+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教14

旧約聖書:ダニエル書7章13‐14節 新約聖書:マタイによる福音書24章29−31節

「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」

1.使徒信条の構造.

 私たちの白銀教会は来年2008年に教会創立100周年を迎えます。この記念すべき時に改めて、何によって私たちの教会は立つのか、どこに私たちは立つのかを確認する意味で、信仰告白の学びを続けています。私たちはこれまで使徒信条を続けて学んでまいりましたが、今日はその14回目、

「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」

という信仰の告白を共に学びたいと思います。

 使徒信条は大きく三つの部分に分けることができます。第一の部分は父なる神に対する告白です。第二の部分は御子なる神、イエス・キリストに対する告白、そして、第三の部分は聖霊なる神に対する告白です。使徒信条は父・子・聖霊なる三位一体の神に対する信仰を告白しているのです。その中でも圧倒的に分量が多いのは第二の部分、イエス・キリストに対する告白です。今日はその第二の部分の締め括りの言葉を学びます。

 この第二の部分も三つの部分に分けることができます。第一の部分は過去のイエス・キリストについて扱っています。

「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内より甦り、天に昇り…」

 この部分までは、二千年前の過去に起こった出来事について語っているのです。
では現在イエス・キリストはどこにおられるのか。イエス・キリストは復活なさったのですから、今も生きておられるのですが、どこにイエス・キリストはおられるのでしょうか。それについて第二の部分は語っているのです。

「全能の父なる神の右に座したまえり。」

 この告白については前回学びました。イエス・キリストは今、父なる神の右に座しておられるのです。天上におられるのです。「父なる神の右」というのは、単なる空間的な場所を表す言葉ではありません。むしろ、「全能の父なる神と同じ権能を持って、私たちを支配される地位に就かれた」ということを意味しているのです。イエス・キリストは人として、この世にお生まれになられました。その姿からはこの方が神であるとは誰も見ぬけなかったのです。しかし、この方は死から復活なさることによって、御自分が神であることを人々に明らかにされたのです。天に昇り、全能の父なる神の右に座されたのは、この方が真に神であることを示すためであったのです。あの二千年前に私たち人間の罪のために御自身の命を十字架において捧げられた方が、今、真の神として私たちを支配しておられる。主は王として、御自身の御言葉と聖霊を通して、御自身の教会を支配しておられるのです。今の時は教会の時、イエス・キリストの福音を宣べ伝える時です。父なる神はこの世界に終わりをもたらすのを忍耐して待っておられるのです。一人でも多くの者たちが救われるためです。今、私たちは終わりの日に向かって歩んでいるのです。神の国の完成を目指して歩んでいるのです。

2.「かしこより来たりて」

 そして、イエス・キリストに対する告白の締め括りの部分は、将来のイエス・キリストについて語っているのです。

「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん。」

 イエス・キリストは私たち人間を罪から救うために、この世に来てくださったのですが、その救いの業はまだ完成していないのです。イエス・キリストは再び、この地上に来てくださるのです。その時には誰もがこの方が神であると分かる姿で来てくださるのです。復活の栄光に包まれた姿で来てくださるのです。

 「かしこ」というのは、漢字で書くと、「彼」と「処」(所)と書きます。「かしこ」というのは、遠く離れた場所を指します。仏教用語では、この世とあの世を区別するのに、「此岸」と「彼岸」という言葉を用います。彼岸とは生死の海を渡った向こう岸という意味です。キリスト教では「かしこ」というと、広い意味では天の国のことを指しています。しかし、より具体的に言うと、「かしこ」というのは、イエス・キリストが今おられる所、すなわち、「全能の父なる神の右」を表しているのです。イエス・キリストはそこにおいて、真の神として私たちを支配しておられる。今はまだそのお姿は目には見えません。しかし、終わりの日には目に見える姿で、イエス・キリストがこの世に来てくださるのです。今はまだイエス・キリストは離れた所におられます。私たちの目には隠されています。しかし、遂に私たちは顔と顔とを合わせて、イエス・キリストを見る時が来るのです。すべての覆いが取り去られる時が来るのです。

3.「生ける者と死ねる者とを裁き給わん」

 しかし、イエス・キリストは一体何のために、終わりの日に再びこの地上に来られるのでしょうか。使徒信条はそれを

「生ける者と死ねる者とを裁き給わん」

という言葉で表しています。「生ける者」と「死ねる者」とは一体誰のことを指しているのでしょうか。「生ける者」というのは、イエス・キリストが再びこの地上に来られる時に生きている人々のことです。生きてイエス・キリストを見ることが許された者たちのことです。それに対して「死ねる者」というのは、すでに死んだ人々のことです。すでに死んだ人々も終わりの日には目を覚まさせられて、必ずキリストの裁きの座の前に立たされるのです。ですから、聖書は第一の復活と第二の復活ということを語っています。第一の復活は死んだすべての人が復活させられるのです。それはイエス・キリストの裁きの座の前に立たされるためです。最終的にその人が救われるかどうかは、その裁きの座において決定されるのです。そこで救いに定められた人は第二の復活に与ることができるのです。つまり、永遠の命に復活することが許されるのです。それに対して、滅びに定められた者は永遠の死に定められることになります。このような裁きが終わりの日には起こるというのです。

4.最後の審判

 しかし、私はこのことをどれほど真剣に受け止めているでしょうか。私たちの信仰生活においては、ともするとこのことは忘れられ、現世の幸せばかりを求めて生きていないでしょうか。

 これは例えて申しますならば、大学の授業などで最後に試験があるかどうか、それが単位取得に影響するかどうかで、学生の授業の聞き方が全く異なってくるのと一緒だと思います。よく聞く話ですが、キリスト教主義大学などで一般教養の時間に、キリスト教の授業などがあっても、それが単位取得に関係ありませんと、学生は授業中もお喋りや居眠りをして、真剣に授業を聞かないと言うのです。ところがそれが単位取得に関係するや否や、学生の態度は一変、急に真剣にノートを取り始めるというのです。それが点数に響くかどうか、最後にテストがあるかどうか、今後の人生に影響を及ぼすものであるかどうかで、学生の態度や緊張感が全く異なってくるのです。

 この世の終わりの日に、最後の審判があるというのもこれと同じではないかと思うのです。もし最後の審判もなく、この人生をどのように生きても自由だというのであれば、恐らく、皆、自分の好きなようにしたいことして生きるでしょう。人をだまし、ずるいことをしてでも、とにかく自分が人よりも高い地位に上り詰め、金を手に入れ、自分さえ幸せに生きられればそれで良い、というような生き方になるのではないでしょうか。「結局、正直者は馬鹿を見るのだ。悪いことをしても誰にも分からなければ良いのだ。とにかく、人生は、どんな手を使ってでも、上手くやった方が勝ちなのだ。」そういう生き方になるのではないでしょうか。

 しかし、もし最後の日に、人の目には隠されていたことがすべて明るみに出され、私たちはその行いに応じて報いを受けるというのであればどうでしょうか。私たちが人の目に隠れて行った悪、心の中で考えた悪い思いも、すべて明るみに出されるとなったら、私たちの行動の仕方は変わってくるでしょう。

5.ミケランジェロの『最後の審判』

 ヨーロッパの美術館に行くと、このような最後の審判を題材とした絵をよく目に致します。その中でも特に代表的なものは、ミケランジェロの『最後の審判』です。ローマのシスティーナ礼拝堂に飾られている絵ですが、縦14m、横13mの、最後の審判の場面を描いた壮大な絵画です。中央の上の方には、上空に雲に乗ったキリストが描かれています。この絵は先ほどお読みしましたダニエル書とマタイによる福音書の記述に基づいて書かれていると思われます。マタイによる福音書24章30節には

「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見る」

とあります。そのようにミケランジェロは、この絵の中央に、雲に乗って来られた復活のキリストの姿を描いています。キリストは他の人々と比べて一際大きく描かれています。その姿は審き主としての威厳を表すかのように、右手を大きく上げ、最後の審判を下しています。その手には十字架で、釘で刺された時の傷跡や、わき腹にも槍の跡が見られます。その横には母マリヤの姿も見られます。近くには天国の鍵を持ったペトロや、主イエスの代わりに十字架を背負ってゴルゴダの丘にまで行ったキレネ人シモンの姿も見られます。

 マタイによる福音書24章31節には、

「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」

とあります。そのようにミケランジェロは、最後の審判を告げるラッパを吹く天使たちの姿を所々に描いています。面白いのは、地面近く、下の中央に雲に乗った二人の天使たちがいて、それぞれ左は善い行いをした人々のことが記されている書物を手にし、それを広げており、右には悪い行いをした人々のことが記されている書物を手にしている天使が描かれていることです。それに対応して、左側に救いに入れられる人々が天に昇って行く姿が描かれています。それとは反対に、右側には地獄に突き落とされる人々が描かれています。地上には中央に十字架につけられたキリストが描かれています。その左側には死者の中から復活した人々が描かれています。その反対側には地獄行きの舟に乗せられ、地獄に突き落とされている人々が描かれています。中世の人々が思い描いていた最後の審判の情景はこのようなものであったのです。中世にはミケランジェロだけではなくて、他の多くの画家たちも同じような絵を残しています。人々はこのような絵画を通して、最後の審判を恐れるように教育されたのです。

6.裁きから生じる恐れ

 確かに、このような絵画は、人々が最後の審判を恐れて生きるようになるために、ある一定の効果はあったと思います。しかし、それは本当に聖書が語ろうとしていることなのでしょうか。神様はそのように最後の裁きに対する恐れをもって、生きるように望んでおられるのでしょうか。実はそうではないのです。そのような恐れからは、本当の意味で神様が喜ばれるような生き方は生まれて来ないのです。たとえ最後の審判を恐れて、この世で良い行いをしたとしても、それは言うなれば、テストのための勉強のようなもので、本当に自発的になされた行為とは言えないのです。それは恐れから強いられてなされた行為です。しかし、恐れからは、本当に喜びに満ちた生き方は生まれてきません。そこからは神に対する信頼も感謝も生まれてきません。

 これは子供たちに対する教育のあり方を考えて見れば分かると思います。権威を振りかざして、上からどなりつけて、罰を与えて、子供たちに言うことを聞かせることは簡単なことです。それが一番手っ取り早い仕方です。大人は自分の心にゆとりがない時ほど、権威や規則によって子どもを縛り付けようとします。そのように育てられた子どもは、所謂「良い子」に育つかも知れません。そのような子は親や教師の目の色を伺って、大人が見ている前では良い子を演じます。しかし、見ていない所では逆に反動が出て、考えられないようなことをするのです。大切なことはただ親が見ている前、教師が見ている前だけで良い子を演じるような子どもを育てることではありません。誰も見ていなくても自分で判断し、良心に従って行動できるような子を育てなければならないのです。

7.福音から生じる愛

 神様の教育方法もこれと一緒です。神様も規則尽くめで、罪に対して重い罰を加えることによって、人間を恐れさせることもできました。モーセに与えられた律法は、ある意味でそのような役割を果たしました。律法は本来人を縛るためのものではなく、人を生かすための神の言葉なのですが、人間が罪を犯すために、それは裁きへの恐れを引き起こすのです。このような律法による生き方からは、本当の意味で、神様が喜ばれるような生き方は生まれて来なかったのです。そのような生き方からは、神への信頼や愛は生まれてこなかったのです。

 しかし、神はそのように罪の裁きに対する恐れに捕らわれた人々を救うために、イエス・キリストを遣わされたのです。神は罪の裁きを人間に下すのではなく、御自身の愛する御子イエス・キリストに下されたのです。確かに、罪は罪として裁かれました。悪は悪として裁かれなければなりませんでした。しかし、父なる神はその罪の責任を私たちにではなく、イエス・キリストに負わせられたのです。イエス・キリストは私たちの罪を代わりに背負って十字架に架かり、贖いの死を遂げてくださいました。私たち人間の罪に対する罰を代わりに背負い、神の裁きを身に引き受け、神の呪いを私たちから取り去ってくださったのです。最後の日に私たちに下されるはずの裁きは、すでにイエス・キリストが私たちの代わりに負ってくださったのです。イエス・キリストの十字架の死を通して、私たちの罪はすでに神の前に赦されているのです。そして、キリストは死者の中から復活なさることによって、死の力を打ち破ってくださいました。神の子として永遠の命に生きる道を切り開いて下さったのです。もはや、私たちは死を恐れる必要はなくなったのです。己の罪ゆえに、最後の裁きを恐れる必要はなくなったのです。このイエス・キリストの十字架の愛を知らされる時、初めて、私たちの内に神に対する信頼と感謝が生まれて来るのです。神様が喜んで下さるような生き方をしようという意欲が沸いてくるのです。すでに終わりの日の裁きは取り去られている。イエス・キリストが私たちからそれを取り除いて下さった。そのことを知った人は、ただただイエス・キリストに対する感謝の思いで満たされるでしょう。隣人に対しても、そのような愛に生きようという力を与えてくれるのです。キリストは命を捨てて下さるほどに私を愛してくださっている。そのことを知った人は、キリストの愛に応えて生きようとします。キリストが悲しまれるようなことはすまいと固く心に誓います。人は信頼される時に、初めて、その信頼に応えて生きようとするのです。

8.終わりの日に来られる方

 そして、終わりの日には、この方が私たちの所に来てくださるのです。他の誰でもない、私たちの罪のために十字架に架かって死んで下さった方が裁き主として来て下さるのです。最後の裁きを下されるのはイエス・キリストなのです。そうであるがゆえに、終わりの日は私たちにとって、恐ろしい日ではなく、希望の日となるのです。私たちの所に再び来られる方が、この方であるがゆえに、私たちは希望をもって、頭を上げて、前を向き、終わりの日に向かってしっかりと歩むことができるのです。

 最後に、ハイデルベルク信仰問答の問52を読んで終わりたいと思います。

問い:「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。

答え:「わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、
     かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出し
     すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、
     まさにその裁き主が天から来られることを
     待ち望むように、です。
    この方は、御自分とわたしの敵を
     ことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、
     わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、
     すなわち天の喜びと栄光の中へと
     迎え入れてくださるのです。」

天の父よ
 あなたはあなたの愛する御子を通して、測り知ることの出来ない恵みを私たちに与えてくださいました。イエス・キリストは、私たちにとって尽きることのない希望の源です。どうか、終わりの日に、私たちの真の救い主であり、慰め主であられるキリストが来てくださることを待ち望み、希望をもって歩む者とさせて下さい。
 どうか、聖餐を通し、今も天におられるキリストが、聖霊を通して、いつも私たちの側にいてくださり、片時も私たちから離れることがないことを確信させてください。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。