+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教.09

旧約聖書:イザヤ書53章1-12節 新約聖書:マタイ福音書16章21-28節

「苦しみを受け」

1.「苦しみを受け」

 新しい年を迎えました。私たちは毎年、大晦日になりますと、過ぎ去った一年を振り返り、新しく始まる一年に期待を膨らませると思います。そして、元旦になりますと、もう一度、すべてを白紙に戻して、新しい気持ちで一年を歩もうという気持ちになると思います。そのように年末年始になりますと、私たちは自ずと、私たちの人生について改めて深く考えることが多くなると思います。

 私たちはこれまで毎月第一日曜日には、使徒信条を続けて学んで参りました。今日はその9回目、特に主は「苦しみを受け」という告白について学びます。ここで使徒信条はある一人の人の人生について述べているのです。それは苦しみを受けた人生であったと述べているのです。それが人生のすべてであったと述べているのです。一体そのような人生があるでしょうか。確かに、私たちは人生の中で多くの苦しみや悩みを経験致します。私たちの場合も、人生の大半は苦しみと悩みであるかも知れません。しかし、そうであっても、私たちが自分の人生について語る時、それはただ苦しみを受けるだけの人生であったとしか語ることができないならば、何と不幸な人生であったかと思わざるを得ません。一体、そのような人生があって良いのだろうか。そのような人生であるならば、いっそのこと生れてこない方が良かったのではないかと疑問を抱かざるを得ないのではないでしょうか。

 しかし、使徒信条は大胆にも、このイエス・キリストというお方の御生涯は、苦しみに始まり、苦しみに終わった人生であったと告白しているのです。使徒信条は「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生れ」と言った後、「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」と言い、その後「十字架につけられ、死にて葬られ」と続くのです。つまり、主イエスの誕生と死の間の人生を「苦しみを受け」というたった一言の言葉でまとめているのです。

2.偉人物語

普通、私たちが伝記を書くような場合には、その人がいつどこで生れ、その両親はどういう人であり、どういう家柄に生れたかとか、兄弟は何人であったとか、そういうことから書き始めると思います。偉人物語のようなものの場合には、その人が貧しい家庭に生れて、幼い時に父や母を失い、大変苦労をして育ちながらも、一生懸命勉強をして、出世し、成功を収め、後世に称えられるような偉業を成し遂げたというようなことが記されます。

 一つ例を挙げるならば、日本人が好きな偉人物語の中に「二宮金次郎」の伝記があります。裕福な農家の息子として生れましたが、河川の氾濫で畑を失い、しかも、父が病気で寝込んでしまったために、幼い頃から家業を手伝わなければなりませんでした。両親思いの金次郎。下の弟たちの面倒をみながら、金次郎は仕事をしながら本を読み、学校にも通わず寝る間も惜しんで勉強した。夜の光の油を取るために、自分で菜種を植えて、そこから油を取りました。遂にはお偉い殿様に頼まれて、見事に町の建て直しに成功し、人々を飢えから救い出して、後世に称えられるような偉業を成し遂げ、人々からは「尊徳」と呼ばれるようになりました。その名が示す通り、「徳」を尊び、徳を広めることに力を尽くした人であった。家族からだけではなく、多くの人々から愛された偉人です。

 こういう偉人物語というものは、道徳の授業の教材として良く用いられるものです。貧しい中でも立派な志を持って、世のため、人のために尽くし、立派な生涯を送った人がいる。そういう人を見習いなさい、というわけです。私たちはそういう立派な徳を持った人の生涯からいろいろと感化を受け、学ぶことが多いと思います。

3.トルストイの理解

では、イエス・キリストという人は、このような偉人の中の一人に数えられるべき人なのでしょうか。確かに、偉人物語の中には、必ず、イエス・キリストの伝記もあります。書店に行けば、子供向けの偉人物語の中に必ず、イエス・キリストの名前もあります。そのようにこの方を他の偉人たちと並べて、その中の一人として理解することもできます。トルストイのような人はそのように理解する傾向が強い人です。トルストイが好んで小説の題材にするのは、山上の説教に代表されるような、主イエスの倫理的あるいは道徳的な教えです。「汝の敵を愛しなさい」という言葉に表されているように、人類に普遍的な博愛精神を宣べ伝え、実践された方として、この方を理解するのです。そして、「私たちもこの方に倣って、そのように生きましょう」と説くわけです。「靴屋のマルチン」に代表されるような、彼の作品の根底には、このようなキリスト教の博愛主義の精神があります。それはイエス・キリストを私たちの人生の模範として理解するものです。それは何もイエス・キリストだけに見られるものではなく、人類の共通する徳です。ですから、トルストイはガンジーのような人とも共鳴するところがあったのです。先ほど紹介した二宮金次郎でも人に対する愛を説きました。愛の教師はイエス・キリストお一人ではないのです。その場合には、イエス・キリストという一人の人を信じることよりも、むしろ、私たちがこの方から愛を学ぶことの方が大切だということになります。

4.主イエスの生涯

 しかし、もしイエス・キリストをそのように単なる道徳や倫理の教師として受け取るならば、この方を本当に理解したことにはなりません。聖書はこの方をそのような単なる道徳や倫理の教師として伝えようとしているのではありません。この方は誰からも尊敬されるような偉人とは違いました。主イエスは大体30才の頃に公の宣教活動を始められ、そして、3年後に十字架に架けられて殺されました。この方の活動はたったの3年しか続かなかったのです。人々から賞賛されるような書物を書き残したわけでもありません。学校を建てたわけでもありません。何か人類に貢献するような発明をしたわけでもありません。人々を飢えから救ったわけでもありません。文明の進歩のために貢献したわけでもありません。世界の平和に貢献したわけでもありません。この方が来られたからといって、人類から戦争がなくなったり、飢えがなくなったわけではないのです。その意味では、この方は目に見えるような業績を何も遺さずに一生を終えられたのです。

 何より一番身近にいた家族から理解してもらえず、気が狂っているとさえ思われたのです。この方は地上で心休まる家庭を持つことはありませんでした。枕する場所すら持っていなかったのです。生涯結婚することなく、幸せな家庭を築くこともありませんでした。信頼していた弟子たちの中からは裏切り者が出て、最後は僅かな金を代償に、敵の手に売り渡されてしまいました。一番弟子のペトロですら、最後には三度も「あんな人は知らない」と言って、逃げ出してしまったのです。他の弟子たちも皆同じでした。それまでこの方を賞賛していた民衆たちも、この方がポンテオ・ピラトの法廷で裁かれると、途端に掌を返したように「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。民の指導者たちはこの方に対して敵意を剥き出しにして侮辱しました。3年間の宣教活動も空しく、それまで築き上げてきたものがすべて崩れ落ち、すべてが失敗に終わりました。そして、この方は神を冒瀆する罪人として、十字架に架けられて殺されて、生涯を閉じたのです。それはまさに敗北の人生です。家族からも弟子たちからも民衆からも、誰からも理解されず、全くの孤独の内に一生を終えたのです。その生涯はまさに「苦しみを受け」というたった一言の言葉によって要約されるような人生を歩まれたのです。

5.苦しみの意味
 では、この方は一体何のために苦しみを受けられたのでしょうか。何ゆえに、この方は苦しまなければならなかったのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答は、主イエスが受けられた苦しみの意味を次のように説明しています。問37です。そこでは

「『苦しみを受け』という言葉によって、あなたは何を理解しますか」

という問いに対して、次のように答えています。

「キリストがその地上の全生涯、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われたということです。それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによって、私たちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。」

 イエス・キリストが受けられた苦しみというのは、私たち人間の罪に対する神の罰に他ならないのです。全人類の罪に対する神の怒りを体と魂とに負われるために人となられたのです。しかも、その苦しみは、キリストの御生涯の終わりにおいてだけではなくて、既に生れた時から始まっており、全生涯に亘って続いたと理解しているのです。

 私たちは先日、クリスマスを喜び祝いました。そこで私たちが聞いたことは、この方の人生は誕生の時から、既に暗い陰の下に置かれていたということでした。名も知れないベツレヘムという小さな町でお生まれになり、しかも、人が住むような場所ではない馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになられたことがそのことを暗示しています。東方から来た占星術の学者たちが献げた宝物の中には没薬が含まれていました。それは痛み止めや、死体を葬る際に臭い消しや防腐剤として用いられたものでした。それはイエス・キリストが十字架に架けられた時、ぶどう酒にまぜて痛み止めとして飲まされたものです。この没薬が献げられたということは、既に誕生の時点で、この方がやがて十字架に架かって苦しみを受けられ、死んで墓に葬られることを暗示していたのです。この方は生れた時から神の怒りの下に置かれていた。人間の罪に対して神は怒っておられるということを一人自覚しながら、そのご生涯を歩まれたのです。

6.神の裁きとしての苦しみ

 今日与えられました御言葉において、主イエスは

「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」

と弟子たちに打ち明けられました。そのことを一度ならず、繰り返し弟子たちに告げられたのです。ここで「必ず、~することになっている」と訳されている言葉は、正確には「ねばならない」という言葉です。必然性を現わす言葉です。「わたしは必ず苦しみを受けて、殺されなければならない」と言われたのです。単にそれは避け難い運命という意味で言われているのではありません。そうではなく、それは神の御意志であるがゆえに、そうならざるを得ない、そういう意味の言葉が用いられているのです。主イエスがこの世にあって苦しみを受けることは、他ならぬ父なる神様が望んでおられることだと言うのです。一体なぜでしょうか。それは、私たち人間の罪に対する神の裁きを身に受けられたからなのです。神は御自身に背く人間に対して、激しく怒っておられるのです。私たちはそこまで深刻に、私たちの罪ということを考えることはないと思います。神は愛に満ちた方だからすべてを赦して下さる。そう勝手に考えているのではないでしょうか。しかし、聖書において、語りかけられておられる神様は、決して、人間の罪を見過ごすことのできない神様です。聖書ではそれを「神の義」という言葉で表しています。聖書の神様は義なる神様です。人間の罪に対して真剣に怒り、それを罰せずにおかない神様なのです。私たち人間はそのような神の怒りの下に置かれているのです。罪に対する裁きを受けなければならない者たちなのです。私たちはそこまで深刻に私たちの罪を受け止めてはおりません。せいぜい、心を改めて、努力すれば、人間誰でも良い人間になれるとその程度にしか考えていないと思います。ですから、先ほどのような偉人物語に出てくるような人々を模範にして、その徳に倣い、努力すれば、誰でも良い人間になれると、その程度に考えているのです。

 しかし、聖書は私たち人間の罪をもっと深刻に見ています。聖書は神の目に映っている人間の姿を明らかにするのです。神の目から見るならば、この世で偉人と讃えられるような立派な人々であっても、神の怒りを免れることはできません。私たち人間の罪はそれほどに深刻なのです。努力すれば良くなるというような甘いものではありません。私たちはそれほど深刻に罪に堕落した者たちなのです。

 それはまさに、神御自身が人となって、この世に来られたことによって明らかにされたことなのです。神は人となられてこの地上に来て下さいました。それがイエス・キリストというお方です。神は人となって、私たちの所に来て下さったのです。これほど神が人間の近くに来て下さったことはありませんでした。ところが、神に選ばれたイスラエルの民は、いざ神が人の姿をとって自分たちの所に来られると、それを喜ぶどころか、反って、この方に敵意を燃やして十字架にかけて殺してしまったのです。そこで初めて、人間の罪の深刻さが明らかにされたのです。

 私たちの人間関係もそうではないでしょうか。私たちはよく気軽に「遊びに来て下さい」と気軽に声をかけることがあると思います。しかし、いざ本当に来られると、その時々にいろいろな用事があったり、忙しかったりして、反って迷惑になるということがあります。距離を置いていた時には、上手く行っていた人間関係が、近づくことによって、反ってそこに問題が生じて来るということがあります。お互いの欠点が見えてくる。近づけば近づくほど、お互いのエゴが見えてくる。それがぶつかって争いが生れるわけです。

7.自分を神とする人間の罪

 神が人となって私たちの所に来られることによって、尚更そのような衝突を生むのです。なぜなら、神は聖なるお方だからです。神が来られると、私たちの隠れた罪の姿がすべて明らかにされるのです。それはあたかも、クラスの中に一人模範的な生徒がいると、そのようにできない他の生徒が迷惑するようなものです。イエス・キリストが近づいてくると、自分たちの罪の姿が明らかにされてしまう。人間はそれに耐えることができなかったのです。そこで、ユダヤ人も異邦人も、この方を十字架に架けて殺してしまったのです。

 それは私たち自身の罪でもあります。私たちはどこまでも自分を善悪の基準とし、善悪を判断している者たちです。自分を神のように絶対化し、自分を人よりも上に立てる者たちです。そういう所に本当に神が来られても、私たちは受け入れることができないのです。イエス・キリストの十字架の死を通して、神を受け入れることのできない人間の罪の姿が初めて明らかにされたのです。

 神はこのような人間の罪に対して真剣に怒っておられるのです。イエス・キリストは、この神の怒りを身に受けられたのです。この方はまさに「苦しみを受ける」ためにこそ、この世に生れて来られたのです。そこにこの方の人生の意味があったのです。それは他に誰も代わることができない人生です。そのような人生を生きた人は未だかつて、この方を除いてはおりませんし、これからも現われることはありません。どんな偉人であっても、このような人生を生きることはできません。人類の罪の贖いの供え物として、御自分を捧げることができるのは、真の神であると同時に真の人であるイエス・キリストただお一人なのです。イエス・キリストの十字架の死は、そこにおいて私たち人間の罪を明らかにすると同時に、その人間の罪がこの方によって既に赦されているということを示すものでもあります。私たちはこの方を救い主と信じることによってのみ、罪を赦され、神の怒りから逃れることができるのです。私たちはこの方を信じる時、罪赦された者として生きることができるのです。罪を赦されているというところから出発することができるのです。神に愛される子どもとして、人生を出発することができるのです。もしかしたら、自分はそんな罪を犯していないと言われる方もおられるかも知れません。しかし、私たちは自分の胸に手を当ててよく考えるならば、人の目は誤魔化せても、神の目は誤魔化せないと思います。人に隠している罪、自分の心に納めている罪というものがあるはずです。そういう罪が私たちの良心を咎め訴えてくる。神の裁きに対する不安へと駆り立てて行くのではないでしょうか。しかし、キリストはそのような神の裁きに対する不安から私たちを解放して下さる方なのです。そして、私たちの魂をそのような不安から解放し、神に愛されている子どもとして生きることを赦して下さるのです。

8.キリストの傷による癒し

イザヤ書53章5節にある通りです。

「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 イエス・キリストが十字架で受けられた傷によって、私たちの魂の病が癒されることができる。これはもはや私たちの理解を超えたことです。神の御業であります。私たちはこの方の受けた傷によって癒されることができるのです。この方は私たちの病んだ魂を癒し、新しく造り変えることがおでき唯一人のお方なのです。その時、初めて私たちは本当に神の御心を行う者へと造り変えられて行くのです。人類はこのたった一人の人の苦しみによって支えられている。この私のために苦しんで下さっている方がいる。それほどに私を愛して下さっている方がいる。このことを心に留め、新しく始まった一年も、この真の救い主を人々に証する生活を歩んでまいりましょう。

天の父よ
 私たちは目の眩んだ者であり、自分たちが犯している罪の深刻さに気付かない者たちです。私たちの魂がどれほど深刻な病に侵されているかに気付かない愚かな者たちです。あなたは、愛する御子をお遣わし下さり、私たちを滅びの穴から救い出して下さいました。感謝致します。このあなたの愛を思います時、私たちは一体何をもってそれに報いたら良いのか分かりません。どうか、この身をあなたへの生きた聖なる供え物として捧げ、あなたの愛を人々に証する生活を送らせて下さい。
 主よ、どうか、新しく始まった一年もこの白銀教会の歩みを守り、そこに連なる一人一人の信仰生活を御守り下さい。私たちが決して自己中心的な生活に陥ることがありませんように、あなたを礼拝すること軽んじることがありませんように御守り下さい。病める者にあなたの癒しの御手を差し伸べて下さい。看病に当たっているご家族の健康をも支えて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。