+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教12

旧約聖書:エゼキエル書37章11−14節 新約聖書:マタイによる福音書28節1−10節

「三日目に死人の内より甦り」

1.「復活」と「蘇生」の違い

 本日、私たちはイースターの礼拝を共に守ることが許されました。この日、私たちは

「三日目に死人の内より甦り」

という使徒信条の告白を取り上げます。私たちはこれまで使徒信条を続けて学んで参りましたが、この箇所は使徒信条の中でも最も重要な部分です。同時にまだ信仰を持っていない方々にとっては、これは一番受け容れにくい部分ではないかと思います。一体、死んだ人間が再び生き返るなどということがあるのだろうか。そのような疑問を誰でも持つと思います。それは今も昔も変わりません。弟子たちは「復活されたイエス様に出会った」と人々に宣べ伝えました。しかし、主イエスを十字架に架けて殺したユダヤ人たちは、墓を見張っていた兵士たちに金を渡して「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いふらすように命じたのです,他にも弟子たちの言葉を聞いた多くの人々は、弟子たちの話は馬鹿げていると言って、そっぽを向いてしまいました,死んだ人が生き返るなどということは、今も昔もありえないことだからです。

 しかし、主イエスの復活は、所謂「蘇生」とは違います。確かに聖書の中にも、イエス・キリストが生き返らせた人々が登場します。例えばラザロを生き返らせましたし、ナインという町でやもめの息子を生き返らせました。弟子たちも死人を生き返らせたと伝えられています。しかし、それらの人々は再び死んでしまいました。主イエスの復活はこれとは全く違います。主イエスは再び滅びるような有限の命に復活されたのではなくて、「永遠の命」に復活されたのです。使徒信条が「三日日に」という言葉に拘るのも、生イエスは完全に死なれたのだということを強調するためなのです。それは単なる仮死状態ではなかったのです。イエス・キリストは永遠の命に復活し、今も生きておられる。生きて働いておられる。このことを信じるのが復活の信仰なのです。主イエスの弟子たちは、この信仰ゆえに迫害を受け、中には命を奪われる者もいました。それにもかかわらず弟子たちは「主イエスは死者の中から復活された!」と宣べ伝え続けたのです。それは以前の弟子たちからは考えられないことでした。主イエスが十字架に架けられ殺された時、弟子たちはユダヤ人たちに殺されることを恐れて、逃げ出してしまったのです,その弟子たちが再び集まり、「ナザレのイエスこそ神の子、救い主だ」と言って、世界中に宣べ伝え、教会ができたのです。その教会が二千年も続いて来たのです。どうして彼らはそれほどまでに変わったのでしょうか。それは彼らが復活なされたキリストに本当に出会ったという以外、説明がつかないのです。彼らは本当に死人の中から復活された方と出会ったのです。生ける神と出会ったのです。だから彼らは死を恐れなくなったのです。聖書はこの生ける神との出会いを伝えているのです。大切なことは、私たちが聖書の御言葉を通して、この生ける神と出会うということなのです。復活されたキリストに最初に出会ったのは、弟子たちではなく、主イエスに最後まで従った婦人たちでした。彼女たちは主イエスが葬られた墓を見に行こうとしたのです。恐らく、前の日が安息日であったので、十分な埋葬の準備もできないまま主イエスを葬ったことが気にかかっていたのでしょう。安息日が終わると、彼女たちは週の初めの日、すなわち、日曜日の明け方に主イエスの墓を見に行きました。ところが墓の入り口を塞いでいた大きな石が彼女たちの前に立ちはだかっていました。それは動かしがたい死の現実でした。彼女たちは自分たちの力ではどうすることもできない現実の前にただただ立ち尽くし、途方に暮れるばかりでした。

2.「千の風になって」

 最近「千の風になって」という歌が話題になっていることは皆さんもよくご存知であると思います。

「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。千の風に、千の風になってあの大きな空を吹きわたっています。秋には光になって畑にふりそそぐ。冬はダイヤのように、きらめく雪になる。朝は鳥になって、あなたを目覚めさせる。夜は星になって、あなたを見守る。」

 この歌の不思議な所は、この歌を通して墓の中にいるはずの人が私たちに語りかけてくることです。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。」死んだはずの人が他の命に生まれ変わって、愛する人を見守っている。そのように、この詩は歌っているのです。愛する人との別れというのは絶えがたい現実です。もし、愛する人が死んでも、風や光や雪や鳥になって、いつも近くいてくれることを感じられたら、どんなに大きな慰めになるでしょうか。それがこの歌の持っている力だと思います。この歌はそのような私たちが持っている願望の強さを表していると思います。だから、それほどに人々の心を打つのだと思います。誰もが普通に持っている感情を歌に表したからです。

3.イエス・キリストの十字架の贖いの死

 しかし、聖書を通して教えられる死の現実というものは、これとは全く異なったものです。死は人間が神に背きの罪を犯した結果、この世に入り込んだものです。死は神から永遠に見捨てられることなのです。神の光が届かない陰府の暗闇の中に閉じ込められることです。死は神の裁きであり、呪いなのです。私たちはイエス・キリストの十字架の死を通して初めて、死の本当の恐ろしさを知らされます。十字架上に両手両足を釘付けにされたキリストの姿。これこそが死の本当の現実なのです。この方は息を引き取られる前、十字架上で「わが神、わが仲、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。これが死の現実です。そのような死の現実を一体誰が耐えられるでしょうか。私たちは死を美化せずには、それに耐えられないのです。しかし、イエス・キリストはただ一人、この死の本当の現実を耐え忍ばれたのです。罪のない神の御子が私たちに代わって、この死を死んで下さったがゆえに、神の怒りと呪いは取り去られたのです。このキリストの死を素通りして、何か他の命に生まれ変わることを語ることは幻想に過ぎません。私たちはイエス・キリストの十字架の死を通して、私たちの罪が赦されているということを信じる時、初めて、死の向こう側に希望を見出すことができるのです。キリストの十字架の死と復活を通して、今や人間の力でばどうすることもできない現実が動かされたのです。婦人たちが見ている前で地震が起こり、天使が現われ、墓の石を脇へ転がし、墓の入り口が聞かれたのです。

4.復活

 天使は言いました。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」

 これは単なる願望ではありません。主を愛する女性たちの思いが募り、「生きていてくだされば良かったのに」という彼女たちの願望が生み出した信仰ではないのです。主は事実、墓を突き破って復活なさったのです。婦人たちはこの知らせを聞くと、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、天使が命じた通りに弟子たちにこの知らせを伝えるために走って行きました。彼女たちはそれまで墓の方を向き、過去に縛られていました。過去に縛られている人間は今の時を十分に生きることができません。それはどこかで現実から逃避した、後ろ向きな生き方になってしまいます。

 しかし、過ぎ去ったものの中には、彼女たちが求めていたものはありませんでした。彼女たちが求めていた方は彼女たちの前方におられたのです。今や彼女たちは180度向きを変え、新しい人生の第一歩を歩み始めたのです。彼女たちの行く手には復活された主イエスが待っておられる。それが彼女たちを立ち上がらせ、走る力を与えたのです。彼女たちが向きを変え走り出した道の途上に、復活された主イエスは立っておられました。主イエスは彼女たちに「『おはよう』」と挨捗をされました。これはギリシャ語の挨捗で文字通りに訳せば「喜びなさい」という挨拶です。彼女たちの人生は復活の主に出会うことによって、悲しみから喜びへと変えられたのです。死が最後ではない。死をさえ支配される方がおられる。彼女たちは生ける真の神に出会ったのです。ですから、彼女たちは主イエスに近寄って、その足を抱き、その前にひれ伏しました。彼女たちは、復活なされた主を最初に礼拝した者たちなのです。ここからキリスト教が始まりました。

5.弟子たちとの和解

 主は彼女たちに言われました。

「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤヘ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 主イエスはここで、弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と言われました。主イエスはご自身を裏切り、見捨てた者たちのことをなおも、「わたしの兄弟たち」と呼ばれ、彼らに再びガリラヤで出会われると約束されるのです。主は弟子たちの罪を赦し、ご自分を裏切った弟子たちを「兄弟」として受け入れ、彼らに再びお会いになる約束をなされたのです。ご自分の方から彼らに和解の手を差し伸べられたのです。それは彼らに対してだけではなく、私たちすべての者に差し出された和解です。キリストの復活の出来事を通して、世の初めから変わることのない神の御心がはっきりと示されたのです。神は私たちが滅びることではなく、生きることを望んでおられる。過去に捕らわれて後ろ向きな人生を送るのではなくて、しっかりと前を向いて生きることを望んでおられる。悲しみの中に打ちひしがれるのではなくて、喜びの内に光り輝いて生きることを望んでおられる。この神の永遠に変わることのない御心が、イエス・キリストの復活を通して明らかに示されたのです。

 弟子たちは復活の主に出会って初めて、彼らの人生の意味を知るようになりました。なぜ、彼らが弟子として選ばれたのか。彼らは決して特別な才能を持った人々ではありませんでした。むしろ、彼らは欠けも多く、心の中に弱さを抱えていました。主はそういう者たちを敢えて、御自分の弟子とされたのです。一体なぜでしょうか。それは彼らが失敗と挫折を通して、主の深い愛を経験するためであったのです。そのような彼らの失敗や坐折も主の御業のために用いて頂ける。十字架の前で主を見捨てて、逃げ出してしまうような罪深い人間であっても、主はなおその罪を赦し、御自分のご用のために用いて下さる。その生きた証人となるために彼らは選ばれたのです。彼らはその弱さゆえに選ばれたのです。その罪深さゆえに選ばれたのです。そのような彼らの弱さと罪深さの中で、主の復活の力がより一層はっきりと示されるために彼らは選ばれたのです。

 
弟子たちにも、それまでは自分よりも豊かな才能を持っている人を羨む気持ちがあったと思います。自分よりも幸せそうに見える人の人生を羨むような気持ちがあったと思います。実際、主イエスが生きておられる時、彼らは誰が一番偉いかということで言い争いになったのです。しかし、復活されたキリストに出会った後、彼らはもはや、他人の人生を羨むことはなくなりました。むしろ、こんな自分でも罪赦され、神に愛されていることを知ったのです。彼らはむしろ、自分たちの弱さを誇るようになった。弱さを持って生まれてきたことに感謝することができるようになったのです。なぜなら、

「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

ということを知るようになったからです。イエス・キリストはそのような私たちの弱さや病気や挫折を、御自分の卸業のために用いて下さる。イエス・キリストの十字架の死と復活の力によって、私たちの弱さや失敗も意味あるものに変えられるのです。

6.「イエスは勝利者だ!」

 19世紀のドイツで活躍した牧師でブルームハルトという牧師がいます。このブルームハルトは、父ブルームハルトと子のブルームハルトがおり、親子共に有名です。ブルームハルトは非常に特異な経験をした牧師でありますが、20世紀を代表する神学者であるカールバルトや、ブルトマンなどに非常に大きな影響を与えた牧師親子です。父ブルームハルトは牧師として働く中で、ある時非常に特異な経験をし、その経験を通して、イエス・キリストが今も生きておられるということ、神の国はすでに力をもってこの地上で実現し始めていることを証ししたのです。

 父ブルームハルトは、まだ33歳という若い時に、シュトウットガルトから西に30キロ位の所に位置するメットリンゲンという小さな村の牧師に就任致しました。1838年のことでありました。メットリンゲンの町は彼が赴任した当時、住民535人という小さな村でした。その村には、ゴットリービン・ディトウスという娘がいました。彼女はブルームハルトが牧師として就任した時には23歳でした。彼女はとても利発な少女でしたが、小さい時から様々な病気に苦しんでいました。

 ある時、彼女の家族は教会の近くの家に移転してきました。しかし、移転して最初の日に彼女が食卓で祈っていると、突然発作に襲われて、床の上に倒れてしまいました。彼女はその後、ますます激しい痙攣に襲われるようになりました。彼女の苦しむ様を見て、父ブルームハルトは、彼女の中に悪魔が働いていると思いました。悪魔に取り付かれ、悩まされる彼女の姿を見て、彼は真剣に神に助けを折り求めたのです。と同時に、彼はどうして、このような人間の悲惨に対して、神はご自身の力を持って介入されないのかという憤りを覚えました。彼は元来非常に冷静なタイプで、熱狂的な信仰の持ち主ではありませんでしたが、そのような暗黒の力に直面し、信仰の戦いを余儀なくされました。彼は彼女を悩ます悪の力に対して、祈りと神の言葉とを以って戦ったのです。彼は悪魔に取り付かれ発作を起こす少女の手を握り締め、「主イエスに助けを求めなさい」と大声で叫びました。その瞬間、少女の発作が治まり、しばらく落ち着きを取り戻しましたが、またしばらくすると発作を起こすということを繰り返しました。

 そのような戦いは二年間にも及びましたそして、果てしなく続くと思われた戦いも遂に終わる時が来たのです。その時、ゴットリービンを悩ましていた悪霊の力は、妹のカタリーナにも及んでいました。カタリーナの状態はいよいよ悪化して錯乱状態になり、ブルームハルトにまで襲い掛かってくるほどでした。するとカタリーナのロから絶望の叫び声が発せられ、それが15分ほど続きましたそれは家が壊れるのではないかと思われるほどのものでした。

 しかし、そこで次の瞬間、信じられないような出来事が起こったのです。彼女は明け方の2時頃、頭と上半身を椅子の背にのけぞらせていました。その時に人間の喉から出るとは思えない声で「イエスは勝利者だ!イエスは勝利者だ!!」と吼えるように叫んだのです。次の瞬間、悪霊の力は見る見る内に奪われて行きました。そして、ゴットリービンもカタリーナも悪霊の力から解放されて、元通りの生活を送るようになったのです。

 この姉妹たちはその病のために社会性を失い、現代的に表現するならば「負け組」の中に数えられるような人々かも知れません。しかし、彼女たちはその病ゆえに復活されたキリストの生きた証人として用いられたのです。この体験は父ブルームハルトにとって強烈な印象を残しました。「イエスは勝利者だ!」と彼女の口を通して語られた言葉が彼の心に深く刻み込まれました。このような経験を通して、信仰は単に心の中だけの問題ではない。悪の力が私たちの世界に働いているように、それに遥かに勝る仕方で神の力は現実に働いている。そして、復活されたキリストは今も死の力に打ち勝った勝利者として、私達の世界を支配しておられるという確信を彼は持つようになったのです。この方と共に神の国はすでにこの地上に始まっている。神の支配はこの方と共に今も前進しているのです。

 私たちは神の国が今日もまた一歩前進することを折り求め、「イエスは死から復活なされた。イエスは勝利者だ!!」と力強く証しして参りましょう。

天の父よ
今日、私達は主が死から復活なされた喜びの日、イースターの礼拝を共に祝うことができ感謝致しますこの日、主は私達の人生を支配する死を打ち破り、死に勝利されました。どうか、復活の主よ、今、死の現実と戦っている者、動かし難い現実の前に打ちひしがれている者、愛する者を失い悲しみの中にある者、生きる希望を失っている者と共にいて下さり、復活の力によって満たして下さい。そして、どんな時にもあなたの愛は私たちを見放すことはないことを確信させて下さい。この折りを主の御名によって折ります。アーメン。