+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教15

ヨエル書3章1−2節、マタイ福音書28章16−20節

「われは聖霊を信ず」

1.最大の奇跡

 皆さんは奇跡というものを信じているでしょうか。聖書の中には様々な奇跡が登場致します。病気の人の病が治る。目の見えなかった人の目が見えるようになる。死者が復活する。そういう出来事が記されています。使徒信条においても、男性と関係したことのない処女マリヤが子どもを身ごもる。神の御子が人として生まれ、十字架の死を遂げて、三日目に死者の中から復活されたと告白しています。初めて聖書を読む方は「そんなことが本当にありうるだろうか」と疑いたくなると思います。当然だと思います。理性や私たちの常識に従って考えたら、あり得ないことばかりだからです。

 しかし、そのこと以上に不思議だと思わされることは、実際にそのようなことを信じている人がこの世の中には存在するということです。教会は2千年の間、様々な迫害に遭いながらも、一度も途絶えず連綿と続いてきたのです。そして、何時の時代でも変わることなく、この使徒信条を告白し続けてきたのです。一体どうして、このような理性に反することを信じる人々が次から次へと生まれて来たのか。そのこと自体が奇跡と言わざるを得ないのではないでしょうか。そして、私たちが経験することの中でも最大の奇跡は、この「私」がイエス・キリストを信じるようになったということではないでしょうか。皆さんもまだイエス・キリストを救い主と信じていなかった時のことを思い出してみて下さい。クリスチャンの人にいろいろと質問をし、困らせたことがあったはずです。クリスチャン・ホームに生まれたから、自動的に信じるようになっていたということではないはずです。クリスチャン・ホームに生まれた人であっても、やはり自覚的にイエス・キリストがわたしの救い主であると信じ、告白するようになるには、越えなければならない壁があるのです。一体、どのようにして私はイエス・キリストを信じるようになったのか、それを説明できる人はいないと思います。それ自体が最大の奇跡なのです。

 マルチン・ルターという宗教改革者は、大変面白い信仰告白をしました。それは次のような内容です。

「私は、自分自身の理性と力によっては、私の主イエス・キリストを信じ、あるいはそのみもとに至り得ないことを、信ずる。」

そう告白したそうです。これは私たちすべてのキリスト者に当てはまる告白ではないでしょうか。問題は、ただイエス・キリストという人が存在したということを信じる、というようなことではないのです。そうではなくて、この方を私の救い主として受け入れるということなのです。それが奇跡なのです。私たちはどこまでも自己中心的で、自分を神のように崇めている傲慢な人間です。そういう私たちがどうして十字架に架かって死なれた方を私の救い主として受け入れ、この方に仕えるようになるのか、そのことが分らないのです。もし、この私がイエス・キリストを真の神と信じているということが本当であるならば、それはこの私の内で奇蹟が起ったという以外にないのです。それは処女降誕や死人の復活という奇蹟に劣らない奇蹟なのです。そして、そのような奇跡を起こされる方が他ならぬ「聖霊なる神」なのです。

2.教会を建てられる方

 コリントの信徒へ手紙一12章3節には

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」

とあります。主イエスの弟子たちのことを考えてみれば分かると思います。あれほど主イエスの身近にいて、間近に奇跡を経験し、寝食を共にしていた弟子たちが、いざ主イエスが敵の手に捕らわれると、途端にこの方を裏切って逃げ出してしまったのです。その目で主イエスのなさる奇跡を見、その耳で主イエスの語られる言葉を聞いていながら、彼らはそれでもこの方が本当に神の子、救い主であると信じることはできなかったのです。それは人間の経験や理性では不可能であったのです。

 しかし、その後、彼らは人が変ったように、イエス・キリストは救い主である、十字架に架かられ、復活なされたこのナザレのイエスこそ、真の神の子であると力強く人々に証するようになったのです。十字架の前では3度も主イエスを知らないと言って、逃げ出してしまった臆病なペトロが、人々の前で大胆にイエス・キリストを宣べ伝える使徒となったのです。一体、彼らに何が起こったのでしょうか。「聖霊」が彼らの上に下ったのです。聖霊が彼らの上に下ると、彼らはイエス・キリストこそ神の子、救い主であると力強く告白するようになったのです。聖霊が教会を生み出したのです。そして、聖霊は二千年の間、新しくキリスト者を起し、教会を建て続けて来たのです。

 ある人が使徒の働きを記した使徒行伝は、本来、使徒の人間的な働きを記したものではなくて、聖霊の働きを記したものであるから、「聖霊行伝」と呼ぶべきであると言いました。その聖霊の働きは今も続いているのです。

 私たちの教会は教会創立100周年を迎えるに当たって、白銀教会100年史を記そうとしていますが、それは単に人間的な業をそこに記すことが目的ではないのです。そうではなく、私たちの教会の歴史において、変わることなく働き続け、新しくキリスト者を起し、教会を建てられた聖霊の御業をそこに記すことこそ、その本来の目的なのです。私たちの教会の100年史は、使徒言行録の続編なのです。聖霊なる神は今も変わることなく生きて働き続けておられるのです。そのことを信じる所に、イエス・キリストを主と仰ぐ教会が生まれ、また真実の礼拝が捧げられるのです。使徒信条は父・子・聖霊なる三位一体の神に対する信仰を告白していますが、その聖霊なる神に対する告白に、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の命を信ず」と続くのは、それらすべてが聖霊の業であるということを告白しているのです。

3.聖霊なる神

 さて、ここで大切なことは、使徒信条が「われは聖霊を信ず」とはっきりと告白していることです。聖霊は単なる神の力であるというのではないのです。そうではなく、聖霊も父なる神と御子なる神と同等の神であるのです。そのように信じ、告白することが大切なのです。先ほどお読みしましたマタイによる福音書においても、主イエスは父と子と聖霊の名によって人々に洗礼を授けるように弟子たちに命じられました。つまり、私たちは聖霊の働きなしには救いに与ることができないのです。聖霊もまた私たちの救いのために働いて下さる神なのです。

 もう一つ大切なことは、聖霊はイエス・キリストの御言葉と離れた仕方では働かないということです。聖霊はいつもイエス・キリストが語られた御言葉を通して働かれるのです。ヨハネによる福音書14章25節以下で主イエスは十字架に架かられ、天に昇られる前に次のように弟子たちに話されました。

「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 弟子たちは、主イエスが共におられた時、まだ本当の意味で主の言葉を理解することができませんでした。しかし、彼らの上に聖霊が下った時に、主が語られた言葉が彼らの心に響いて来たのです。その時初めて、彼らは本当の意味で主イエスの言葉の意味を理解したのです。2千年前に語られたイエス・キリストの言葉が、今、私に語りかけられている言葉として心に響いてくる。そういうことがあると思います。それが聖霊の働きに他ならないのです。イエス・キリストは今は天に昇られ、神の右に座しておられますが、そこから御自身の聖霊を通し、聖書の御言葉を通して、生きて私たちに臨んで下さるのです。

4.聖霊の働き

 日本語で「霊」と言いますと、「霊に取り憑かれている」という言葉に典型的に表わされているように、何か自分を見失い、理性を奪われて恍惚状態に陥るようなイメージを抱かれるかも知れません。確かに、聖霊降臨日に霊に満たされた弟子たちを見て、ある人々は「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲りました。このことから、私たちは弟子たちが我を忘れて熱狂的になっている姿をイメージしやすいと思います。確かに現代の教会でも、特に聖霊の働きを強調する教派があります。私がニュージーランドという国にいた時、長老派やメソジスト、聖公会、ペンテコステ派の教会などいろいろな教派の教会の礼拝に出席しました。ある時、偶々日本人の学生が洗礼を受けるというので、その方が出席している教会に行ったのですが、その教会の礼拝は私たちの教会とは大分雰囲気が違いました。礼拝中でも、会衆は手を挙げて「ハレルヤ、ハレルヤ」と叫び、讃美歌を歌う時には体で喜びを表していました。また何を言っているのか理解できない異言を語る人や、礼拝堂の一番前で踊り出し、遂には失神状態のようになって、床に倒れてしまう人までいました。恐らく、その教会では、それが聖霊の働きだと理解されていたのだと思います。聖霊降臨日の出来事をそのように理解していたのでしょう。私は初めての経験だったので大変驚きました。確かに、聖霊の働きにはそのように異言を語るということも含まれていますし、実際、パウロも異言を語ったと言っています。

5.教会を建てる働き

 しかし、それは聖書が証している聖霊の働きの一面に過ぎないのであって、聖霊は他にもっと大切な働きをするのです。それは

「イエス・キリストの体なる教会を建てる」

という働きです。パウロはガラテヤの信徒への手紙5章22節において、聖霊の結ぶ実について語っています。それによれば

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、親切、善意、柔和、節制です。」

 ここで注目すべきことは、パウロは霊の賜物の筆頭に「愛」を挙げていることです。愛というのは、自分ではなくて、他者に益をもたらす行為を指します。同じようにパウロはコリントの信徒への手紙一14章1節以下で次のように言っています。

「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。」

 パウロはここで霊的な賜物として、異言だけではなくて、預言をも挙げています。ここで言う預言とは、単なる未来を予言するという意味の言葉ではなくて、相手に伝わる言葉で、相手の徳を建てるような言葉を語るということです。傍にいる人が沈んでいる時に励ましたり、慰めの言葉をかけたりする。互いに争っている人々の間に立って、その間を取り持つ。そういうことも聖霊の立派な働きなのです。

6.霊の現臨

 エバーハルト・ユンゲルというドイツの有名な神学者がおりますが、彼がその説教の中で、ドイツ語の言葉の綾を巧みに用いて、聖霊降臨日に起こった出来事を見事に言い当てています。ドイツ語には「霊がそこにいる」「霊の現臨」(Geistesgegenwart)という言葉があります。“Geist”は「霊」あるいは「精神」を意味し、“Gegenwart”は「現臨」、「そこにいる」という意味です。この「霊がそこにいる」(Geistesgegenwart)という言葉は、それは他には「冷静」とか「当意即妙」と訳されたりします。反対に「霊が不在である」(geistesabwesend)という言葉は、他に「放心した、ぼんやりした、うわの空の、心ここにあらず」などと訳されるのです。つまり、私たちが日本語の「霊」という言葉から連想するイメージとは全く逆のことを言っているのです。聖霊は私たちの理性を奪い、狂信的な行動を取らせるのではなくて、むしろ、理性的で現実に即した行動を取らせるのです。聖霊は、私たちが現実から逃げず、現実としっかりと向き合い、地に足のついた生活を送るように力を与えて下さるのです。

 主イエスが天に昇られた後の弟子たちはまさにそのような状態にありました。

「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(使徒言行録1:10)

とあります通り、彼らは主イエスが天に昇られた後、すぐに現実に立ち返ることができず、上の空でぼんやりと空を眺めていたのです。愛する主イエスが目の前から取り去られてしまい、彼らの心には大きな穴が開いてしまったのです。その弟子たちの心の穴を埋めたのが聖霊でした。聖霊が降ることにより、彼らは「キリストが今も生きて、私たちと共におられる。」その現実に目を開かれ、彼らに与えられた使命に邁進して行ったのです。聖霊降臨日というのは、私たちが本当に我に帰り、冷静になる時なのです。それぞればらばらな方向に向いてしまっている私たちの心を、聖霊は同じ方向に向かわせて下さるのです。

 聖霊は「自由の霊」であると言われます。聖霊は私たちを罪から自由にするのです。自分の思い描いている世界の中で、自分のことしか考えずに生きている私たちが罪から自由にされて、隣人と共に生きるようになる。しかも、自分に無理をしたり、背伸びをしたりするのではなくて、小さなことでも、自分のできることを精一杯する。そのような地に足のついた生き方をさせて下さるのが聖霊なのです。一人一人が自分の分を弁え、行き過ぎず、互いに相手を自分よりも優れた者として敬い、互いの賜物を生かし合いながら、教会を建てて行く。それこそがまさに聖霊の御業なのです。

 私たちの教会にも聖霊が新たに注がれることを祈り求め、今もイエス・キリストが私たちと共にいて下さる現実に目を開かれて、それぞれ与えられた使命を果たして参りましょう。

天の父よ
 あなたは私たちに聖霊を与え、「アバ、父よ」と呼ぶことをお許し下さいました。どうか、この聖霊によって、私たちには御国における永遠の命が約束されていることを確信し、力強く御子イエス・キリストを証する生活を送ることができますように御守り下さい。どうか、私たちが現実から逃避することなく、今日できることをなす勇気をお与えください。また自分中心の生活から抜け出し、愛に生きる生活へと私たちを導いて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。