+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教.06

旧約聖書:イザヤ書7章14節、新約聖書:マタイ福音書1章18−25節

「イエス・キリストを信ず」

1.使徒信条の中心

 本日は使徒信条の講解説教の第6回目になります。今回は「イエス・キリスト」という名前に焦点を当てて説教を致します。

 使徒信条は大きく三つの段落に分けることができます。第一の段落は「父なる神」に対する信仰を告白しています。第二の段落は「子なる神」、すなわち、イエス・キリストに対する信仰を告白し、そして、最後の第三段落は「聖霊なる神」に対する信仰を告白しています。

 では、使徒信条の中心はどこにあるのかと申しますと、それは明らかに第二段落、すなわち、神の御子、イエス・キリストに対する信仰の告白にあるのです。それは、第一段落、あるいは、第三段落と比べて、第二段落の分量が圧倒的に多いことからも分かります。しかし、それは単に分量の問題だけではありません。キリスト教の信仰はそもそも、イエスという一人の歴史上実在した人物を神と信じることから始まったのです。そこにキリスト教信仰の出発点があるのです。

2.イエスを神と信じる信仰

キリスト教の信仰は、ただ漠然と目には見えない神を信じているというのではないのです。そうであったら、他の宗教と区別はつかなくなると思います。どんな宗教でも、結局は同じ神に辿り着くというような話になってしまいます。「同じ山の頂上に行くのでも、いろいろな道を通って行ける。どの道を通るかは関係ない。とにかく、頂上に辿り着くことが大切なのだ。それと同じように、どんな宗教でも、結局は同じ一人の神に辿りつくのだ。」そういう考え方をしている人が案外多いものです。それはいろいろな神々を信じている日本人には受け入れられ易い説明の仕方かも知れません。しかし、私たちはそのように単純に言うことはできません。私たちは、このイエスという人を通してでなければ、真の神に辿りつくことはできないと信じています。真の神に辿りつく道は一本しかないのです。なぜなら、私たちは、具体的にこのイエスという一人の人が神であると信じているからなのです。だから「キリスト教」と言うのです。

 それは言葉を換えて言えば、他のいかなるものも、神とは認めないということです。天皇であっても、私たちの祖先であっても、あるいは、信仰宗教のような教祖や自分を神と名乗る者がこれから現われたとしても、私たちはそれら一切を偽りの神として退けなければならないのです。私たちが仕えるべきお方は、イエス・キリストただお一人なのです。私たちが果たして、このイエスという人物の中に真の生ける神を見出すことができるかどうか、キリスト教の信仰は、その一点にかかっているのです。それはある意味、厳しい決断を迫られることでもあります。私たちが救いに到るためには、この一本の道を選び取らなければならないのです。私たちは、イエス・キリストの御前に立たされると、その決断を迫られるのです。神が目に見えない間は、神を信じているといっても、態度を曖昧にすることもできたのです。しかし、神が人となって現われたことによって、神に従う者とそうでない者との区別が目に見える形ではっきりとさせられるようになったのです。ここにキリスト教信仰の厳しさがあります。

 しかし、それは単に厳しさだけを意味するのではありません。それはすべての人に開かれた道です。神はイエス・キリストを通して、すべての人々を救いへと招いておられるのです。神が人となられたことによって、神は私たちにとって、もはや遠い存在ではなくなったのです。私たちはどこか遠い所に神を探し求める必要はなくなったのです。神は具体的に人の姿を取って、私たちの所に来て下さったのです。

 今日はこれから聖餐を受けます。私たちは聖餐を通して、神と人となって私たちの所に来て下さったということを実感することができます。聖餐のパンはキリストの肉を、ぶどう酒はキリストの血を表わします。私たちは聖餐のパンをこの手に取り、それを食し、また、ぶどう酒を飲むことによって、キリストが私たちの手で触ることができるほどに身近な方として来てくださったということを実感することができるのです。神が人の肉をとり、血が通う人間として来られたのです。

 これは考えてみると、本当に驚くべきことではないでしょうか。神が私たちの目に見える姿で、この地上に来られたのですよ。私たちはどれほどの驚きをもって、この事実を受け止めているでしょうか。ある人が「神が人となった」ということがどれほど驚くべき出来事であるか、そのことに注意を喚起するために、次のようなことを言いました。私たちは毎朝、郵便受けから新聞を出します。その一面には、世間をあっと驚かせるような記事が載ることがあります。今日は何がトップ記事に出ているのか、皆さんも、それを見るのを楽しみにしているのではないでしょうか。

 しかし、もし、ある日、一面のトップ記事に「神が人となられた」という記事が出ていたらどうでしょうか。「神が人となられて、〜に現われた。」そういう記事が出たら、一大事ではないでしょうか。私たちは「神を一目見てみよう」と、我先にと、その現場へと駆けつけるのではないでしょうか。先日、吉野家の牛丼が一日だけ復活したということで、牛丼の復活祭が祝われました。人々はそれを聞いて、我先にと牛丼を食べようと行列を作って待っている姿が一面に載っていました。たかだか牛丼が復活したというだけで行列ができ、それが一面に載るのです。それなのに、どうして人々は、神が本当に人となって私たちの所に来られたということに注目しないのでしょうか。まともにこのことを受け止めたら、世界中がパニックに陥るのではないでしょうか。二千年前にナザレのイエスと出会った人々は、そういうセンセーショナルな出来事に直面したのです。十字架に架けられ殺されたはずの人が、死人の中から復活された。この驚くべき出来事に直面して、人々はこのイエスという人が、真の神であると信じるようになったのです。それを弟子たちは、良き報せ、「良き知らせ」(”Good News”:福音)として人々に告げ知らせたのです。

3.「イエス」という名

そもそも「イエス」という名前は当時極ありふれた名前に過ぎませんでした。イエスという人は他にも大勢いたのです。日本語で言えば、「一郎」や「次郎」という名前のように、他にも「イエス」という名前の人は大勢いたのです。日本語でも「一郎」と言えば、数え切れないほど沢山の一郎がいますが、私たちは恐らく、先ず最初に、あのダイリーガーの「イチロー」を思い浮かべるのではないでしょうか。それは、彼がそれだけ大きな業績を遺し、その名が人々に知られるようになったからなのです。それと同じように「イエス」も、その偉大なご生涯のゆえに、「イエス」と言えば、キリスト教の救い主を思い浮かべるほどに有名な人物となったのです。しかし、当時においては、他にも大勢のイエスがいたのです。

 一例を挙げれば、主イエスが十字架に架けられる前、ポンテオ・ピラトの法廷で裁判を受けました。マタイによる福音書27章15節以下にそのことが記されています。その時は丁度、祭りの時で恩赦を出すことになっていました。その時、ピラトは主イエスを救おうとして、もう一人の人とイエスとどちらを釈放して欲しいかと民衆に決断を迫ったのです。そのもう一人というのは、以前にローマ帝国に対して暴動を起こして囚人となっていたバラバ・イエスと人でした。ピラトは「どちらのイエスを釈放してほしいか、バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」と問うたのです。人々が囚人バラバ・イエスの方を選び取ったということは、真に皮肉なことです。そこに私たち人間の罪の姿が示されています。

 このように他にもイエスという名前の人は大勢いたのです。そこで人々は他のイエスと区別する意味で、この方が生まれ育った故郷の名前を取って、この方を「ナザレのイエス」と呼ぶようになったのです。

 ところで「イエス」という名前は、旧約聖書では「ヨシュア」と呼んでいました。旧約聖書の中では「ヨシュア」あるいは「ヨシア」という人が大勢登場致します。「ヨシュア」という名前は「主は救い」、「主は救い給う」という意味の名前です。主イエスの母マリヤは、まだヨセフと結婚する前に、聖霊によって子を身ごもりました。その時、天使が現われ、マリヤにその子を「イエスと名付けなさい」と命じたのです。なぜなら「この子は自分の民を罪から救うからである」というのです。つまり、この「イエス」という名前は、この子が特別な使命を帯びて生まれて来たということを表わす名前であったのです。今やこの「イエス」が神の御名として現わされたのです。神は旧約聖書においては、御自分を「主」という名の下に現わされました。しかし、今や、神は「イエス」という一人の人の名を御自分の御名として現わされたのです。神は人となられる時、数多くある名前の中から「イエス」という名を選び取られ、それを神の御名とされたのです。私たちは今や、この「イエス」という名をもって、神を呼ぶことができるのです。この「イエス」という名前そのものが、この方が一体どのような方であり、何のためにこの地上に来られたかを物語っているのです。これは神の本質を最も良く表わしている名前です。「人々を罪から救われる神」。それこそが最も深い神の本質なのです。聖書の神は、その罪ゆえに人々を滅ぼす神ではなくて、その罪から人間を救って下さる慈愛に満ちた神であることが、この「イエス」という名を通して知らされたのです。

4.キリスト

 では「キリスト」という名前は一体どのような意味なのでしょうか。実はこれは厳密に言うと、人の名前ではないのです。そうではなく、これは一つの称号なのです。「カイザー」と言えば、ローマ皇帝の称号のことで、カイザーは何代もいるのです。日本語の「天皇」という言葉と一緒です。「キリスト」という称号は、ヘブル語では「メシア」と言います。それは直訳すると「油注がれた者」という意味です。旧約聖書においては、特別な使命のために神様から選ばれた人に油が注がれました。例えば、国を治める王や、神殿に仕える祭司、あるいは、神の言葉を人々に宣べ伝えた預言者などが、その任務に就く時に油を注がれたのです。それは神がその人を御自分の御業のために、聖別されたということを象徴する行為なのです。そこから、「メシア」と言う言葉は、神によって特別な任務のために立てられた人、すなわち、救い主を意味するようになったのです。

 つまり、「イエス・キリスト」という呼び方は、このナザレのイエスこそ、救い主であると告白している言葉なのです。それは、単なる名前ではなくて、最も短い「信仰告白」なのです。キリスト教は「イエスはキリストである」と告白することから始まったのです。これが使徒信条のみならず、あらゆる信仰告白の原型なのです。当時も、今と同じように、他にも神と崇められるような人が大勢存在したはずです。当時の社会では、特にローマ皇帝が「主」として神のように崇められていました。キリスト者であっても皇帝崇拝を強要されたのです。そういう社会の中にあって、キリスト者たちは、このナザレのイエスこそが唯一の救い主であると告白したのです。その結果、どのような厳しい道を彼らが選び取らなければならなかったかは言うまでもありません。初代のキリスト者たちは、大変な迫害の時代を生き抜いてきたのです。そして、血と汗を流して、「イエスはキリストである」という信仰の告白を守り通して来たのです。この告白はそのようなキリスト者たちの血と汗の結晶なのです。

5.預言者・祭司・王の職務

その場合、大切なことは、イエスがどのような意味で救い主であるのか、イエスは具体的にどのような救いを私たちに与えて下さる方であるのかを私たちがはっきりと知ることです。この教会でも受洗準備会などで用いている『ハイデルベルク信仰問答』の問31は、この「キリスト」という言葉について詳しく説明しています。まずその問いにおいて、

「なぜこの方は『キリスト』すなわち『油注がれた者』と呼ばれるのですか」

と尋ねて、それに対して次のような答えが述べられています。

「なぜなら、この方は父なる神から次のように任職され、聖霊によって油注がれたからです。」

 そのように言うのです。そして、それに続いて、キリストが具体的には、三つの職務に任じられたことを説明しているのです。それは、預言者・祭司・王という三つの職務です。先ほど、聖書においては、預言者・祭司・王がその職務に任じられる時に油を注がれたということを説明致しました。聖書はイエスがキリストであると告白する時、具体的には、この方がこの三つの職務を一人で果たされた。だから、この方をキリストと呼んでいるのです。主イエスが私たちに与えて下さる救いはこの三つの職務に深く関係しているのです。

 ハイデルベルク信仰問答においては、まず「預言者」の職務については述べられています。この方は「わたしたちの最高の預言者また教師として、わたしたちの贖いに関する神の隠された熟慮と御意志とを、余すところなくわたしたちに啓示された。」そのように説明しています。イエス・キリストというお方は、何より神の言葉を語られました。父なる神が私たちの救いのために、どのようなご計画をご用意して下さっているのか、そのことを語られました。それが主イエスの預言者としての職務です。

 第二に「祭司」としての務めについては次のように述べられています。「わたしたちの唯一の大祭司として、御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを贖い、御父の御前でわたしたちのために絶えず執り成し」をして下さっていると説明しています。祭司というのは、旧約聖書においては、罪を犯した人のために、代わりに犠牲の捧げ物を捧げて、神に罪の赦しを願う人です。神と人との間を執り成し、両者を和解させるために立てられた人です。主イエスは、私たちの罪のために、大祭司としての務めを果たして下さったのです。具体的には、動物による犠牲ではなくて、御自身の体を生きた聖なる捧げ物として、十字架において献げられたのです。聖餐のパンとぶどう酒は、私たちの罪のために捧げられたキリストの肉と血を表わすものなのです。それによって、私たちの罪が完全に赦され、神と和解させて下さったのです。そして、復活された後、天に昇り、キリストは今も神の右に座して、そこで私たちのために執り成しの祈りをしていて下さるのです。それが主イエスの大祭司としての職務です。

 そして、最後に「王」の職務については次のように述べられています。「わたしたちの永遠の王として、御自分の言葉と霊とによってわたしたちを治め、獲得なさった贖いのもとに、わたしたちを守り保ってくださるのです。」主イエスは、今は天におられ、そこから御自身の御言葉と聖霊によって、私たちの教会を支配していて下さるのです。私たちが再び罪の支配に陥ることがないように守っていて下さる。それがキリストの王としての職務です。

 私たちが「イエスはキリスト(油注がれた者)」と告白する時、このような三つの職務を主イエスが私たちの救いのために果たして下さり、今も果たし続けて下さっているということを理解することが大切なのです。

6.キリスト者の務め

 さて、私たちはクリスチャン、あるいは、「キリスト者」と呼ばれています。それはただ、キリスト教の教えを信じている人のことを意味しているのではありません。そうではなく、具体的に、イエスがキリストであると信じ、それを公に告白し、洗礼を受けた人のことを「キリスト者」と言うのです。それは、キリストのものとされた者のことを意味するのです。キリスト者はキリストの体の一部にされ、キリストと同じように、聖霊によってその油注ぎに与かっているのです。私たちも神によって聖別されたもの、キリストのものとされたものなのです。つまり、イエス・キリストが果たされた預言者・祭司・王という三つの職務に任職されているのです。「キリスト者」になるということには、そういう重い責任が伴っているのです。
では具体的に、私たちはどのように、この三つの職務を果たしたら良いのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答の問32は、そのことを次のように述べています。まず預言者の職務ですが、私たちにとって預言者としての務めは、イエスをキリストと告白することです。神がナザレのイエスという一人の人として現われた。そのことを人々に伝えるのが預言者としての務めです。

 では祭司としての務めは何でしょうか。それは自分自身を、生きた感謝の献げ物としてキリストのために献げることです。それはイエスが歩まれた道を後から喜んで従って行くということです。神と人とに喜んで仕える道を歩むということです。
 最後に王としての務めは、この世において、何ものにも束縛されない、自由な良心をもって罪や悪魔と戦うことです。主イエス以外の何ものも神として拝まず、罪や悪魔と戦うことです。そして、この戦いを最後まで戦い抜いた者には、終わりの日に、イエス・キリストと共に、すべての被造物を永遠に支配することが約束されているのです。これが王としての務めです。私たちはイエス・キリストを通して、このような光栄ある務めに任じられているのです。私たちは「キリスト者」と呼ばれることが、どれほど光栄なことであるか、そのことを心に留めて、その名に恥じない歩みをして参りたいと思います。

天の父よ
 あなたは、あなたの愛する御子を世に遣わし、驚くべき御業を成し遂げて下さいました。この一人の人を通して、あなたは私たちに近くいまし、永遠に私たちと共にいてくださる方であることを知らされ、感謝致します。どうか、私たちがイエス・キリストから目を離すことなく、この方こそ、私たちの救い主であることを力強く証して参ることができますようにお守り下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン