神を信じていると言いながら、目に見える兄弟姉妹を愛することができない現実に直面します。兄弟姉妹を自分の利益のために利用するだけ利用しておいて、都合が悪くなると目も合わせず、口も利かなくなる。教会の中に自分たちの気の合う仲良しグループを作って、自ら教会が分裂する原因を作っている。自己中心的で、無責任で、自ら責任を負おうとせずに、外から教会や役員会を批判ばかりする。そういう現実に直面します。一体、このような集まりを聖なる教会と呼ぶことができるのだろうかと首を傾げたくなるような現実に直面します。その結果、教会の交わりに躓きを覚えたり、それが原因で教会から離れることになった人々が少なくありません。しかし、それは他の教会に移ったからといって解決する問題ではありません。そういう人は恐らく、行った先の教会でも、早晩同じ問題に直面することになるでしょう。罪から自由な教会など存在しないからです。私たちの教会は「聖なる」教会と呼ぶには余りに懸け離れているのではないでしょうか。

 明日は丁度、今から62年前に広島に原爆が落とされた日です。この時期になりますと、私たちは敗戦を毎年思い起こしますが、私たちの教団、また私たちの教会は悔い改めなくして、この時を思い起こすことはできません。国家の圧力に対して少数のキリスト者が抵抗したのを除けば、ほとんど抵抗することもなく、積極的に戦争に協力したのです。教会が自らの主の御声に聞き従わず、この世の支配者の声に聞き従うことを優先させたのです。それでもなお、「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白できるでしょうか。

2.教会についての告白が第三項に含まれていることの意味

 ここで大切なことは、使徒信条が「われは教会を信ず」と告白していることです。信仰告白は本来、神に対してなされるものです。ところが使徒信条においては「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白されているのです。つまり、教会が信仰の対象とされているように思われるのです。これは一体どういうことでしょうか。

 その場合大切なことは、「われは聖なる公同の教会を信ず」という告白が置かれている位置に注目することです。使徒信条の中で教会に関する告白は「われは聖霊を信ず」という告白の後に置かれています。つまり、この部分も聖霊なる神に対する信仰の告白に含まれているのです。ここでは教会を造り上げるのは人間ではなくて、聖霊なる神であるということが告白されているのです。教会そのものが信仰の対象ではないのです。そうではなく、教会を造り上げる聖霊なる神を信じることが大切なのです。

 そのことは最初に教会が生まれた日のことを考えてみれば分かります。この地上に最初に教会が出来たのは、聖霊が弟子たちの上に降った時でした。聖霊が降る所には、必ず教会が生まれるのです。聖霊は教会を生み出す力です。聖霊は本来ばらばらな人間を召し出し、互いに固い愛の絆で結びつけ、一つの教会を造り出すのです。これこそ聖霊の為す業なのです。「われは聖霊を信ず」とは、目の前にある教会の現実から目を反らし、そこから逃避することではありません。そうではなく、その罪の現実の只中に聖霊なる神が働いているのを見出す信仰なのです。私たちはこの白銀教会という現実の中に、聖霊の働きを見出すことが大切なのです。そこから離れて、どこか他の所に聖なる教会を探し求めるのは誤ったことです。

 聖霊とは言葉を換えて言えば、イエス・キリストの霊です。イエス・キリストは復活された後、天に昇られ、今は目に見える姿ではこの地上におられません。しかし、キリストは聖霊において私たちの所に降って来て下さるのです。しかも、キリストは、この地上に御自身の身体を持っておられるのです。すなわち、教会こそがイエス・キリストの御身体なのです。イエス・キリストは今は教会において、この地上に存在しておられるのです。キリストの霊はこの教会において働くのです。

 教会は元の言葉では「エクレシア」と言います。エクレシアとは「呼び集められた者の集い、召し出された者の集い」という意味です。つまり、教会とは、イエス・キリストの呼びかけを受けて、召し出された者たちの集まりなのです。イエス・キリストの身体が先にあって、そこへと私たちが召し集められるのです。ですから、私たちが洗礼を受け、イエス・キリストと一つに結ばれるということは、具体的には、イエス・キリストの身体である教会の肢として結ばれるということなのです。この教会との結び付きを抜きにして、キリストとの結びつきはあり得ません。

3.「聖なる」

 そうすると「聖なる」という言葉の意味も自ずと明らかになってくるのではないでしょうか。「聖なる」というのは、元々、「区別する」、あるいは「取り分ける」という意味の言葉です。旧約聖書においては、神様が御自分の御用のために取り分けておかれたものを「聖」という言葉で表します。決してそれ自体が聖なるものであるというわけではないのです。そのことは申命記7章6節以下を読むと分かります。そこでモーセに引き連れられて、出エジプトをしたイスラエルの民に対して、

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」

と呼びかけられるのです。これだけを読みますと、あたかもイスラエルの民自身が特別な聖なる民であるかのように思われます。しかし、この続きの言葉を読みますと、イスラエルの民が選ばれたのは、決して彼らが特別な民であるとか、聖なる民であったからではないことが分かります。イスラエルの民は決して他の民と比べて数が多かったわけでもなく、立派であったわけでもありません。むしろ、他のどの民よりも貧弱であったというのです。彼らの側には主に選ばれる理由は何もなかったのです。しかし「あなたに対する主の愛のゆえに」イスラエルの民は選ばれたのだというのです。神様の愛ゆえに、彼らは神の民として選ばれ、他の民とは区別され、聖なる民とされたのです。これが「聖」ということの意味なのです。「聖」という言葉は、神の側の選びを強調しているのです。しかも、それは神の一方的な恵みの選びです。聖なる教会を信ずとは、教会が神の見えざる恵みの選びによって召し集められたものであることを信じるということなのです。

4.「公同の」

 では「公同の」とはどのような意味でしょうか。これは「カトリック」という言葉です。これは「普遍的な」という意味の言葉です。教会はどの時代、どの国にあっても変わることはないということを表す言葉です。しかし、私たちは「カトリック」と聞きますと、どうしても「ローマ・カトリック教会」という一つの宗派を思い浮かべてしまうと思うのです。こうした問題から、ドイツのプロテスタント教会では、この「カトリック」という言葉を「キリスト教的」という言葉に置き換えて告白するようになったようです。実際、ドイツのルター派の教会では、使徒信条のこの部分は「われは聖なるキリスト教的教会を信ず」に言葉が変えられていました。

 ところが、ある時スイスのベルンにある改革派教会に行きました時、その日の礼拝には特別に1枚の紙が配られました。そこには使徒信条が印刷されていたのですが、今日の礼拝では「キリスト教的」ではなくて、「カトリック的な」(ドイツ語ではkatholisch)という言葉にして告白しましょうと牧師から説明があったのです。そして、牧師は「カトリック」という言葉の元の意味を説明し、それは決して一つの宗派を表すものではないこと、プロテスタント教会であっても、教会が「普遍的なものである」ことを信じるのだから、「カトリック」という言葉で告白しましょうと説明があったのです。これは大変印象深い経験でした。それだけ「普遍的な」(公同の)という言葉は、私たちの教会にとっても大切な言葉なのです。

 確かに、教会はその教会が生きている時代、あるいは置かれた場所において、様々な形を取ります。しかし、その本質においてはいつも変わることがないのです。それが「公同の教会」という告白が意味することです。なぜ教会が変わることがないかと言えば、それは教会の主が変わることがないからなのです。教会を建てられた主は今も生きておられ、教会を支配しておられます。

「イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)。

この主の御声に聞き従い、私たちの信仰を告白することが、何時の時代にも果たさなければならない教会の使命なのです。

5.「聖徒の交わり」

 さて、使徒信条は「聖なる公同の教会」と言った後、更にそれを「聖徒の交わり」と言い換えて告白しています。つまり、教会は「聖徒の交わりである」と告白しているのです。ところが、これも元の言葉では「聖徒の交わり」というように、人として訳すこともできるのですが、もう一つの可能性としては「聖なるものの交わり」とも訳すことができる言葉なのです。つまり、「聖なるものを中心とした交わり」であるということです。「聖なるもの」というのは、具体的には聖餐のことです。教会とは聖餐を中心とした交わりであるという意味にも取ることができるのです。確かにその方が教会の交わりを的確に表していると思います。先ほど言いましたように、私たち自身は聖なる者ではないのです。しかし、私たちは聖なるものを中心として、そこに集められているのです。私たちは聖餐において、パンとぶどう酒を受けることを通して、そこに聖霊が働く時に罪の赦しを受け、イエス・キリストと堅く結ばれます。そして、一人一人がイエス・キリストを通して互いに一つに結びあわされるのです。

 私たちは果たして、聖餐における交わりを真剣に受け取っているでしょうか。聖餐においては、あたかも自分とキリストとの一対一の結びつきだけを考えていないでしょうか。私たちは果たして聖餐を受ける時、他の兄弟姉妹のことを考えているでしょうか。あるいは、そこにはいない兄弟姉妹のことを祈りつつ聖餐に与っているでしょうか。

6.教会の肢であることの慰め

 スイスの有名な神学者であり、牧師であったトゥルナイゼンという人が大変興味深い話を紹介しています。ある婦人が医者にも見放されほど重い病にかかり、苦しんでいました。彼女はある牧師の所に相談に行きました。この婦人は洗礼を受け、この牧師が牧会する教会の教会員でありましたが、病に苦しむあまり、自分が悪魔に取りつかれているのではないかという思いにとらわれていました。

 するとその牧師は、彼女に1通の手紙を書きました。そして、その手紙の中で、この牧師は彼女に向って「自分の力で、敵を片づけようとすることをおよしなさい」と勧めたのです。「この戦いはとてもあなたの力では勝てない。イエス・キリストのみが勝利することができる戦いです。だから、キリストに身を委ねなさい」と言ったのです。そして、「私は聖餐式を執行する度毎にあなたのことを思い起こし、あなたのために祈っているのです」と書き送ったのです。この牧師は打ちのめされた女性を慰めるのに、ただ人間的な慰めの言葉を語ったのではありません。そうではなく「絶望をしなさるな、あなたは、キリストの教会の肢体なのだから」と言って、彼女がイエス・キリストの身体なる教会に結ばれていることを思い起こさせようとしたのです。単なる個人的な慰めの気休めの言葉を贈ったのではありません。そうではなくて、この牧師は教会が礼拝の時間に祈りをし、彼女のことを思い起こし、彼女の代りに御言葉を聞き、聖餐を受ける時に、神の前に彼女の問題をに担っていてくれるということを彼女に告げたのです。彼女自身は聖餐に与ることができなくても、彼女にとって意味があるのです。

7.聖餐における交わり

 私たちは果たして、私たちが教会に結ばれているということの中に慰めを見出すことができるでしょうか。私たちが洗礼を受けている、イエス・キリストの身体なる教会の肢として結ばれているということの中に、どれほど大きな慰めがあることか、私たちはそのことを本当に受け止めているでしょうか。教会はイエス・キリストの御身体です。罪と死と悪の力を打ち破り復活なされた方が、今も生きて働き、満ち溢れている場所です。私たちはそこにおいてすでに罪の力からも、死の力からも、悪の力から自由にされているのです。私たちは完全に罪から贖われ、キリストのものとされているのです。たとえ、私たち自身が弱く祈れない時にも、教会が代わりに祈り、聖餐を受け、共に身体の一部として苦しみを共に担ってくれるのです。私たちの戦いは孤独な戦いではないのです。聖餐に共に与っている兄弟姉妹が共に闘ってくれるのです。私たちは聖餐式においてこそ、生けるキリストと交わり、そこにおいて兄弟姉妹と一つの身体とされるのです。そこに私たちの救いがあり、真実の慰めがあります。私たちは年老い、病の床に臥して、やがては教会に来られなくなる日が来るかも知れません。しかし、私たちが教会の肢である限り、私たちは生けるキリストの働きの下に置かれているのです。

 人間的にはどんなにばらばらなように見える教会であっても、私たちはすでに聖餐においてすでに一つとされているという事実から出発することができるのです。聖餐こそ教会に真の一致をもたらす力です。聖餐を通して、生けるキリストと一つに結ばれる時、教会は陰府の力もこれに打ち勝つことができない堅固な岩の上に築かれるのです。私たちはこの現実にこそ目を向けなければなりません。ここにこそ、世のすべての問題を解決する力があります。真の慰めがあります。私たちはこの交わりに新たに人々を招き入れるために、この世へと遣わされて参りましょう。

天の父よ
 あなたは御子の貴い血潮によって、私たちを罪から贖い、聖なるキリストの御身体なる教会の肢として下さいましたことを感謝致します。どうか、主はすでに世に勝利されていることを心に留め、御言葉と聖餐を通して生きて働かれる主の御手に自分自身を委ねる者とさせて下さい。今から聖餐に与りますが、この聖餐においても、私たちの自己中心的な思いが打ち砕かれ、自分自身から目を離し、イエス・キリストに目を注ぎ、そして、イエス・キリストを通して隣人にも目を注ぐことができますようにお導き下さい。今日、病や様々な都合でこの場に集うことのできない兄弟姉妹のことも祈りの内に覚え、共に同じ身体の肢であることを自覚して、執り成しの祈りを捧げることができますようにお導き下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。