+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教13

旧約聖書:ダニエル書7章13−14節 新約聖書:マタイ福音書28章16−20節

「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」

1.聖書における昇天の記事

 これまで私たちは使徒信条を続けて学んで参りましたが、今回はその13回目

「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」

という告白を学びます。

 これは所謂、イエス・キリストの「昇天」の出来事について語っています。しかし、昇天に関しては、十字架の死や復活と比べて、皆さんには余り馴染みがないかも知れません。実際に十字架の死や復活に関しては、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネすべての福音書において語られているのに対して、昇天に関してはマタイとヨハネには直接的な言及はありませんし、マルコも本来の形では昇天の出来事について記していなかったと思われます。ただルカによる福音書の最後にだけイエスが天に上げられたという出来事がはっきりと記されています。それからルカによる福音書の続編と考えられている使徒言行録の最初においても、昇天の出来事がはっきりと記されています。


 そう致しますと昇天という出来事は、十字架の死や復活と比べて余り重要ではないのではないかと思う方もいるかも知れません。事実、私たち自身も私たちの信仰生活にとって、キリストの昇天はどのような意味を持っているのかということについて、はっきりとした理解を持っていないのではないでしょうか。

 しかし、実際にはイエス・キリストが天に昇られたということは、私たちの信仰生活にとって重大な意味を持っているのです。ある意味では、私たちの信仰生活にとって最も大切なことであるとさえ言えます。言葉を換えて言えば、そこには私たちの人生の意味について語られているのです。ここでは、イエス・キリストがどうしてこの世に来られたのか、その救いの究極的な目的は何であるかが語られているのです。

 使徒信条の言葉遣いを注意深く見て行くと、この部分が全体の中で特別な位置を持っていることが分かってきます。これまでイエス・キリストについて語られた事柄を振返って見ますと、

「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り」

とすべて過去の出来事について語っていたことに気づかされます。それから、その後を見ますと、

「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」

と終りの日に起こるであろうことについて語っていることが分かります。つまり、未来のことについて語っているのです。それと比べると、確かに「天に昇り」も過去において起こった出来事について語っていますが、

「全能の父なる神の右に座したまえり」

は、現在の状態について語っていることが分かります。使徒信条はイエス・キリストの過去・現在・未来について語っているのですが、この部分は現在のイエス・キリストについて語っている唯一の個所なのです。つまり、イエス・キリストは現在どのような状態で、どこにおられるのか、そして、現在の私たちの人生にどのように関わりを持たれるのかということを語っているのです。

2.「全能の父なる神の右に座したまえり」

 さて、私たちはこの告白を丁寧に取り上げてみたいと思います。まずイエス・キリストが上げられた場所が「全能の父なる神の右」であったことにはどのような意味があるのでしょうか。聖書では「右」という位置は、権威を表す場所として理解されています。古代社会においては王に仕え、王の名によって国を治める全権を委ねられた者は王の右に立つことを常としていました。中国でも昔、戦国時代には右を尊んだことから、右は「上位」を表したそうです。日本語でも「その人の右に出る者はいない」という表現があるように、右とは最も高い地位を表しています。あるいは「あの人は私の右腕だ」と言えば、それは一番信頼する部下のことを表します。つまり、全能の父なる神の右に座されたということは、イエス・キリストが父なる神と全く同じ権威ある方として、その座にお着きになられたことを意味しているのです。神の右に出る者は人間の中にはおりませんが、イエス・キリストは父なる神の右腕として働かれる方なのです。それによって、御自分が正真証明神の御子であることを証明なされたのです。この方がどこから来られた方であるかがはっきりと示されたのです。
マタイによる福音書には昇天の記事がないということは最初に申し上げました。しかし、その代わりに主イエスが復活なされた後、ガリラヤにある山に登って、そこで弟子たちに姿を現わされた記事が記されています。「山」というのは、この地上で天に一番近い場所です。モーセに十戒を授けられた時、主なる神はシナイ山の頂上に登るようモーセに命じ、そこで御自身の姿を現わされ、モーセに語りかけました。イエス・キリストも復活なされた後、ガリラヤの山に登り、そこで弟子たちに姿を現わされ、弟子たちに語りかけました。それは御自分があのモーセに姿を現わされたのと同じ主なる神であることを彼らに示すためであったのです。その時、主イエスは次のように語られました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」

 ここでは昇天において起こるのと同じことが語られています。イエス・キリストは死から復活なさることによって、御自分が生も死もすべてを支配なさる神であることを弟子たちに明らかにされました。マタイによる福音書は天に昇るという光景は描いていませんが、内容としては同じことを語っているのです。

 そう致しますと、イエス・キリストが「天に昇り、全能の父なる神の右に座し」ということは、比喩として語られているということが分かってきます。確かに使徒言行録においても、イエス・キリストが弟子たちの見ている前で、天に上げられ、雲に覆われて彼らの目から見えなくなったと伝えています。またダニエル書でも、終りの日には「人の子は雲に乗ってやって来る」と語られています。では科学技術が進歩した現代の世界においては、ロケットで宇宙に飛んで行けば、どこかでイエス・キリストに会えるかといえばそうではありません。「神の右」というのは具体的な場所を表しているというよりも、むしろ、イエス・キリストが本来どのような方であるかを比喩を用いて語っているのです。つまり、あの十字架に架けられた方が、真の神の子であるということを語っているのです。ですから、昇天の出来事は復活の出来事と同じことを語っているのです。そして、今イエス・キリストは父なる神と全く同じ権能を持って、この世界を支配する王の座に着いておられるのです。そこに「座した」ということは、この御支配が一次的なものではなく、永遠に続くことを表しています。

3.人の子の高挙

 さて、もう一つ大切なことは、御子はこの世に来られる時とは異なった姿において天に挙げられたということです。御子は聖霊によって処女マリアに宿り、人としてお生まれになられました。そして、復活なさった時には朽ちることのない復活の身体に甦られたのです。イエス・キリストはこの新しい体をもって天に昇られました。真の神であると同時に、真の人である方が神の右に座されたのです。それまで誰一人として、神の領域に足を踏み入れた人間はおりませんでした。しかし、イエス・キリストは人として初めて死から復活し、神の下に辿り着かれたのです。ここに私たちの希望の源があります。イエス・キリストは御自身を信じる者が必ず死者の中から復活させられ、神の下にまで引き上げて頂けるという希望の源となられたのです。十字架において私たちの罪を代わりに背負い、贖いの死を遂げてくださった方が、今も神の右にいて私たちのために執り成していて下さる。この方がおられる限り、私たちは必ず天に上げられるという希望を持ち続けることができるのです。イエス・キリストは前人未到の領域に最初に足を踏み入れた最初の人なのです。

4.新しい王の即位

 初代のキリスト者たちはこの事実に励まされ、「イエスは主である」と人々に宣べ伝えました。「十字架に架けられた方は死者の中から復活し、天に上げられて、今も生きてこの世界を支配しておられる」というのが、彼らの信仰の確信でした。この世でどんなに栄華を極め、強大な権力と富みを誇る王であっても死を免れることはできません。しかし、イエス・キリストは死をさえも打ち破り、すべてのものを御自分の足下に置かれたのです。もはや、キリストの上に立つものは何一つ存在しないのです。すべてはこの方によって治められているのです。

 今やこの世界を治める新しい王が即位されたのです。それによって、この世界は全く新しい世界に造り変えられたのです。今や旧い支配者である「死」と「悪」が滅ぼされ、新しい王がこの世界を支配するようになったのです。イエス・キリストは御自分の十字架の死と復活を通して、この世界に神の支配、すなわち、神の国を実現されたのです。既に支配体制が替わっているのに、あたかもまだ旧い支配体制が続いているかのように行き続けてはならないのです。もう既に戦争は終わり、決着がついているのに、まだ戦争が続いているかのように怯えて、隠れ続け、戦後何十年かして発見された兵士がいました。それと同じようにまだ世界の多くの人々が、この世界を治める王が替わったという事実に気づいていないのです。

5.伝道の使命

 実際に王が替わり、政府が変わり、政策が変わったとしても、それが国の隅々にまで行き届くにはある程度の時間がかかります。そのことを知っているのは、新しい王の周りにいるごく限られた人々だけなのです。まずは人々に私たちを支配する王が替わったのだという事実を知らせなければならないのです。ニュースが伝えられなければならないのです。既に新しい世界は始まっている。そのことを知らせなければならないのです。だから、キリストは御自分の弟子たちに

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」

と命じられたのです。彼らはその目で復活なされたキリストの姿を見ることが許された人々です。その彼らが今やこの方の伝令として、新しい王が即位されたことを伝えるために全世界に遣わされるのです。これは所謂「大伝道命令」と呼ばれるものですが、一体なぜイエス・キリストの福音が世界の隅々にまで告げ広められなければならないか、その根拠が示されています。つまり、イエス・キリストは文字通り、全世界を治める王として即位されたのです。だから全世界の人々に、この新しい王が私たちの世界を治めておられるということを告げ広めなければならないのです。

 教会はこの喜びの知らせを伝えるために、この地上に建てられているのです。私たちキリスト者はこの使命のために召されています。新しい王であるイエス・キリストの伝令として、人々にこのことを伝えるために特別に選ばれたのです。教会はすでにこの地上において、イエス・キリストが王であることを知っている人々の集りです。現実に御言葉と聖礼典を通して、神の御支配に服している人々の集りです。神の支配は洗礼においてこそ私たちの身に及びます。だからキリストは

「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」

ように命じられたのです。そして、私たちがこの方の教えをしっかりと守って生活をすることを通して、私たちは本当にこの神の国の住人であるということを人々に証するのです。イエス・キリストの教えに聞き従うことを通して、神の支配は具体的に実現して行くのです。


6.御霊の約束

 具体的には、イエス・キリストは聖霊を通して、御自身の教会を支配してくださいます。ハイデルベルク信仰問答の問51は、イエス・キリストが天に昇り、神の右に座しておられることが私たちにどのような益をもたらすのかについて、次のように語っています。

「第一に、この方が御自身の聖霊を通して、御自身の部分であるわたしたちのうちに、天からの賜物を注ぎ込んでくださる、ということ。そうして次に、わたしたちをその御力によって、すべての敵から守り支えてくださる、ということです。」

 その前の問49においても、キリストの昇天の意味について、キリストは私たちをも御自分がおられる所に引き上げてくださることの保証のしるしとして、御自分の霊をわたしたちに送ってくださると言っています。

 復活なされたキリストが天に昇られたということは、私たちも必ず神の下へと引き上げてくださることの保証なのです。私たちはその肉体を天において持っているのです。それは朽ちることのない栄光の体です。聖霊は私たちの目を地上の朽ち果てるものにではなく、この神の下に隠された永遠の命に向けさせてくれます。私たちは聖霊の導きの下に、すでに永遠の命を生き始めているのです。それは決して現実を逃避する生き方ではありません。むしろ、それはこの罪の世を改革する力となるのです。私たちがこの世の朽ち果てるものに心を奪われず、天において約束されている命に生きようとする時、そこには自ずとこの世の罪との戦いが生まれてきます。私たちは既に神の国の現実の中で生きているからこそ、神の国がこの地上で実現することを祈りつつ、生きようと努力するのです。「御国を来らせ給え」という祈りは、この世を改革する最も大きな力となります。

7.教会と国家の関係

 先日私たちは憲法記念日を迎え、日本国憲法が制定されてから60年という記念すべき年を迎えました。そのような中、改憲の是非が論じられ、国中が憲法に改めて関心を寄せています。ここで改憲の是非について論じるつもりはありませんが、私たちの国は60年前戦争に敗れ、決定的に支配権の交替を経験致しました。それまで神として信じられていた存在が実は人間であったと宣言され、主権も天皇から国民へと移されました。基本的人権も保証され、まさに一人一人の人格が同等の価値を持つ社会が憲法によって守られるようになったのです。

 ある神学者がこの使徒信条の個所の解説の中で次のようなことを言っています。もし、イエス・キリストが本当に全世界、全宇宙を治める王となられたのであれば、「究極的には、意識的にであれ、無意識的にであれ、あるいは望むと望むまいとにかかわらず、さらには直接的か間接的かにかかわらず、諸国の政府はキリストの目的に仕える。」

 私たちの国は今大きな転機を迎えようとしています。これは私たちの国家が如何にあるべきかを考える良い機会でもあります。私たちの国も本当の意味で真の王であられるイエス・キリストに仕える国家となるように祈り、努力しなければなりません。

「御名を崇めさせたまえ、御国を来たらせたまえ、御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

 この祈りが本当に実現されるためには、私たちの国はそして国の憲法は如何にあるべきかを真剣に考えなければなりません。私たちも聖霊を新たに注いで頂き、天におられる真の王であり、主であるキリストの御支配に目を開かれて、与えられた人生の日々を精一杯歩んで参りたいと思います。

天の父よ、
 あなたは愛する御子イエス・キリストの苦難と死、復活と昇天とを通して、限りなく豊かな財産を私たちに分け与えて下さいました。どうか、私たちに聖霊を豊かに注ぎ、天に約束されている豊かな賜物に目を向けつつ、希望をもって生き続けることができますようにお守り下さい。どうか、真の王であられるイエス・キリストから権威を委ねられている国の指導者たちに、何よりも生ける真の神であられるあなたに対する畏れを与え、知恵を授け、あなたの御心をこの地上に実現する器として用いてください。今から聖餐の恵みに与りますが、聖餐を通してイエス・キリストが今私たちと共にいてくださることを強く確信することが出来ますようにお導き下さい。そして、私たちがすでに神の国の現実の中に生かされていることを心に留め、この世の罪と戦い、愛に生きる生活を送ることができますようにお守り下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン。