+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教.08

旧約聖書:イザヤ書7章10−17節 新約聖書:マタイ福音書1章18−25節

「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」

1.アドベント

 今日からイエス・キリストの誕生を待ち望むアドベント、待降節に入りました。礼拝堂の入口に吊るされたアドベント・クランツの一本目の蝋燭に火が点されました。アドベントは救い主を待ち望む期間です。何かを将来に待ち望むことができるということは、将来に希望があるということです。将来の可能性が開かれているということです。蝋燭の火は、その希望の光を表わしているのです。蝋燭の火というのは不思議なものです。それは明るい部屋の中では全く目立ちません。でも真っ暗な部屋の中では、小さな一本の蝋燭の火がとても明るく輝いて見えるものです。周りが暗ければ暗いほど、蝋燭の火は反って明るく輝くものです。

 もしかしたら、今、私たちの心は悲しみで真っ暗な状態かも知れません。心の中の蝋燭の火が完全に吹き消されてしまっているような状態かも知れません。しかし、そういう私たちの心の蝋燭にも、神様はもう一度火を点して下さるのです。イエス様を通して、もう一度、私たちの将来に希望を与えて下さる。その日を待ち望むのがアドベントです。

2.系図の意味

 さて、私たちはこれまで毎月第一週目の日曜日には、使徒信条を続けて学んでまいりました。今日はその中の丁度、クリスマスに関する部分

「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」

という告白を取り上げます。この使徒信条の告白は今日与えられました聖書の御言葉、マタイによる福音書1章18−25節の内容を的確に要約しています。

 そこでまず「聖霊によりて宿り」ということについて考えてみたいと思います。「聖霊によりて宿り」とはどういう意味でしょうか。ここでは一人の人の生涯の始まりが述べられています。イエスというお方の誕生の次第が述べられているのです。「母マリアはヨセフと婚約していた。」私たちは誰しも父と母をもってこの世に生まれてきます。私たちがまだ存在する前に、父と母の出会いがあって、私たちが生まれて来たわけです。そういう男女の出会いなしには、私たちの存在は考えられません。私たちは父と母に「私」という存在を負っているのです。私たちは父からも母からも、その過去を受け継ぐ仕方で生まれて来るのです。私たちはそういう過去との繋がりなしに自分の存在を考えることができません。それを表わしたのが系図なのです。「系図」というものは、血の繋がりを示すためのものです。私たちの存在が、そういう血の繋がりなしにはありえないことを示すためのものです。


 
マタイによる福音書においては、特徴的な仕方で、イエス・キリストの誕生の次第が告げられる前に、イエス・キリストの系図が置かれています。しかも、皆父の名前によって「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを」と男性中心に記されているのです。ユダヤ教の系図では、このように元々、男性の名前しか記されなかったようです。父との繋がりにおいて系図を記す。男性中心の見方です。私たちの歴史においては、少なくともそういう見方が支配的であったのではないかと思います。

 
しかし、そのように見て行くとこの系図には不思議な点が幾つかあるのです。それはこの系図には、マリアを除くと4人の女性の名前が登場するということです。順番に挙げて行きますと、3節の「タマル」、5節の「ラハブ」「ルツ」、6節の「ウリヤの妻」、そして、16節の「マリア」です。

 
私達がここで、まず考えなければならないのは、なぜこの4人の女性の名前が選ばれたかということです。他にも名前を挙げるべき女性たちは大勢いたはずです。一体どのような理由で、この4人が選ばれたのでしょうか。この4人に共通することは一体何でしょうか。それは、これら4人の女性は皆、本来イスラエルの12部族には属さない、異邦の民の女性である、ということです。ユダの妻タマルは、もともとアラム人の女性でした。しかも、タマルは、本来ユダの妻ではなく、ユダの義理の娘、嫁でした。ユダは自分の嫁との間に子どもを作ってしまったのです。その結果、タマルは3節にありますように、ペレツとゼラという双子を身ごもりました。そういう罪から生まれて来た子供たちがこの系図を担っているのです。二番目に名前が挙げられているラハブはもともと異邦人の遊女でした。三番目のルツもやはり異邦人の女性で、早くに夫を亡くし、後にボアズの妻となりました。四番目の「ウリヤの妻」も、皆本来イスラエルの民に属する者ではなくて、異邦の民の女性でウリヤという人の妻でした。ところがダビデ王はこの女性との間に姦淫の罪を犯し、夫ウリヤから奪い取ってしまったのです。

 このように、この系図に挙げられている女性たちの名前だけでも、この家系の汚点をわざわざ記しているのです。それ以外にも、ここに挙げられている男性一人一人の生涯を詳しく見て行くならば、誰一人として、罪を犯していない人はいません。ですから、この系図は、人間の罪によって繋がってきた系図であると言っても良いのです。それは何もこの系図に限ったことではありません。私たち自身についても、同じことが言えるのではないでしょうか。私たちは自分たちの先祖の歴史を遡って行けば、そこには人には言えないような罪や汚点というものが必ずあるはずです。

3.『氷点』

先日、三浦綾子の『氷点』がドラマ化され、放映されていました。物語の主人公は陽子という女性です。陽子は幼い時に、辻口啓造と夏枝という夫妻に引き取られます。辻口は優れた医師であり、人々から信頼される人柄でした。ある時、妻の夏枝はふと他の男性に心を引かれ、その男性と時を過ごすために、娘のルリ子を外で遊ばせていました。ところが、それが原因で娘が誘拐され、川原で殺されてしまいました。犯人は佐石と呼ばれる男でした。佐石は留置所で首をつって死んでしまいます。その佐石には子供がおりました。母親はその子を出産したと同時に亡くなってしまいました。辻口啓造は、丁度、妻夏枝が殺された娘の代わりに、誰か代わりの女の子を養子に迎えたいと望んでいたこともあり、こともあろうに、佐石の娘を自分の子供として引き取ってしまうのです。それは妻夏枝には内緒でのことでありました。殺人者の娘は、陽子と名付けられ、辻口夫妻の下で育てられることになります。妻の夏枝は自分の娘のように陽子を育てました。

 ところがある時、妻夏枝も、陽子が佐石の娘であるということを知ってしまいます。その事実を知って以来、夏枝は陽子を愛することができなくなってしまいます。夏枝にとって、陽子は厭わしい存在となり、陽子をいじめ、限界に追い詰めます。そして、陽子自身も、自分の父親が、自分の育ての親である辻口家の子供を殺した犯人であることを知ってしまいます。陽子は自分の中にも、殺人の罪を犯した父の血が流れていることに悩みます。そして、遂に陽子は絶えられなくなり自殺を謀ります。その時陽子は、啓造と夏枝に対して、次のような遺言を残しました。「おとうさん、おかあさん、どうかルリ子姉さんを殺した父をお赦し下さい。・・・私は今まで、こんなに人に赦してほしいと思ったことはありませんでした。けれども、今『ゆるし』がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪を、はっきりと『ゆるす』と言ってくれる権威あるものがほしいのです」。そう遺書に書いて、自殺を図ります。

 陽子は幸いにして一命を取り留め、後で自分が実は殺人者の娘ではないことを知らされます。そうではなく、三井恵子という女性が、夫が戦争に出征中に不倫し、他の男との間に生んだ子であることが明らかになります。ここでも、陽子は自分の出生を知り悩みます。初めて本当の母を見た時、心が凍りつくような思いを持ちました。母である三井恵子は、陽子に許しを求めますが、陽子は自分を産んだ母親を許すことができませんでした。陽子はその時初めて、自分の中にも、人の罪を許せない弱さがあることに気付かされたのです。

 私たちは、この陽子と全く同じでないにしても、多かれ少なかれ、人には言えないような過去を背負っていると思います。決して誇ることのできない過去を背負っています。私たち自身の過去を振り返るだけでも、そこには人には言えないような汚点が沢山あります。できれば、一度すべてをリセットして、人生を初めからやり直したい。過去との繋がりを断ち切りたい。そのように思っている人も少なくないと思います。

 ここに記されたイエス・キリストの系図というものは、私たち人間がそういう人間の罪の連鎖の中で生まれて来るものであることを示しているのです。

4.系図を断ち切る

 しかし、人類の罪の系図は、イエス・キリストの誕生でもって断ち切られるのです。ヨセフとイエスとの間には全く血の繋がりがないのです。だから「聖霊によって宿り、処女マリアより生まれ」なのです。今や神は、罪に罪を重ねてきた人類の歴史に終止符を打たれたのです。そして、人類の歴史のイニシアティブを人間の手から、特に男の手から取り上げ、御自分がイニシアティブを取られたのです。神は全く新しい人類の歴史をイエス・キリストの誕生と共に始められたのです。その際、処女マリアだけが用いられたのです。なぜ、マリアが用いられたのでしょうか。それは彼女が神の言葉を信じたからです。彼女は天使より受胎告知を受けた時、最初は「どうして、そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言いました。しかし、「神にはできないことは何一つない」という天使に語りかけられると、それに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えたのです。人間には不可能でも、神にはできないことは何一つない。すべての望みは絶たれた。もう生きる希望もないと思われるような所でも、神にはなお別の道がある。そのことを信じ、受け入れるのが信仰です。まさに、マリアがこの信仰をもって天使の言葉を受け入れた時、マリアの身に奇蹟が起こったのです。神が人となられたのです。罪によって断絶していた神と人間との関係がもう一度回復されたのです。愛の絆によって、神と人とが一つに結ばれたのです。それが「聖霊によりて宿り」の意味なのです。聖霊とは昔から「愛の絆」と呼ばれてきました。愛はすべての隔たりを超えます。愛する者同志は死んでも、心は一つに結ばれています。真実の愛は死をも超えるのです。

5.『忘れられないおくりもの』

 スーザン・バーレイという人が画いた『わすれられないおくりもの』という絵本があります。これは愛の力について教えられる本です。この本の主人公は一匹の年老いたアナグマです。このアナグマはとても賢くて、誰からも頼りにされ、慕われていました。大変年をとっていて知らないことはないというほど物知りで、困っている人がいると誰でもすぐに助けてあげました。このアナグマは自分がもう相当年をとっており、死が間近に迫っているということを知っていました。でも、アナグマは死ぬことをちっとも恐れてはいませんでした。ただ、後に残されて行く友だちのことを心配しました。そこで、予め、自分がいつか長いトンネルの向こう側に行ってもあまり悲しまないようにと言っていました。そして、ある晩、アナグマは、暖炉の側のゆりいすに座ったまま、眠るようにして息を引き取ったのです。

 次の日の朝、アナグマが家から出てこないのを心配して、友だちが集まってきました。そして、家の中に入ってみると、一通の手紙が机の上に残されていたのです。そこには「長いトンネルの向こうに行くよ、さようなら、アナグマより」と書かれていました。森のみんなは、アナグマのことをとても愛していましたから、悲しまない者はいませんでした。何ヶ月経っても、みんなの悲しみは増すばかりです。そこで、ある時、森のみんなは集まって、アナグマの思い出を語り合いました。モグラは、はさみをとても上手に使って、一枚の紙から手をつないだもぐらを切り抜くことができます。でも、最初から上手であったわけではありません。それはアナグマが教えてくれたものだったのです。最初に上手く切ることができた時の喜びは、今でも忘れられない思い出です。カエルはスケートが上手でした。アナグマが一緒にすべれるようになるまで、ずっとそばについていて、教えてくれたのです。キツネは、ネクタイの結び方をアナグマから教わりました。うさぎは、料理が上手いので評判でした。でも、それも最初に教えてくれたのはアナグマでした。みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。アナグマは、ひとりひとりに、別れたあとでも、宝物となるような、知恵や工夫を残してくれたのです。みんなはそれで、互いに助け合うこともできました。このアナグマが遺してくれたものの豊かさで、みんなの悲しみも消えて行きました。アナグマの話が出る度に、誰かがいつも、楽しい思い出を話すことができるようになったのです。アナグマは一人一人の心の中に愛の贈物を残して行ってくれたのです。この愛と共に、アナグマはいつまでも彼らの心の中に生き続けたのです。

6.神の愛

 この物語に照らして考えて見ますならば、イエス・キリストというお方は、言わば、神の愛を私たち一人一人の心に刻み付けるために、この世に来て下さったのです。神はその大切な独り子を世にお遣わし下さいました。御子は私たちと同じ人間の姿を取って、私たちの所に来て下さったのです。そして、私たちと同じように誕生から死に到るまで、すべての人生を共に歩んで下さったのです。私たちが経験する人生の試練、苦しみ、悲しみ、そういうものをすべて神の御子は御自分で経験されたのです。そういう人生の試練の中にあって、この方はいつも父なる神と一つに結ばれていることを信じて疑いませんでした。聖霊という愛の絆によって一つに結ばれていることを疑いませんでした。これがこの方の力の秘密であったのです。これこそが、この方の復活の秘密なのです。死を超えてなお、神の愛はこの方を捉えている。そのことをこの方は御自身の十字架の死と復活を通して教えて下さったのです。そして、この神の愛は、イエス・キリストを通して、私たちにも注がれているのです。父なる神はその大切な独り子をお与えになるほどに世を深く愛されました。私たちが独り子を信じることによって、永遠の命に到る道を開いて下さったのです。永遠の命とは、神の愛によって、私たちが神と一つに結ばれているということです。インマヌエル、神が永遠に私たちと共にいて下さるということ。それがすなわち、永遠の命なのです。罪も死もこの神の愛を阻むことはできません。今や聖霊の力によって、神と人とが永遠に一つに結ばれたのです。もはや、如何なるものも、この神の愛から私たちを引き離すことができなくなったのです。イエス・キリストの誕生において、インマヌエル、神我らと共にいますということが現実となったのです。この神に望みを置く限り、私たちの希望は決して失望に終わることはありません。預言者エレミヤを通して語られた神の言葉は、イエス・キリストの誕生を通して、現実のものとなったのです。

「主はこう言われる。『泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。』」

 死から復活なされたイエス・キリストは、私たちにとって、尽きることのない希望の源です。私たちもこのアドベントの時、私たちの心の蝋燭に一本一本火を点して頂き、救い主を心からお迎えしたいと思います。

天の父よ
 今年もアドベントの時を迎えることができ、感謝を致します。主よ、私たちはイエス・キリストが私たち一人一人の心の中に来て下さることを心から待ち望んでいます。主よ、どうか、今、聖霊によって、私たちの所に来てくださり、私たちの心を明るい光で照らし、悲しみを取り去り、あなたの愛で満たして下さい。あなたが共にいて下さるならば、私たちはもはや何ものも恐れる必要がないことを教えて下さい。
 この時、特に私たちはあなたの助けを必要としている人々のために祈ります。病の床に着き、病の痛み、死の不安と戦っている人々に、その看護に当たっているご家族に、愛する者との別れを経験し、悲しみの中にある人々に、人生に希望の光を見出せず、絶望している人々をあなたが慰め、勇気をお与え下さい。どうか、あなたの愛はどんな時も私たちを捕えて離さないことを、イエス・キリストのゆえに確信することができますように、私たちの信仰を強めて下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン。