+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教10

旧約聖書:イザヤ書53章1−8節 新約聖書:マタイ福音書27章1−2節、11−26節

「ポンテオ・ピラトのもとに」

1.「ポンテオ・ピラト」

 これまで私たちは使徒信条について続けて学んで参りました。本日は第10回目、「ポンテオ・ピラトのもとに」という告白について学びたいと思います。ポンテオ・ピラトとはどのような人物であったのでしょうか。今日与えられましたマタイによる福音書27章1節の御言葉によれば、彼は「総督」であったことが分かります。当時、イエス・キリストがお生まれになったユダヤの国は属州ユダヤとして、ローマ帝国の支配下に置かれていました。ピラトは属州ユダヤを治める総督として、ローマ皇帝によって任命されていた人物であったのです。

 しかし、一体なぜ、ローマ総督の名前が使徒信条の中に入れられたのでしょうか。一つはそれによって、イエス・キリストが苦しみを受けられた時が何時の時代であったかをはっきりと示すためであったと思われます。ポンテオ・ピラトは、紀元26年から36年の間、属州ユダヤの総督でした。それは聖書以外の資料からも確証されています。このピラトの名前が使徒信条の中にあることによって、私たちはそれが具体的にいつ起こった出来事であるのかをはっきりと知ることができるのです。それによって、イエス・キリストの十字架の出来事が人間の作り話ではなくて、現実にこの歴史の中で起こった出来事であることを証ししているのです。

2.「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」

 しかし、それよりも大切なことは、使徒信条において

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」

と告白されていることです。前回、「苦しみを受け」という告白の意味を学んだ時、使徒信条は主イエスの生涯を「苦しみを受け」というたった一言によってまとめたということをお話しました。しかも、それは「ポンテオ・ピラトのもとでの苦しみ」であったと使徒信条は告白しているのです。それは一体どういう意味でしょうか。

 白銀教会の受洗準備会やキリスト教入門講座でテキストとして用いられている『ハイデルベルク信仰問答』の問38はそれを次のように説明しています。

問:「なぜその方は、裁判官『ポンテオ・ピラトのもとに』苦しみを受けられたのですか。」

答:「それは、罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたちを免れさせるためでした。」

 ここで気付かされることは、ポンテオ・ピラトを「裁判官」と呼んでいることです。問いにおいても、答えにおいても、二度繰り返して、彼が「裁判官」であったことを強調しています。総督にはいろいろな権限が与えられていましたが、ここでは特に裁判官としての任務が強調されています。今日は特に裁判官としてのピラトに注目したいと思います。

 そもそも主イエスを十字架に架けて殺そうとしたのは、ポンテオ・ピラトではなくユダヤ人の指導者たちでした。彼らはすでに自分たちの最高法院において、主イエスを裁判にかけ、死刑にすることを決定しておりました。ところがユダヤ人たちは総督ピラトの許可なしに、死刑を執行することができなかったのです。ですから、27章1節以下にありますように、ユダヤ教の指導者である祭司長たちや民の長老たちは主イエスを縛り、総督ピラトに引き渡したのです。そのピラトの法廷でキリストは裁きを受けられ、有罪の判決を下されることになります。つまり、イエス・キリストが受けられた苦しみは「罪に対する裁き」であったのです。

3.裁判官の責任の重さ

 イエス・キリストに死刑の判決を下す権限を持っていたのは、このポンテオ・ピラトだけでした。もし、彼が認めなければ、主イエスは十字架に架からずに済んだのです。彼の判決によって主イエスが最終的に死に引き渡されることになりました。このように裁判官は、一人の人の一生を決定づける重大な判決を下さなければならないのです。それほど責任の重い仕事です。しかし、どんな有能な裁判官であったとしても誤った判決を下す恐れは常にあります。人間の下す判断には絶対ということはありません。どんな場合でも「それがもしかしたら間違っているかも知れない」という不安を残します。もし、仮に死刑を宣告して、後になってその人が無実であったということが明らかになったとしたら、その判決を下した裁判官は生涯、その罪の負い目を背負って生きなければなりません。人間に対してもそうなのですから、まして、真の神であられる方に対して、その無罪を知っていながら有罪判決を下したピラトの責任というのはどれほど重いものでしょうか。彼はこの時、世界の歴史を左右するような重大な判決を下したのです。これほど重大な判決は、人類史上、後へも先へもありませんでした。彼は歴史の中で最も重大な決断をしなければならなかった人物であったのです。罪ある人間が真の裁き主なる神を裁いたのです。ここにおいて、神の御前における人間の罪の姿が決定的に明らかにされました。本当は人間の方がその罪を神によって裁かれなければならないのに、反対に人間は傲慢にも神を裁いたのです。それほどに傲慢な者なのです。ここでのピラトの姿は、そのような神の御前における人間の傲慢の罪を明らかにしています。

 そのように考えると、ポンテオ・ピラトの名が、イエス・キリストの名と共に代々に語り継がれていることは納得が行きます。もちろん、彼自身はこの判決の重みを理解していなかったと思います。この判決が人類の歴史に対して、どれほどの影響をもたらすか、まさか、自分の名前が何千年もの時を経て語り継がれるとは夢にも思っていなかったことでありましょう。もし、彼がこの時下した判決の重みを本当に理解していたならば、彼はぞっとしたはずです。もし、私たちがそのような立場に立たされるならばぞっとします。

4.ピラトの責任

 もちろん、主イエスに死刑の判決を下したことに対して、ピラトだけに責任を負わせることは正しくありません。今日与えられました御言葉を読む限り、ピラトは主イエスの内に死刑に値するような罪を見出せなかったのです。彼は何度もこの方を救おうと努力しました。祭りの際に恩赦を出す慣習を利用して、この方を釈放しようとしました。しかし、民衆は犯罪人「バラバ」の方を選んだのです。ピラトの妻も彼に思い留まるように促しました。そして、最終的に判決を下す時も、水で手を洗って、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの責任だ」と身の潔白を主張したのです。このように見ますと、私たちはピラトに同情する気持ちも沸いてくるのではないでしょうか。

 しかし、たとえそうであっても、やはり、私たちは彼自身の責任を見過ごすわけには行きません。彼がどんなに身の潔白を主張し、「この人の血について、わたしには責任がない」と言ったとしても、やはり、最終的にこの方に有罪判決を下した責任はピラトにあるのです。24節には「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て」諦めたことが記されています。彼は群衆が騒動を起こすのを心配したのです。彼が治めている領土で騒動が起きれば、彼自身の責任を問われることになります。それがローマ皇帝に知れれば、彼は解任される恐れもあったのです。彼は正義を守り、不義を裁く重大な責任を負った裁判官でありながら、自分の身を守るために群衆の声に屈してしまったのです。彼は正義を曲げてしまったのです。どんなに彼が自分には責任がないといっても、やはり、彼は自分に与えられた職務を怠ったのです。その結果、彼は罪のない方を死に引き渡してしまったのです。しかも、真の神であられる方を死に引き渡してしまったのです。ここにおいて人間の持っている深い罪が明らかにされたのです。人間は正義を貫くことよりも自分の地位を守ること、自分の身を守ることを優先してしまう弱い者であることが明らかにされたのです。これはいつの時代にも見られることです。

 ある方が現代の裁判官について記した書物の中で、ギリシャ神話に出てくる正義と法の女神「ユスティティア」の話をしています。「ユスティティア」は「公正」や「法」を意味します。この女神は法の精神を表す神として、裁判官たちの間で崇められているそうです。この女神は右手に剣を持ち、左手に天秤を持っています。剣は正義と悪を裁く強さを表し、天秤は公平を象徴しているそうです。

 しかし、この女神にはもう一つ大きな特徴があるそうです。それは女神が目隠しをしていることです。つまり、裁判官は予断や偏見を一切排し、心眼(心の目)で判断しなければならないということを表わしているのだそうです。その目隠しは、人の顔色を伺って正義を曲げたり、自分の利益に捕らわれて、自分に都合の良い判決を下さないようにするためのものなのです。ところが日本の最高裁判所の中に置かれている女神の像にはなぜか「目隠し」がないというのです。それは裁判官が宿命的に負っている誘惑を象徴的に表していると言うのです。

 この例えは私たちにも大切なことを教えてくれていると思います。私たちは兎角、人間的な情や欲に左右されやすいものです。自分の立場を守ろうとしたり、人の顔色を伺って、正しい判断ができなくなる時があります。ここでもポンテオ・ピラトは目をつぶってでも、正義を貫かなければなりませんでした。「自分の地位を守りたい。今の生活を失いたくない」という気持ちを捨てて、法に仕える公僕としての務めに徹するべきであったのです。ところが、彼はそのような誘惑に打ち勝つことができなかったのです。このような一人の人の誤った判決によって、一人の罪のない方の命が十字架の死に引き渡されることになったのです。これは私たちの人類が繰り返し犯してきた過ちなのです。

5.裁かれた神

 しかし、驚くべきことに、聖書はこのピラトの誤った決断が、実はもっと重大な意味を持っていたことを明らかにするのです。確かにピラトは罪のない方を十字架の死に引き渡した責任を問われなければなりません。しかし、聖書が明らかにすることは、実はそれが、父なる神の御心から出たことであったということなのです。イエス・キリストを十字架の死に引き渡したのは、他ならぬ父なる神であった。主イエスは人間の裁判官による裁きを受けることを通して、実は、私たち人間の罪に対する神の裁きを受けておられたのです。父なる神の裁きを御子なる神が受けられたのです。神が神を裁かれた。そのような出来事がここで起こっているのです。それがイエス・キリストの苦しみと十字架の死の本当の意味なのです。

 もちろん、イエス・キリストをピラトの法廷に引き渡した祭司長たちや民の長老たちは、その罪の責任を免れることはできません。彼らは自分たちの救い主を異邦人の裁判官の手に引き渡したのです。そして、誤った判決を下したピラト自身の責任も問われなければなりません。しかし、神はこのような人間の罪の行為や誤った判断をも、御自身の救いの御業のために用いることがおできになるのです。その意味では、ポンテオ・ピラトは、人類にとって決定的に重大な決断を下す器として用いられたのです。彼がイエス・キリストを十字架の死に引き渡したことによって、人類の罪に対する贖いの御業は成し遂げられたのです。

 ポンテオ・ピラトの法廷におけるイエス・キリストの姿は、神の御前における私たち自身の姿を現しているのです。私たち人間が本来、神の裁きを受けなければならない者であること、それほどに重い罪を神の御前に犯していること、本当は私たちが十字架に架けられ、殺されなければならない罪人であることを示しているのです。しかし、父なる神はこの裁きを私たちに下すことはなさらず、その代わりに御自身の愛する御子に下されたのです。彼が受けたのは、私たちの罪に対する裁きであったのに、そのことに誰一人気付かなかったのです。

6.神の僕の苦しみ

 そのことはすでに旧約聖書イザヤ書53章に預言されていたことでした。

「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。…捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」

 これは第二イザヤと呼ばれる預言者が語った言葉です。第二イザヤは紀元6世紀頃、南ユダ王国がバビロニア帝国によって捕囚にあった時代に活躍した預言者です。それが具体的に誰のことを語っているのか、私たちには分かりません。しかし、その意味は分かります。イスラエルの民は神に背き、罪を犯した結果、神に見棄てられ、捕囚に遭いました。その失われた民が、もう一度神の民として回復されるためには、罪なき人が彼らの罪を代わりに負って苦しみを受けなければならなかったのです。そのように人々が気付かない所で、人々のために苦しみを担った人がいるのだということをこのイザヤ書の言葉は語っているのです。

7.十字架による大転換

 そして、それがイエス・キリストが受けられた苦しみを預言する言葉として受け止められたのです。私たちが気付かない所で、私たちの罪に対する神の裁きが下された。私たちが気付かない所で私たちのために苦しみを耐え忍ばれた方がおられる。私たちが気付かない所で、私たちに対する愛を貫き通して下さった方がおられるのです。何の報いも求めることなく、人から評価されることも望まず、反って、人々から誤解され、誰からも感謝されず、ただ苦しみの内に生涯を終えられた方がおられるのです。その方の苦しみと犠牲の死によって、私たちの罪は赦され、私たちの命は支えられているのです。イエス・キリストの十字架の死は悪を善に変える力です。私たちは人生を生きる中で、時に取り返しのつかないような重大な失敗をしてしまうことがあります。間違った判断をしてしまうことがあります。しかし、神は失敗や犯してしまった過ちを用いて、御自身の救いの御業を成し遂げられるのです。欲に目が眩んだ欠けた器をも、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、人類の救いの御業のために用いて下さるのです。その背後には、言葉では言い尽くし得ない主の忍耐と苦しみがあります。私たちの過ちの多い人生は、そのような主の忍耐と苦しみによって今も担われているのです。私たちの今ある人生は、そのようなイエス・キリストの苦難と犠牲の上に成り立っているものなのです。ですから、私たちは決して、自分の為したことを誇るようなことがあってはなりません。私たちはすべてをこの方の犠牲に負っているのです。人から評価されることも、自分の名が有名になることも望まず、ただただこの方のために自分自身を捧げ、主の僕として、この方を証しする日々を歩んで参りたいと思います。

天の父よ
 あなたは愛は測り知ることができません。あなたは私たち罪人のために愛する独り子をお与え下さいました。そして、私たちの罪に対する裁きを御子に下され、それによって私たちの罪を赦して下さいました。深く感謝致します。どうか、ポンテオ・ピラトの法廷において裁きを受けられた主の御姿の中に、私たちに対する主の深い愛を見出すことが出来ますように、私たちの目を開いて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン。