+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教.04

旧約聖書:創世記17章1−8節 新約聖書:マタイ福音書19章25−26節

「全能の神」

T.教会創立100周年に向けて:礼拝の秩序の確立

 本日は、使徒信条の講解説教の第四回目になります。私たちの白銀教会では、先週の日曜日に、教会創立100周年記念に関して臨時教会総会が持たれました。その中で白銀教会創立100周年記念に関する件が議決され、いよいよ本格的に100周年に向けて歩み始めました。私たちの教会は100周年に当たって、幾つかの事業や行事を予定しておりますが、何より白銀教会の「礼拝の秩序を確立すること」を、その柱として掲げました。白銀教会がこの場所に建てられた目的は、この地において神に真の礼拝を捧げることに他なりません。この場所でいつも真の礼拝が守られている。この場所に来れば、神の民の礼拝に与かることができる。それがこの地域の人々に対して、私たちの教会が果たすべき責任なのです。伝道はこの礼拝に人々を招き、神を礼拝する民に人々が新たに加えられて行くことに他なりません。

 その際、一番大切なことは、私たちが神の民として、信仰において本当に一致して歩んでいるかどうかということです。どんなに立派な信仰を持った人々が集まっていたとしても、私たちが信仰において一致していなければ、教会として力強い歩みをなすことはできません。私たちが本当に信仰において一致し、共通の基盤に立つ時に、礼拝は秩序あるものとなり、堅固な教会が建てられ、そして、力強い伝道の業が推し進められて行くのです。

 ではどのようにして、私たちは信仰の一致を確かめることができるのでしょうか。それは公同の礼拝において、同じ信仰告白文を共に告白することによる以外にありません。ですから、私たちは100周年の目標として、

「信仰告白の上に立つ教会の形成」

を掲げました。私たちの教会がもう一度、信仰の共通の基盤を確立するために、「日本基督教団信仰告白」と「使徒信条」を学ぶことにしたのです。しかし、それは単なる学びに終止するものではありません。これは極めて実践的な取り組みです。私たちの教会が新しい100年の歴史に向かって、力強い伝道の歩みをなすために、私たちの足腰を鍛え直す取り組みであると言っても良いでありましょう。これこそ創立100周年を迎える教会に最も相応しい取り組みであると言えます。

U.「全能の神」

 さて、そのような信仰の共通基盤を確立するために、私たちは礼拝において、使徒信条の講解説教に取り組んでいるわけですが、今日はその四回目、「全能の神」について説教を致します。使徒信条は、まず父なる神に対する信仰を告白していますが、その父なる神がどのような方であるかを説明するために「全能の」という言葉を付加えたのです。しかし、改めて考えて見ると、使徒信条がどうして、父なる神を説明する言葉として、「全能の」という言葉を選んだのか、これは大変不思議なことではないでしょうか。聖書を読むと、神を表わす言葉は他にも沢山あるのです。例えば、神様は御自身のことを「聖なる神」と言われております。あるいは「義なる神」という言葉も出て参りますし、「神は愛である」とも言われています。そのように、聖書には神を表わす言葉は数多く存在するのです。しかし、使徒信条は、父なる神を説明する言葉として、「全能の」という言葉だけを選んだのです。一体なぜでしょうか。それはこの言葉こそ、父なる神がどのようなお方であるかを最も良く表わすことのできる言葉であると理解したからに他なりません。

V.全能とは何か

 私たちは普通「全能」という言葉を聞きますと、それは何でもできることだと思うのではないでしょうか。神には不可能なことは何もない。神には何でもできる。何でもできる人が神だと思っているのではないでしょうか。そして、私たちは、神のようになりたいと思うのです。神のような力を持つことを望んでいるのです。しかし、本当に何でもできる力を持った人が神なのでしょうか。

 非常に興味深いことに、ヒットラーは神について語る時、決まって「全能者」と呼んでいたそうです。彼はまさに力そのものを神として崇め、自ら「全能者」になろうという欲望を持って、世界を混乱に陥れた人物でありました。力は用いられ方によって、善にもなれば悪にもなるのです。ですから「全能者」が必ずしも真の神であるとは限らないのです。反対に悪魔が全能者である場合すらあるのです。悪魔が絶対的な権力を手に入れる時、私たちの世界は混乱に陥ります。私たちの国も、かつて人間を神のように崇め、絶対的な権力を求め、他の国を侵略し、そして、破滅に陥りました。私たちは今日8月6日、広島に原子爆弾が落とされたこの日に、力そのものを神のように崇めることが、どれほど私たちに大きな災いをもたらすかということを思わずにはおれません。ですから、私たちは、ただ絶対的な権力を持っているものを神と崇めるのでは駄目なのです。

 そこで大切なことは、使徒信条においては、「全能であること」と「父であること」とが結び合わされているということなのです。神の全能は父としての全能なのです。神はこの世の独裁者のように、人々から自由を奪い取る仕方で支配するのではなくて、父としての深い愛をもって御自身の全能を用いられるのです。私たちが自由に人間らしい生活が送れるような仕方で、その全能の御手をもって支配して下さるのです。

 父なる神様は、無意味に御自分の力を用いることはなさりません。権力を濫用するような方ではありません。そうではなく、「正義」と「愛」をもって、その力を用いられる方なのです。私たちが神の全能を考える場合、「正義」と切り離して考えてはならなりません。ある人は、神の力というのは「正義の力」であると言いました。父なる神様は正義を曲げるような仕方で、全能を用いることはなさらないのです。また、その人は、神の力は「愛の力」であるとも言いました。それは他者を生かす力であるということです。他者を犠牲にしてまで、自分勝手に用いられる力ではなくて、他者のために用いられる力なのです。

W.創世記における全能の神

 今日与えられました旧約聖書の御言葉、創世記17章1節以下を読みますとそのことが良く分って参ります。ここで主はアブラムが99歳の時、彼に現われました。アブハムというのは、後にアブラハムと名前が変わる人物ですが、彼は「信仰の父」と呼ばれ、イスラエル民族の選びは、彼を通して始まったのです。その彼に主なる神は次のように言われたのです。

「わたしは全能の神である。」


 
聖書を創世記の最初から読み進めて行くと分かることですが、神が、御自分がどのような方であるのかを語るのは、ここが始めてなのです。これまでももちろん、神は登場致しましたし、人間に語りかけて来られました。しかし、「わたしは〜である」とはっきりと語られたのは、これが初めてなのです。この時初めて、神はアブラハムに自己紹介をしたのです。神が最初に御自身について語られた時に、「わたしは全能の神である」と言われたことは大変重要であると思います。それは、聖書の神がどのような方であるかを最も良く表現している言葉なのです。そして、神は続けて言われました。

「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしはあなたと契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」

 
主なる神は、ここで御自身に従うようにアブラムに命じておられます。しかし、神は力で上から抑えつけるような仕方で、アブラムを強制的に従わせたのではありません。そうではなく、ここでは神はアブラムに対して人格的に呼びかけ、それに応答するように求めているのです。神との愛の関係の中で生きるように招かれているのです。

 それは主なる神がここで、アブラムとの間に契約を立てておられることからも分かります。契約を結ぶということは、そこに人格的な愛の関係があることを示しています。天地の造り主であり、全能者なる神が身を低くして、砂粒ほどに小さな人間の所に降りて来て下さる。そして、この人間を選び、契約を結び、御自身のパートナーとしてくださる。そこに神の限りない愛が示されています。神が全能であるということは、この契約が実現されて行くことの中でイスラエルの民に示されて行くのです。

 そして、この契約に際して、アブラムには新しい名前が与えられるのです。

「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。」

ここで神は、この契約に相応しい名前をアブラハムに与えられました。日本語でも「名は体を表す」と言いますが、新しい名前を与えるということは、その人が全く新しい人間に生まれ変わったということを意味するのです。神は本来御自身の契約に相応しくない者も、それに相応しい者へと造り変えることのできるお方なのです。それがこの「アブラハム」という名前に示されているのです。このように神の全能というのは、私たちに恐怖を与え、押さえつけるようなものではなく、正しく、善意に満ち、自由を与え、私たちを生かす力なのです。

X.「神は何でもできる」

 新約聖書においても同じことが言えます。今日与えられましたもう一つの御言葉、マタイによる福音書19章26節では、

「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」

と言われています。ここで「何でもできる」ということは、ただ漠然と「神には不可能なことは何もない」と言っているのではありません。ここではその前に、主イエスの下を尋ねてきた青年の物語が語られているのです。この青年は、神の掟を熱心に守って、非の打ち所のない生活をしていましたが、ただ一つ、彼に欠けていたことがあったのです。それは彼が沢山の財産を持っていたということです。主イエスは彼に言われました。

「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」


 
ここで主イエスは、この青年が富の力により頼むのではなくて、全能の神の力に依り頼むように招かれておられるのです。ところがこの青年はこの世の富に対する執着心を捨て切れず、主の下を立ち去ったのです。
すると、その後、主イエスは弟子たちに次のように言われました。

「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」


 
主イエスは人間がこの世の富への執着心をすべて捨て去って、御自身に従うことがどんなに難しいことであるかをご存知であったのです。この世の富だけではありません。この世の権力にしても、名声にしても、私たちはそれらすべてを捨て去って、主に従うことができないのです。むしろ、この世の一切の権力と富と地位とを手に入れて、自分が全能者の地位に座ることを望んでいる者たちです。何よりも私たちは自分自身、「エゴ」に捕らわれている者たちです。私たちは自分自身に固執しています。自分を捨て切ることのできない者たちです。そこに私たち人間の限界があります。そういう罪深い者が救われることは、らくだが針の穴を通るよりも難しいことなのです。

 そこで弟子たちは「それでは、誰が救われるのだろうか」と尋ねたのです。すると、主イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と答えられたのです。ですから、ここでは「神は何でもできる」ということは、神様はどんな人間でも救いへと導くことができるということを語っているのです。富に執着している青年であっても、神は彼を悔い改めへと導き、ご自身の契約に相応しい者として、新しく生まれ変わらせることができる、と語っておられるのです。

Y.神の力であるイエス・キリスト

 そのことはまさに、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、明らかにされたことなのです。コリントの信徒への手紙一1章18節には次のようにあります。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」


更に23節。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」


 
このイエス・キリストこそ神の力、神の知恵に他ならないのです。ここでは特に「十字架の言葉」ということが強調されています。主イエスの十字架の死においてこそ、神の全能の力が示されたのです。十字架の死は、この世の人々の目には全く愚かに映ります。それは弱さであり、敗北であり、恥辱に過ぎません。しかし、神はそこにおいてこそ、御自分が全能なる神であることを隠れた仕方において示されたのです。父なる神は私たちの罪を贖うために、犠牲の供え物として愛する独り子を捧げられました。私たち罪人と和解するために、神自らが人となり、私たちの代わりに死んで下さったのです。全く救いに相応しくない者のために、神は命を捨てられたのです。主イエスはある時次のように言われました。

「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」(ヨハネ福音書10:18)。

そしてまた、次のようにも言われました。

「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)。

 これこそが、まさに神の全能なのです。神は自分自身に固執することなく、自ら命を捨てることができるのです。それは単なる自殺ではなくて、他者のために命を捨てることです。それも全く価値のない者のために、御自身に背く者のために命を捨てることができるのです。これこそが神の愛の全能なのです。そして、神は一度捨てた命を再び受けることもできるのです。神は死を打ち破って復活することによって、全能の力を示されたのです。それゆえに、パウロは次のように告白しています。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8:38−39)。

この確信は、まさにイエス・キリストの十字架の死と復活を通して示された神の全能に由来しているのです。

Z.「全能の神の御名において!」

 最後に私たちが全能の父なる神を信じる時、そこには具体的にどのような生き方が生まれて来るのか、どのような社会が築かれて行くのかということについてお話したいと思います。大変興味深いことですが、スイス連邦の憲法の前文は「全能の神の御名において!」という一文で始まっているのです。それは次のような内容です。

「全能の神の御名において!スイス国民と邦は、被造物に対する責任において、自由および民主主義と、世界に対する連帯と公開の中での独立および平和とを強化するために連邦をつねに革新する努力において、統一の中の多様性を相互に顧慮し、またそれに留意しつつ生きることの意思において、将来世代に対する共同の成果と責任と自覚において、自己の自由を[眠らせることなく]行使する人だけが自由であること、および、国民の強さは弱者の福祉を尺度として評価されることを確信しつつ、以下の憲法を制定する。」

 この憲法においては、国家の権力を神の全能の下に置き、神の正義と愛の支配の下に、これを用いることを明確にしています。そのように全能なる神が唯一真の神として崇められる所では、人々の間に「自由」と「平等」が支配する社会が築かれて行くのです。私たちは真の神を全能者として崇める時に初めて、本当に人間らしい自由な生き方をすることができるようになるのです。そして、私たちも権力を自分の利益のために用いたり、自分勝手に用いるのではなくて、神の正義と愛に基づいて、権力を他者のために用いて行く生き方へと導かれて行くのです。

全能の父なる御神
 私たちは真に惨めな者です。自らの力によっては救いに至ることができないにもかかわらず、私たちはなお自分たちの力に依り頼み、この世の権力、富の力に依り頼もうと致します。どうか、このような愚かな私たちを、あなたが全能の御手をもってお救い下さい。私たちには為し得ないことを、あなたはあなたの愛する御子を通して、成し遂げて下さいました。御子の十字架の死と復活において示された神の力、神の知恵にのみ依り頼んで生きる者とさせて下さい。
今日、この日、私たちは特に世界の平和のために祈ります。私たちは、この世界に平和が実現することを願いながらも、真に無力な者たちであることを日々痛感し、また自ら、争いの種になるような愚かな者たちであります。どうか、互いに相敵対する者同志が、イエス・キリストにあって和解し、この世の権力を廻る愚かな争いから自由にされますように、この世界にあなたの全き御支配が確立されますように。御国が来ますように祈り求めます。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。