+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教.07

旧約聖書;創世記22章1−14節 新約聖書:ヨハネ福音書1章14−18節

「その独り子、われらの主イエス」

1.「聖徒の日」(永眠者記念日礼拝)

 本日、私たちは「聖徒の日」(永眠者記念日)を覚えて礼拝を捧げています。白銀教会はもうすぐ教会創立100周年を迎えますが、この100年の歴史の間に、実に多くの兄弟姉妹たちが、その生涯の旅路を終え、天に召されました。皆様のお手許にお配りした「白銀教会永眠者名簿」に依りますと、白銀教会に連なる81名の方々がすでに天に召されました。この他にも外国から来た宣教師や白銀教会に仕えた牧師たち、また白銀教会から他の教会に転会された方々などを含めれば、更に多くの人々が白銀教会の歴史に関わったことになります。更に一人一人の信仰者の背後には、そのご家族の方々や地域の方々など、目には見えない仕方で支えて下さった多くの方々おられるわけで、白銀教会はそのような多くの人々の支えによって、これまで歩んで来ることができたのです。

 「一期一会」という言葉があります。人との出会いは、私たちの人生にとって掛け替えのないものであることを意味する言葉です。人との出会いは、その人の人生を左右するほど大きな影響を与えます。私たちはいろいろな人から影響を受けて成長して行きます。また影響を受けるだけではなく、私たちもいろいろな人に影響を与えながら生きています。書物から受ける影響ももちろんありますが、人から受ける影響というものは、それ以上に大きなものです。

2.教会との出会い

 そのように考えますと、教会との出会いは、私たちの人生にとって測り知れない程大きな意味を持っています。どれほど多くの人々が、この白銀教会を通して互いに出会い、影響を与え合って来たことでしょうか。今ここに集っている私たち自身のことを考えましても、白銀教会の存在抜きに自分の人生を語ることはできないと思います。教会には老若男女を問わず、色々な人々が集まっています。そういう人々との出会い、交流を通して、私たちの人生はどれほど豊かなものとされているかと思わずにはおれません。

 しかし、教会の交わりは目に見える人間同志の交わりに留まりません。私たちは教会の交わりを通して、ある決定的に重要な一人の人物と出会うことが大切なのです。それは私たちの人生に決定的な影響を及ぼす方です。それが「イエス・キリスト」というお方なのです。既に天に召された兄弟姉妹たちも、白銀教会や他の教会を通して、この方と出会ったのです。そして、この方との出会いを通して、人生を大きく変えられたのです。教会は私たちがこの地上でイエス・キリストと出会うことができる唯一の場所なのです。

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:23)。

 私たちは教会の交わりを通して、この方の持っておられる生命の豊かさに与かるのです。この方を私たちは「神の独り子」であり、「我らの主」と信じ告白しているのです。今日はその告白の意味について、共に御言葉から聞きたいと思います。

3.神の独り子

 私たちは使徒信条において、イエス・キリストが「神の独り子」であると告白しています。確かに聖書においては、イエス・キリストを救い主と信じる私たちもまた「神の子」と呼ばれることができます。しかし、そういう私たちとはわざわざ区別するために「神の独り子」という言葉が用いられているのです。それはどういうことかと申しますと、私たちはイエス・キリストを通して救われ、神の子とされた者、つまり、「養子」とされた者たちなのです。それに対して、イエス・キリストというお方は、唯一人生まれつき神の子であるのです。この方だけが父なる神から生まれた方なのです。この方はまだこの世が造られる前から存在し、永遠に父なる神様と共におられる方なのです。私たちは創り主なる神によって造られた者であるのに対して、イエス・キリストだけは神から生まれた者であるのです。神から生まれた方ですから、父なる神と比べて何ら劣ることなく、父なる神と同等の方であり、神御自身であるのです。そのようなお方が人となって、私たちの所に来て下さったのですから驚かずにはおれないのです。

 今日与えられました御言葉、ヨハネによる福音書1章18節はそのことを次のように表現しています。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

 
この方だけが、父なる神様の子として、その父の懐の温もりを本当に知っている方なのです。父なる神様がどのようなお父さんであるのか、その本当の姿を知っているのは、この独り子である神だけなのです。私たちは神の姿を見ることはできません。ただ人となられた独り子であるイエス・キリストを通してだけ、父なる神様がどのようなお方であるのかを知ることができるのです。神様が私たちのことをどれほど深い愛を持って愛して下さっているか、そのことを知らせるために神は御子をこの世にお遣わしになったのです。

4.神の愛

 ヨハネによる福音書3章16節には次のような有名な言葉があります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 
聖書は、父なる神様がどれほど私たちを愛して下さっているかを伝えるために「その独り子をお与えになったほどに」という表現を用いたのです。私たちは愛において不完全なものです。そういう私たちであっても、自分の愛する子を失うということがどれほど辛いことであるかということは分かります。自分の愛する子どもを誘拐され殺された。そういう両親の姿というものが連日テレビで報道されています。愛する子ども失う悲しみは例えようもありません。子どもは親にとって自分の命よりも大切な存在です。子どものためなら、自分の命を捧げても惜しくないと思うのが親の情というものです。私たち不完全な親であっても、そのように思うのですから、完全な愛をもっておられる神様にとって、その愛する独り子を失うということがどれほどの悲しみであったかことでしょうか。それはもはや、私たちの想像の及ぶ範囲ではありません。

5.イサクの奉献

 聖書の中でただ一箇所だけ、この神の愛をおぼろげながら示している物語があります。それが今日与えられましたもう一つの御言葉、創世記22章1〜14節の御言葉です。そこには「信仰の父」と呼ばれるアブラハムとその息子イサクの物語が記されています。アブラハムは神様によって選ばれた人であり、神様から特別の祝福を頂いた人でした。この人に与えられた祝福はその子孫を通して、すべての人々に及ぶと約束されたのです。ところがアブラハムには、子供が与えられませんでした。彼には名をサラという美しい妻がおりましたが、サラは不妊の女であったのです。彼らは子どもを与えて下さるようにどれほど神に祈ったことでありましょう。しかし、その祈りも空しく、彼らは年を取って行きました。そして、もうとうの昔に子どもを諦めた二人に主なる神様は突然、子どもを与えると約束なさったのです。アブラハムはその時99歳、サラはそれより10歳年下でした。アブラハムもサラも、神様の約束を聞いた時、最初は心の中で笑いました。「100歳の男に子供が生まれるだろうか。90歳のサラに子供が産めるだろうか」とそのように笑ったのです。しかし、神様はアブラハムが100才になった時、彼に息子イサクを与えられたのです。イサクというのは「彼は笑う」という意味の名前です。それはまさに人間の力ではなく、神の力によって与えられた子供でした。この子によって神から与えられた祝福は受け継がれることができる。アブラハムはそのように喜びました。イサクは健康にすくすくと成長しました。

 ところがある日、主なる神は突然アブラハムに命じて言われました。

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 
それはアブラハムの信仰を試すために与えられた試練でした。一体何という試練でありましょうか。神様という方は何と惨い方なのでしょうか。アブラハムとサラにとって、この子がどれほどの意味を持っているか、それは神様御自身が一番良くご存知であったはずです。来る日も来る日も祈り続け、もう子供が与えられることを諦めていた時に与えられた子です。しかも、アブラハムにとっては、自分に与えられた神様の約束を受け継ぐ大切な存在なのです。自分の家の将来だけではなく、世界の救い全体がこの独りの子にかかっていたのです。アブラハムにとって、この独り子を捧げるということが、どれほどのことを意味したか、それは神様御自身が一番良くご存知であったのです。そうであるのに、神様はわざわざこの子を捧げようと命じられる。自分の手で刃物を使ってこの子を殺し、燃え盛る火で焼いて捧げるように。想像するのも恐ろしいことです。そんなことならば、いっそのこと最初から、この子を与えてくださらなければ良かったのに、と私たちなら思います。実際、アブラハムがどのように考えたかは分かりません。聖書はアブラハムの心境を事細かに描写することは致しません。ただ彼が淡々と神の命令に従って行動したことだけを伝えます。しかし、その簡潔な描写からも、アブラハムの思いを伺い知ることはできます。アブラハムは次の日の朝早く、ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行ったのです。彼は朝早く行動を起こしたのです。恐らく、彼は前の晩一睡もできなかったことでありましょう。そして、二人の若者を途中に置いて、イサクと二人だけで神が命じられた山に登って行きました。その間、重苦しい沈黙が支配致します。その沈黙を破るように、イサクは「わたしのお父さん」と呼びかけました。息子イサクは焼き尽くす献げ物の小羊がないことに気付き不安に思ったのでしょう。「わたしのお父さん」と不安げに父に呼びかけました。この言葉は父アブラハムにとってどれほど悲痛に響いたことでありましょうか。アブラハムは答えます。「ここにいる。わたしの子よ」。そして、献げ物について尋ねるイサクに対して「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えました。アブラハムだけがその献げ物が息子イサクであることを知っていたのです。それを隠し通さなければならない辛さは言葉では表現できません。アブラハムは、神が命じられた場所に着くと、そこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の上に載せ、手を伸ばして刃物を取り、息子の喉元めがけて振り下ろそうとした瞬間、天の御使いが現れ、「アブラハム、アブラハム」とその手を止めました。そして、言いました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムが目を凝らして回りを見回すと、後ろの茂みに一匹の雄羊がいるのを見つけました。それを捕え、彼は息子の代わりに焼き尽くす献げ物として捧げました。そして、その場所を「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)と名付けたのです。

6.独り子を献げられた神の愛

 この物語は、本当に神を信じるということ、神に従うということはどういうことであるかを教えています。それは私たちにとって一番大切なものをも神のために惜しまず捧げることなのです。愛する独り子を捧げるということは、私たちにとって、すべてを捧げるということです。私たちにとって、これ以上大きな試練はありません。神はその試練をアブラハムに課することによって、彼が本当に神を畏れ敬う者であるかを試されたのです。私たちはこの物語を読む時、聖書の神様は何と惨いお方かと思わずにはおれません。私たちであったら、人間的な思いが先行してしまい、とても愛する独り子を捧げることなどできません。

 そのように思えば思うほど、神さまが私たちのためにして下さったことに驚かずにはおれません。神様は御自分の愛する御子を十字架に捧げて下さったのです。父なる神様がそれほどに、私たちを愛して下さっているということが、御子の十字架の死を通して初めて知らされたのです。神のものを神のものとして返そうとせず、あたかも自分のものであるかのように奪い取る人間に、神は代わりの献げ物を用意して下さったのです。私たちの罪を贖う犠牲の小羊として、愛する独り子を十字架に架けて殺された。私たちの罪は、この汚れなき犠牲の小羊の血によって贖われたのです。ペトロの手紙一1章18節には次のように記されています。

「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

贖うというのは、奴隷となっている人や誘拐された人のために、身代金を払って、その人を自分のものとして買い戻すことです。罪と死の奴隷であった私たちは、キリストの血によって贖われ、キリストのものとされたのです。私たちの体も魂も、今や、私たち自身のものではなく、キリストのものなのです。だから、私たちはこの方を「われらの主」と告白するのです。

7.「我らの主」

 その際、使徒信条が「わたしの主」と単数ではなくて、「我らの主」と複数で言っていることは注目に値します。私たちは、他の兄弟姉妹と結び合わされることを抜きにして、キリストと結び合わされることはできないのです。主に仕えるということは、具体的には、キリストの体である教会に仕えるということであり、隣人に仕えるということなのです。私たちは自分一人で信仰を保って行くことはできません。私たちは自分一人でこの世の誘惑に打ち勝つことはできません。私たちはただ「キリストの体」である教会に結び合わされることを通してのみ、キリストの御支配の下に置かれることができるのです。他の人々と共に神の言葉を聞くことが大切なのです。他の兄弟姉妹の証を通して神の言葉を聞き、また私たち自身も神の言葉を証することを求められているのです。そのような兄弟姉妹の交わりの中で、イエス・キリストは生きて働かれるのです。今は天にある兄弟姉妹も今も主に結ばれ、この命に生かされ続けているのです。

 今日は聖餐式の後の讃美歌として80番を選びました。この讃美歌を選んだ理由は、その三節の歌詞が今日の「聖徒の日」の礼拝に相応しいと思われたからです。

「御国に召された  全ての聖徒と  結んでください、 愛のきずなで」

 既に天に召された兄弟姉妹たちは、天にあってキリストを礼拝しているのです。私たちは地上にあって、天におられるキリストを礼拝しているのです。礼拝は主にあって、この地上にある民と世にある民が一つに結び合わされる場所なのです。私たちは聖餐を通して、既に天に召された聖徒たちとキリストの体にあって一つに結ばれていることを確信することができるのです。それが「聖徒の交わり」なのです。そのような豊かな交わりの中に生かされている感謝して、この身を主の御用のために献げて参りましょう。

天の父よ
 あなたの愛は測り知ることができません。私たちは心の鈍いものであります。あなたの愛に気付かず、どれほどあなたの御心を痛めていることか懺悔致します。どうか、私たちにあなたの聖なる霊を送り、日々新たに造りかえられ、私たちの目が開かれ、少しでもあなたの愛に気付き、それに応える者とさせて下さい。今は天にある兄弟姉妹も、主にあって一つとされていることを確信させて下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。