+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教.05

旧約聖書:創世記1章1−5節 新約聖書:マタイ福音書10章29−31節

「天地の造り主」

1.「天地の造り主を信ず」

 本日は、使徒信条の講解説教の第5回目、「天地の造り主」について説教を致します。私たちは使徒信条の初めに

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」

と告白します。使徒信条は元々ラテン語で書かれていますが、その順序に従うとまず「我は全能の父なる神を信ず」と告白し、それから、その方が「天と地の造り主である」という説明が続きます。つまり、天と地を造られた主は「全能の父なる神」であることを使徒信条は告白しているのです。そのことは、一体何のためにこの世界が創造されたのか、私たちは一体何のためにこの人生を生きているのかを考える上で、決定的に重要なことなのです。

 一見すると、この使徒信条の最初の告白は、キリスト教でなくても、どんな宗教にも共通する信仰であるように思われます。神が天地の造り主であるということは特別な宗教を信じていない人でも、漠然と信じていることではないでしょうか。もちろん、科学的に言えば、進化論などの問題もありますが、それでも私たちは時に、この世界の背後には、人間の力を超えた何らかの神秘的な力が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。私たちは雄大な自然に触れると、人間の小ささを感じさせられます。高い山の頂上に登り、そこから下の世界を眺めると「自分は何て小さな世界でくよくよと生活していたことか」と反省させられることがあります。自然には人間の魂を癒す力があるようにも思われます。特に、私たち日本人は四季折々の豊かな自然に囲まれ、自然の中に神々が宿っているという素朴な信仰を多くの人々が持っているように思われます。高い山や大木、あるいは太陽など、自然そのものを神として崇める宗教を「自然宗教」と呼びます。日本には多くの自然宗教が存在していると思われます。その意味で、この使徒信条の最初の創造主なる神を信じる信仰は、その後に続く、イエス・キリストが処女マリヤより生まれたとか、死人の中から甦ったというような信仰と比べて、一般の人々にも受け入れられ易い信仰のように思われるのです。使徒信条は一般の人々も受け入れ易い信仰の告白を最初に持って来て、キリスト教信仰への入口としたのだと、理解する人々もいるかも知れません。

2.創造主と被造物との明確な区別

 しかし、実際には「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という告白は、私たちが自然を観察することによって生まれてくる告白ではないのです。使徒信条は決して自然そのものを神として崇めているわけではありません。むしろ、ここでは「造られたもの」と「造られた方」とを明確に区別しているのです。聖書においては、神によって造られたものを神として拝むことは、偶像礼拝として厳しく禁じられています。ここでははっきりと「天地の造り主を信ず」と告白されているのです。決して、自然そのものを神として拝むとか、自然の中に何か神秘的なものを見出すというようなことを言っているのではないのです。むしろ、この世界を造られた方は、他のすべての被造物と区別されるべきであることを明確に告白しているのです。

 ここで「天地の造り主」と言われていますが、「天」というのは、私たちが考えるような空や大気圏のことではありません。聖書で天という場合、それは目には見えないものが住む領域として造られたものなのです。そのような世界が存在することを表すものとして、聖書では「天使」が登場致します。天使は天からの使いであり、目には見えない世界の代表なのです。

 『讃美歌21』の93−4には、ニカイア・コンスタンティノポリス信条が記されていますが、そこでは創造主なる神への告白が次のように記されています。

「私たちは、ただひとりの神、すべてを支配される父、天と地と見えるものと見えないもののすべての造り主を信じます。」

 聖書においては、「天」も神が造られたものであり、目には見えない存在も神によって造られたものなのです。ですから、私たちが自然の中に、何らかの神秘的な力を感じたとしても、それがすぐに神であるということにはならないのです。目には見えない何らかの霊的な力であったとしても、それは創造主なる神とは明確に区別されるべきなのです。反対に地というのは、単に地面のことだけではなくて、目に見えるすべてのものを指しているのです。
更に重要なことは、使徒信条がこの世界を造られた方は私たちに知られていない未知のお方ではなくて、「全能の父なる神」であることを明確に告白していることです。この世界はただ自然発生的に生まれてきたのではなくて、父なる神の御意志によって造られたものであることを告白しているのです。この世界は、神が父としての深い配慮を持って造られた世界なのです。神は子に対する父の深い愛をもって、この世界を今も支えて下さっている。この方の支えがなければ、この世界は一瞬たりとも存在することは許されない。そのことを明確に告白しているのです。そして、そのことを本当の意味で明らかにされたのは、神の独り子であられるイエス・キリスト御自身なのです。

 今日与えられました新約聖書の御言葉、マタイによる福音書10章29節以下には次のように記されています。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなかれば、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」


 
イエス・キリストは、天地を造られた方がこれほど慈愛に満ちた父なる神であることを私たちに教えて下さったのです。ですから、私たちはイエス・キリストを信じる信仰を抜きにして、天地を造られた主がどのような方であるかを本当に正しく信じることはできないのです。

3.光の創造

 そのような目を持って、改めて旧約聖書の初めに記された創造の物語を読みますと、最初の創造の御業の中に、既に父なる神の深い愛が示されていることに気付かされます。創世記の最初の創造物語(創世記1:1−5)は、この世界がどのようにして生まれてきたかというようなことを問題にしているのではありません。しばしば、学校の教科書で教えられる進化論と聖書の創造物語との関係が問題とされますが、そもそも聖書はそのような科学的な視点で書かれたのではないのです。むしろ、この創世記の物語は「信仰の告白」なのです。つまり、この世界を造られた主は、全能の父なる神であるということ。この父なる神の愛によって世界は造られ、今も父なる神の愛によって支えられているということを告白しているのです。

 ここで注目すべきことは、神がこの世界を創造なさった時、最初に造られたのは「光」であったということです。自然も動物も人間も、これから後に造られるものは、すべてこの光の中で造られたものなのです。ここに神の明確な父としての御心が示されています。神は私たちが暗い人生を送ることを望んではおられないのです。むしろ、明るい光に照らされた世界で生きるようにという御意志をもって、この世界を造られたのです。この最初の時点で「闇」ははっきりと背後に退けられているのです。神は私たちが光の中で明るい人生を送るようにと、この世界を造られたのです。

4.闇の由来

 しかし、そうであるならば、どうして、この世界には「闇」が存在するのか、と問わざるを得ないと思います。確かに私たちは人生を歩む中で「闇」の力を経験致します。「闇の力」とは、言い換えれば、罪の力であり、悪の力、死の力です。私たちは誰でも明るく幸せな人生を送りたいと願いながら、現実には、誰しも心の中に人には言えない「闇」の部分を抱えて生きています。上辺では人に合わせて都合の良いことを語っていながら、心の中では相手の人を見下したり、憎んだり、妬んだり致します。私たちは人を本当に愛せない「闇」の部分を心に抱えています。それが私たちの人生を暗くしています。

 それは心の問題だけではありません。「闇」の力は、私たちの外からも襲ってくることがあります。将来に大きな夢を抱いて一生懸命努力していた人が突然病に倒れて、目の前が真っ暗になるということもあるでしょう。愛する人が死によって突然奪われることもあります。私たちが毎日、ニュースで目にするのは、そのような暗い「闇」の部分ばかりです。先日も飲酒運転の車に激突され、親子連れの車が川に転落し、幼い子ども三人が犠牲になるという何とも痛ましい事件が起こりました。私たちは、神がいるならば、何故、このような事件が次々と起こるのかと問わずにはおれないのです。

 一体この「闇」の力はどこから生まれてきたのでしょうか。聖書はそれに対してはっきりとした答えを与えていません。創世記の最初を読むと、「地は混沌であって、闇は深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:2)と記されています。ここを読みますと、あたかも神が光を創造される前に、既に「闇」が存在していたかのように思われるのです。聖書では明らかに「闇」は神が創造されたものではないのです。それが一体どこから来たのか、いつから存在しているのかということに関しては、聖書もまたはっきりとは告げていないのです。しかし、聖書がはっきりと告げていることは、神は最初に「光」を創造されたということ、そして、光を創造されることによって、「闇」を背後に退けられたということなのです。神は圧倒的な恵みの力をもって、闇を背後に退けられたのです。ここから闇の力は神と争うことができるような勢力ではないことが分かります。4節には

「神は光を見て、良しとされた」

と記されています。神が良しとされたのは、御自分が造られた光だけであって、この光の中で、神はすべてのものを造られたのです。創造の最初の時点で、闇は背後に退けられているということはとても大切なことです。神は明確に光と闇を分けられたのです。神の造られた最初の世界においては、闇は何の役割も果たしていないのです。闇が働く余地はそこにはなかったのです。ただ「光」が造られたことによって、その影の部分のように「闇」が存在するということだけが語られています。

5.罪に陥った人間

 反対に言うと、私たちはただ神の力によってのみ、闇の力から守られているのです。そこに父なる神の深い慈愛が示されているのです。私たちは「闇」と隣り合わせの現実の中で生きています。いつ、その闇の力が私たちを襲ってくるか分からないのです。私たちはただ父なる神の慈愛によってのみ、この闇の力に陥ることが無いように守られているのです。光の中で生きるように守られている。それが創世記の創造物語が告げていることなのです。しかし、もし、私たちが父なる神の御心に背き、神から離れてしまうならば、私たちはたちまち闇の深淵の中に陥ってしまうのです。それが創世記3章において語られている物語なのです。「罪」というのは、私たちを闇の力から守ってくださっている神から離れてしまうことなのです。人間があたかも神の助けがなくても、自分一人の力で生きて行けるかのように思ってしまう。それが人間の罪なのです。私たちは神の力によって、この闇の力から守られていることに気付かないのです。この闇の力がどれほど大きな力であり、私たちの力では到底太刀打ちできるような相手ではないことに気付かないのです。闇の力は人間の「罪」を利用して、この世界に入り込んでくるのです。神によって最初に造られた人アダムとエバは、神の戒めに背き、罪を犯したために、神が最初に退けたはずの「闇」の力が、この世界に入り込んで来てしまったのです。人間が罪を犯すことによって、「闇」の力に働く機会を与えてしまったのです。光の中で明るい人生を歩むようにという父なる神の深い配慮を人間は踏み躙り、神が造られた世界を台無しにしてしまったのです。こうして、人間の世界に死が入り込んできたのです。

6.御言葉による創造

 しかし、父なる神様は、御自身に背いた人間を決して見捨てるようなことはなさいませんでした。神様が造られた光は、完全に闇に呑みこまれるようなことはなかったのです。それどころか、天地を造られた神は私たちを闇の力から救い出すために、御自身人間となって、この闇の世界に来て下さったのです。そのことをヨハネによる福音書は不思議な仕方で述べています。ヨハネによる福音書1章1−5節には次のようにあります。ここでは明らかに創世記の創造物語を念頭に置いて語られています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

そして、14節では

この「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」

と続くのです。
このヨハネによる福音書の言葉を念頭に置いて、創世記の創造物語を読みますと、驚くべきことに気付かされます。創世記1章3節では、神は最初に光を創造される時に、「光あれ」と言を語ることによって、光を造られているのです。光だけではありません。大空も、地も、草も、太陽も、月も、星も、鳥も、魚も、動物も、そして、人間もすべてが「神の言」によって造られているのです。神は何かもともとあった素材を用いて、この世界を造られたのではないのです。そうではなく、全くの無からすべてのものを御自分の言を通して造られたのです。特に人間は特別に神に似せて造られました。人間は神と向き合い、神の愛の語りかけを受けて生きる存在として造られたのです。それが「言によって成った」ということの意味です。


7
.キリストにある新しい創造

神の愛は私たちの日々の生活の中に満ちあふれているのです。マタイによる福音書10章29−31節にもそのことが記されておりました。そして、その最後に次のように述べられています。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」神がお許しにならなければ、雀一羽さえ地に落ちることはないのです。私たち人間はその雀よりも遥かに深く神によって愛されているのです。その根拠はどこにあるのでしょうか。私たち人間が雀よりも遥かに優っているとどうして言えるのでしょうか。それは私たち人間が雀と比べて、特別な能力を持っているからではありません。そうではなくて、それは神が他ならぬ人となって下さったからなのです。神は多くの被造物を造られました。その中で、他でもない人間となって、この地上に来て下さった。それほどに私たち人間を愛し重んじて下さる方であることを示されたのです。神が人となって下さった。言は肉となって私たちの間に宿られた。これが神の御子イエス・キリストの誕生です。そこに父なる神の計り知れない深い愛が示されています。私たちはイエス・キリストを神の子、救い主と信じる時、私たちが人としてこの世に生まれてきたことを誇りにできます。私たちは人間であることを恥じる必要はないのです。どんなに罪深く、惨めな者であっても、神はそのような私たちと同じ一人の人となって下さったのです。罪の中にある悲惨な運命を御自身の運命として背負って下さったのです。私たちが心の中に抱えている闇をも、御自分のものとして担って下さるのです。そして、復活によって、この闇の力を打ち破り、私たちが再び神と共に光の中で生きる道を開いて下さったのです。イエス・キリストの復活と共に、神と共に生きる新しい人間が創造されたのです。キリストの復活は第二の新しい創造の御業です。私たちはキリストを信じる時、その新しい創造の御業に与かることができるのです。
詩編8編には次のような言葉が記されています。

「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何者なのでしょう。あなたが顧みて下さるとは」
(詩編8編4−5節)。

被造物の中でどれだけ深い神の愛が私たち人間に注がれているかということをイエス・キリストを通して教えられるのです。

私たちの周りには、イエス・キリストを知らないために、闇の中に閉じこもって生きている人々が大勢います。そのような人々に、天地の造り主であり、全能の父なる神は素晴らしい人生を私たちの前に用意して下さっていることを証して行きましょう。

天地の造り主、全能の父なる御神よ
 あなたは御子イエス・キリストのゆえに、あなたを父と呼ぶことを許してくださいますことを感謝致します。取るに足り罪人をも、あなたは子として愛して下さいます。あなたの愛は、この世界に満ち満ちております。主よ、今、暗闇の中にある人々をどうか光をお与え下さい。私たちをそのためにお遣わし下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。