+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教11

旧約聖書:イザヤ書53章8−10節 新約聖書:マタイ福音書27章45−61節

「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」

1.「死にて葬られ」

 私たちはこれまで使徒信条を続けて学んで参りました。どうして、この時期に使徒信条を学ぶかと申しますと、それは間もなく私たちの教会が創立100周年を迎えるからです。この一つの節目の時に、私たちはもう一度、信仰の原点に立ち返り、本当に皆が信仰において一致し、しっかりとした信仰の土台の上にこれからの教会を築いて行きたい。そのような思いで使徒信条を学んでいます。受難節第二主日を迎えた今日、私たちは

「十字架につけられ、死にてほうむられ、陰府にくだり」

という信仰の告白について共に学びたいと思います。ここは使徒信条の中でも中心の中の中心と呼ぶことのできる個所です。私たちは今、その最も重要な部分に差し掛かっています。

 そこでまず私たちは「死にて葬られ」という言葉に注目したいと思います。改めて考えてみますと、使徒信条の中に「葬られ」という言葉がわざわざ入れられていることは不思議なことではないでしょうか。「イエス・キリストは十字架に架けられ死んだ」と言えば、それで十分ではないでしょうか。それを「死にて葬られ」とわざわざ言葉を付け足して告白しているのです。確かに福音書においても、先ほど読みましたように、アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を引き取り、自分の新しい墓に主イエスの遺体を葬ったということを伝えています。この点に関しては、4つの福音書が一致して証言しているのです。それほどに重要なこととして、弟子たちはこのことを伝えたのです。

2.葬られること

 人が墓に葬られるということには、一体どのような意味があるのでしょうか。私たちは誰でも、いつかは死んで墓に葬られます。私たちがどんな人生を歩んだとしても、最終的には皆が同じ場所に行き着くのです。それが墓という場所です。遺骨を納めた墓は重い石によって閉じられます。主イエスのご遺体が納められた墓も入り口が丸い石で閉じられていました。それはその人の生涯がそこで完全に閉じられたということを意味しているのです。人生が締めくくられ、その人は完全に過去の人となるのです。確かに私たちが死んだ後も、私たちは人々の記憶の中で生き続けるかも知れません。しかし、それも私たちを知っている人々が生きている限りのことで、その人たちも死んでしまえば、私たちは忘れ去られ、過去の人となるでしょう。私たちが死んで葬られ、やがては人々から忘れ去られるということ。それが私たちの人生を空しくしているのではないでしょうか。愛する人の墓の前に立つ時、私たちはそのような空しさを心の中に覚えるのではないでしょうか。今まで当然のように身近にいた親しい人が、急に目の前からいなくなり墓に葬られる。それを見て、自分もいつかは同じように死を迎え、人々から忘れ去られて行くことに空しさを覚える。それは皆経験することだと思います。

3.「墓の中のキリスト」

 イエス・キリストもまた、そのような人生を歩まれたのです。この方もすべての人が歩むのと同じ道を歩まれました。この方も死んで、墓に葬られたのです。当然のことのようですが、私たちは案外、このことを軽く受け止めてしまっているのではないでしょうか。キリストは復活されたがゆえに、私たちはどこかでキリストの死を軽く受け止めてしまう危険があるのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストの死は、いわゆる仮死状態とは違います。キリストは一人の人として本当に死んだのです。「葬られ」という言葉が付け加えられていることは、それが完全な死であったことを語るためなのです。

 私はある時、このことを強烈に印象付けられた経験を致しました。それは私がドイツに留学していた時のことです。ある時、スイスのバーゼルという町に行く機会がありました。そこである美術館に行き、大変珍しい絵に出会いました。それはハンス・ホルバインという人が描いた絵で「墓の中のキリスト」という題が付けられていました。その題の通り、それはまさに墓の中に横たわっているキリストの姿だけを描いた絵なのです。これは大変珍しい絵です。その絵は美術館の中にある小さな四角い部屋の中に掲げられておりました。その部屋の中に入った瞬間、何か異様な空気を感じました。偶々その時、その部屋の中には私一人しかおりませんでした。入って左の方を向くと、墓の中に横たわったキリストの姿が私の目に入ってきました。それは恐らく等身大のキリストで、立派な木でできた額の中に、墓の石の中に横たわったキリストが描かれているのです。まさにキリストの墓の中を真横から覗き込むような図になっています。狭く細長い棺の中には息を引き取り、白目をむき、青ざめたキリストの顔が描かれています。キリストはあお向けに顎を開いて寝ているのですが、浮き出た肋骨の上には、槍で刺された傷が生々しく残っています。体と並行に伸ばされた手の平と足には、やはり、釘で刺された痕が痛々しく描かれています。手足は血の気を失い腐食しかけているのか、どす黒く変色しています。

 あまりの強烈な印象に暫くの間その絵から目を離すことができませんでした。そのあまりのリアルなキリストの姿に、私はあたかも死んで墓の中に横たわっているキリストと二人きりでその部屋の中にいるような印象を受けました。その部屋には、実際にキリストがそこにおられるというような雰囲気が漂っていました。死臭さえ漂ってきそうなほどリアルなキリスト像です。かの有名なドストエフスキーは「これを見ると信仰を失う人もいる」と言ったと伝えられています。

 確かに、私達はキリストが十字架にかけられ死に、墓の中に葬られたということをリアルに想像すればするほど、イエス・キリストが墓の中から復活なされたということを信じることが難しくなるのではないでしょうか。

4.死を越えた希望

 しかし、主イエスはそれほどに謙って、私たちと運命を共にして下さったのです。そして、私たちと共に人生を歩むパートナーとなって下さったのです。私たちにとって人生を共に歩むパートナーが与えられるということはとても幸いなことです。結婚もその一つです。結婚はお互いの運命を担い合うことです。相手の背負っている重荷を自分の重荷として背負う。反対に自分の背負っている重荷を相手にも背負ってもらう。それによって私たちの荷は軽くなります。しかし、どんなに愛するパートナーであっても、共に歩むことができるのは死の前までです。その先からは私たちは一人で行かなければなりません。死ぬ時は皆孤独です。親子であっても同じです。

 しかし、主イエスは夫婦でさえも一緒に行くことができない場所にもついて来て下さるのです。親子の絆をさえ引き裂く死でさえ、この方の愛から私たちを引き離すことはできないのです。この方は陰府の底にまで来て下さるのです。陰府に下るということは、神から永遠に見捨てられるということです。陰府はもはや神の光が届かない場所です。そのような場所へとキリストは下って行かれたのです。それは、私たちがどんなに激しい試練の中にある時も、キリストがそこに共にいて下さるということを証するためであったのです。

 しかし、それはいつまでも私たちと共に墓の中に留まるためではありません。苦しみの中、死の中に留まるためではありません。そうではなく、墓の石を突き破り、そこから私たちを引き出すためにこそ、この方は墓の中に来られたのです。すべてはこの場所から始まったのです。すべてが終わるはずの場所からすべてが始まったのです。キリスト教は墓から始まったのです。すべてのものを飲み込んでしまうはずの場所が、永遠の命が輝き出る場所に変えられたのです。

5.キリストの死の意味

 しかし、どうしてそんなことが起こったのでしょうか。その秘密はこの方の死に隠されています。この方は私たちが普通経験するのとは異なった死を経験されました。この方は十字架に架けられて殺されました。罪のない方が罪を犯した犯罪人として裁かれ、死刑に処せられたのです。ユダヤ人にとって、木に架けられて殺されるというのは、その人が神に呪われた者であることを意味しました。神から呪われるということは、永遠の滅びに突き落とされることを意味します。陰府というのは、神に呪われた者が最終的に行き着く場所です。父なる神が愛される独り子なる神が、神に呪われた者として十字架に架けられ、死んで陰府に突き落とされたのです。それがどれほど恐ろしい死であったかは、キリストが十字架において息を引き取られる直前に叫ばれた言葉からも分かります。神の子である方が

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

と叫ぶほどに恐ろしいことであったのです。なぜ神の御子であられる方がそのような死を経験しなければならなかったのか。その答えを今日与えられましたもう一つの御言葉イザヤ書53章が与えてくれます。

 
これは「苦難の僕」の歌と呼ばれています。イザヤ書40−55章はいわゆる第二イザヤと呼ばれる預言者の語った言葉とされています。これはイスラエルの捕囚時代、紀元前6世紀に語られた言葉と言われています。その時代、イスラエルの国は戦争に負け、敵国によって占領され、捕虜として敵国に連れて行かれたのです。そこでイスラエルの人々は辛酸を嘗め尽くしました。第二イザヤと呼ばれる預言者は故郷を離れた遠い地にあって、そのような捕虜の状態にある民に向かって、神の言葉を語ったのです。そして、やがて民に救いが訪れることを約束しました。しかし、それはダビデのような英雄的な王によって与えられる救いではありませんでした。そうではなく、人々から見捨てられた一人の人を通して、神はイスラエルに救いを与えて下さると預言したのです。

 53章2節によると、この人は「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」人でした。聖書で活躍する人物は大抵、姿の美しい人でした。創世記に出てくるヨセフにしても、ダビデ王にしてもそうでした。ダビデは「血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」と記されています。私たちはそういう人々に理想を抱きます。私たちの社会では表舞台に立って、脚光を浴びる人々ばかりが目立ちます。しかし、この人は違いました。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」人でした。人々は彼から顔を背け、彼を軽蔑し、無視したのです。彼はその病んだ姿が余りに惨めであったために、人々から嫌われていたのです。しかし、彼はどんなに人々から苛められ、軽蔑されても、人々にやり返しませんでした。あたかも、これから屠殺場に引いて行かれる小羊のように、彼は黙って人々からされるがままであったのです。人々はまさか彼によって、自分たちが救われるとは夢にも思っていなかったのです。

6.世を支える犠牲

 私は牧師として教会におりますと、そういう現実をよく目に致します。もし、人生に光と影の部分があるならば、牧師の仕事は明らかに人生の影の部分に関わる仕事だと思います。牧師という仕事は、世間の裏側をいつも見ているような仕事です。教会という場所そのものがそうだと思います。私は神学大学を卒業する時に、ある教授から牧師の仕事は「3K」だと言われました。「危険、きつい、汚い」。つまり、人間の汚い面に接するのが牧師の仕事だと言われました。たとえ、世の第一線に立って、華々しく生活を送っているように見える人でも、実は暗い闇を心に抱えながら生活をしている。そういう部分に接するのが牧師の仕事です。これだけ科学技術が進歩し、生活も便利になり、人々の生活も豊かになり、社会福祉も進んだ社会の中にあっても、なお教会は必要とされていることを痛切に感じさせられます。反対に申しますと、社会では誰も担ってくれない問題というのが幾つもあるのです。誰も責任を取ろうとしない。皆嫌なことは人に押し付ける。その行き場がないのです。それを受け止める場所が私たちの社会にはどうしても必要なのです。

 そういう世間の裏側を見ておりますと、ふと思わされることがあります。一体、この社会は誰によって支えられているのだろうか。少なくとも連日、テレビに登場し、世の脚光を浴び、華々しい生活を送っている一部の人々によってだけ社会が支えられているのではないことは確かです。むしろ、そういう華々しい生活を送っている人々の背後には、名も知れず犠牲になり、苦しみを背負っている無数の人々がいるのです。私たち自身も気づかない所で、そういう人々の犠牲によって支えられているということがあると思います。母親の産みの苦しみ一つとってもそうでしょう。「私」という存在が世に出てくるために、母親が産みの苦しみを耐え忍び、自分を犠牲にしてくれた。そのような目には見えない無数の犠牲によって、私たちの存在は支えられているのです。

 そして、その根底には、イエス・キリストの犠牲があります。このたった一人の人の犠牲によって人類全体が支えられ生かされているのです。

「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」「彼は自らを償いの献げ物とした。」彼は「民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれた。」「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。」

この方の犠牲の死によって、私たちは罪赦され、生かされているのです。

7.洗礼との関係

 キリストは私たちと共に死んで墓に葬られました。それはこの方と共に私たちが永遠の命に復活するためです。具体的には、私たちが洗礼を受ける時、イエス・キリストの身に起こったことが私たちの身にも起こるのです。洗礼はイエス・キリストと共に葬られることであるとパウロは言いました。ローマの信徒への手紙6章4節にそのことが述べられています。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

 洗礼はキリストと共に葬られることです。キリストの死に与ることです。洗礼を受けた者はすでにこの方と共に葬られ、新しい命に復活させられているのです。すでに罪の支配から解放されているのです。そのような新しい命を私たちはこの方と共に生きることが許されているのです。

 教会はこの苦難の僕であるイエス・キリストの栄光を宣べ伝えるために立てられているのです。ですから、教会はこの世の栄光を求めてはなりません。むしろ、人の目には隠された所で、人々の苦しみを共に担い、支えて行く。そこにこそ、教会と私たちキリスト者の使命があるのではないでしょうか。


天の父よ
 私たちはすぐに欲に目が眩む愚かな者たちです。人の目に映るものに心を奪われ、周りの人を犠牲にしてでも、自分が栄冠を勝ち取ろうとする愚かな者です。どうか、イエス・キリストの十字架によって、私たちの傲慢さを打ち砕いてください。そして、どうか、私たちがキリストと共に新しい命に甦らされ、罪から自由になり、神と人とに僕として仕える生き方をすることができますように、聖霊によって私たちを内から造り変えて下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン。