+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教.03

旧約聖書:申命記31章30−32章6節 新約聖書:マタイ福音書11章25−30節

「父なる神」

1.「父なる神」を信ず

 本日は使徒信条の講解説教の第三回目になります。今回は「父なる神」について説教を致します。使徒信条は、私たちが信じている神がどのような神であるのかを簡潔に言い表した文書です。しかし、一言で「神」と言っても、この日本にはいろいろな神々が存在すると信じられています。国語辞典で「神」という言葉を引いて見ますと、実にいろいろな意味で用いられていることが分かります。日本語で「神」という字は、天皇、または、天皇の祖先のことを指すこともありますし、死後に神社にまつられた霊を表すこともあります。更には、雷や蛇や猛獣のことも「神」と呼ぶことがあります。このように日本語で「神」と言っても、一体どのような神であるのかはっきりと分からないのです。しかし、使徒信条は私たちが信じている神が「父なる神」であることを初めからはっきりと告白しています。

 では「父なる神」とは、一体どのようなお方なのでしょうか。父と言っても、どういう意味で父なのでしょうか。それは単なる比喩なのでしょうか。つまり、神はすべてのものを造られた方であり、すべてのものの生みの親であるから、そのような意味で「父なる神」と言われているのでしょうか。確かに聖書が「父」という言葉を用いる時、そういう意味も込められています。創世記の初めには、神が初めに天と地を造られ、御自分に似せて私たち人間をお造りくださったことが記されております。モーセもその意味で

「彼は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方」

と告白しています。つまり、神は天地万物の生みの親であり、すべてのものの父であるということができます。
しかし、新約聖書においては、「父なる神」という場合には、それは何よりも先ず、「イエス・キリストの父なる神」という意味で用いられているのです。イエス・キリストは神の独り子です。父なる神様とただ一人、親子の関係にある方です。本来の意味で、神を父と呼ぶことができるのは、イエス・キリストだけなのです。主イエスは神に向かって「アバ、父よ」と呼びかけました。「アバ」というのは、幼い子どもが使う言葉で、「パパ」というようなニュアンスの言葉です。他人であれば「パパ」などと馴れ馴れしく呼ぶことはできません。実の子であるからこそ、何の気兼ねもなく、「パパ」と呼ぶことができるのです。父が自分を愛していることを何の疑いもなく信じている。この言葉には、そのような子どもらしい無邪気さが表現されています。親子の関係というものは特別なものなのです。

2.家庭での父の姿

 私がドイツにおりました時、向こうの大学で大変お世話になりました教授がおりました。高名な学者で私などは全く近寄り難い存在でした。教授の前に行く時にはいつも緊張したものです。とても忙しく、秒刻みで動くようなスケジュールを毎日こなしておられました。しかし、ある時、思いがけずその教授がご自宅に招いて下さったのです。大変名誉なことでしたがとても緊張しました。そこで初めて、教授の奥様とお子さんたちにお会いしました。大変親切に受け入れて下さり、夕食を共にしましたが、そこではいつも大学で見ているのとは全く別の教授の姿を目にすることができました。考えて見れば当たり前のことなのですが、子供たちは教授に向かって「パパ、パパ」と何の気兼ねもなしに呼ぶのです。時には父親に文句を言ったり、怒られるとすねたりします。どんなに高名な教授であっても、家庭に帰れば一人の父親であり、一人の夫に過ぎません。子どもたちからすれば、掛け替えのないただ一人の父親です。そんな家庭での一面を見て、今まで近寄り難かった教授に親しみを覚えるようになりました。この教授は元々とても親切な方でしたが、やっぱり父親の本当の姿は子どもにしか分からないものです。父としての姿は親子の関係の中でしか分からないものです。

 イエス・キリストは神の独り子です。この方は言うなれば、家庭での父なる神の姿を知っているただ独りの方なのです。何の気兼ねもなく、神を「パパ」と呼ぶことのできる唯一のお方です。神がどんなお父さんであるのか、それを知っているのは、実の息子であるイエス・キリストだけなのです。今日の御言葉においても、主イエスは

「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」

と言われています。またヨハネによる福音書1章18節には

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」

と言われています。私たちはこの方を通してでなければ、天におられる神がどのような父であるのかを知ることはできないのです。

3.放蕩息子の譬え

 イエス・キリストは様々な譬え話を通して、父なる神様がどのようなお方であるかを教えて下さいました。その中でも最も有名なのが、あの放蕩息子の譬え話です。それはルカによる福音書15章11節以下に記されています。ある人に二人の息子がいました。その弟の方が、お父さんから譲り受けることになっている財産を受け取り、お父さんの下を離れ、遠い国に旅に出て行きました。そこで彼は放蕩の限りを尽くしました。お金がある内は自分の周りに大勢の人々が集まってきました。それが嬉しくて、彼はどんどんお金をばら撒いてしまいました。父が一生懸命稼いだ大切なお金を彼は何も考えずに使い果たしてしまったのです。お金がなくなると、途端に誰も自分を相手にしてくれる人はいなくなりました。それに追い討ちをかけるように飢饉が襲ってきました。彼は無一文で、その日の食べ物すら手に入れることができず、豚の世話をする、どん底の生活を送りました。彼は初めて現実の厳しさを知らされました。世間の冷たい風に曝されたのです。

 この放蕩息子は、お父さんの下を離れ、すべてを失って、初めて我に返りました。「お父さんに対して、本当に悪いことをした」と後悔したのです。旅に出る前は、お父さんの財産のことしか頭になかったのに、今初めて彼にとって本当に大切なものは何であるかに気付かされたのです。お金さえあれば、自分の力で生きて行けると思っていましたが、そうではありませんでした。彼はこれまで気付かない仕方で、お父さんの愛に守れていたことに気付かされたのです。それまで当たり前のように思っていた生活の中に、どれだけ深いお父さんの愛が隠されていたことか、気付かない仕方でどれだけお父さんに頼っていたか、彼は自分の存在の小ささと同時に、お父さんの存在の大きさに気付かされたのです。
彼はお父さんの下に帰ろうと決心しました。するとお父さんは、息子がまだ遠くにいる時に息子を見出し、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻したのです。息子を責めるようなことはしませんでした。お父さんは来る日も来る日も息子のことを心配して、息子が帰ってくるのを待っていたのでしょう。いつも家の外に立ち、遠くを見て、息子の身を案じていたのでしょう。その息子が遂に帰って来たのです。息子はお父さんに言いました。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。」

しかし、お父さんは家来たちに言いました。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせてやりなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」

4.レンブラントの「放蕩息子」

 レンブラントという画家は、この「放蕩息子」の譬え話を題材にして、大変印象的な絵を遺しました。それは彼が死ぬ前年1668年から69年にかけて画かれたと言われています。レンブラントは世を去る前、この一枚の絵に彼の晩年の思いを込めて画いたと言われるほど貴重な絵です。

 レンブラントは1606年、粉屋の息子として生まれました。彼は若くしてその才能を認められ、その名声は不動のものとなります。彼は名門の娘サスキアと結婚し、社会的にも家庭的にも成功をおさめました。その翌年1635年、彼が29歳の時に、彼は一枚の絵を描きました。それは「酒場の放蕩息子」という題の絵です。この絵は、まさに人生の絶頂期にあるレンブラントの姿を生き生きと伝えています。仕官風に着飾り、傲慢に膨れ上がった顔をして笑っている若者が、乾杯のしぐさをして、酒をついだグラスを高々と挙げています。その膝の上には若い女性が座っています。それは彼の妻サスキアだと言われています。女性の横には「傲慢」の象徴である孔雀が描かれ、その上には「浪費」の象徴である黒い勘定板が描かれています。レンブラントはこの絵において、あの父の下を離れ、放蕩の限りを尽くした息子と自分を重ね合わせて描いたと言われています。まさに人生の頂点に上り詰めた自分の姿を自戒を込めて画いたとも言われています。

 彼がうっすらと感じていた不安は現実のものとなりました。彼はその後、あの放蕩息子と同じ人生を歩むことになったのです。彼には三人の子どもが与えられましたが、皆生まれてから数ヶ月して、次々と世を去ってしまいます。悲しむ妻のために、彼は借金までしてアムステルダムの一等地に大邸宅を買い求めましたが、4人目の子ども・ティトゥスを産んだサスキアは30歳の若さで亡くなります。妻を失った後、彼は大きな借金をかかえ、おまけに投資に失敗し、絵の注文もめっきり減ってしまいました。そして、破産に追い込まれたのです。

 彼の最後の息子ティトゥスも1668年に27歳という若さで世を去ります。その後、レンブラントはますます貧困に陥り、苦悩の内に世を去って行きました。その前年に、彼は「放蕩息子の帰宅」という題の絵を画いたのです。それはまさに、人生で築き上げてきたものすべてを剥ぎ取られ、身も心もぼろぼろに引き裂かれたレンブラント自身の姿を映し出すような絵です。放蕩の限りを尽くして、やっとの思いで父の下に帰った息子は、ぼろぼろの服をまとい、靴も破れて、片一方は脱げ、跪いて目をつむり、父の懐に抱かれています。その顔は「やっと本当の安らぎに巡り会えた」というような表情をしています。この絵の中で最も印象深いのは、父親の手です。父は少し身を屈めた姿勢で立ち、両手をそっと息子の肩に当てています。その両手を見ていると、息子を労わる父の深い愛が伝わってくるようです。父の後ろには、三人の男たちが無表情で息子を見下ろしています。その中には恐らく、長男もいることでしょう。それに比べて、父の顔だけは明るい光に照らされ、その慈愛に満ちた眼差しが息子に注がれているのです。レンブラントの絵は光と影のコントラストが特徴的ですが、バックが影に覆われているのに対して、父と子には光が当てられ、愛の光に包まれているような雰囲気を醸し出しています。悔改めて帰ってきた息子の気持ちをすべてそのまま受け入れるようにして、父の姿が描かれています。レンブラントは、もうすぐ天の父の下に帰ろうとしている自分の姿を、あの疲れ果て落ちぶれた息子と重ね合わせて描いたと言われています。

5.父と子の永遠の交わり

 これが父なる神の愛なのです。神の目には、私たちはこの放蕩息子のように映っているのです。私たちは普段、どれだけ深い神の愛によって守られているかになかなか気付かないのです。若い時は華やかな人生に憧れます。お金さえあれば何でも自分の思い通りになると思います。そのように傲慢に心が膨れ上がっている内は、本当に天の父に出会うことはできません。父を求めようとはしないのです。

 しかし、天の父はそのような私たちでも待ち続けて下さっているのです。私たちにとって本当に大切なものは何であるのかに自分で気付くまで、天の父はじっと私たちの帰りを待ち続けて下さるのです。決して私たちのことを見放さず、限りない愛をもって、私たちの帰りを待ち続けて下さっているのです。それがイエス・キリストの十字架の死と復活を通して、私たちに示された父なる神の愛なのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。」


 
キリストの十字架の死ゆえに罪赦された者は、復活の命を頂き、父の下で神の子として生きることが許されるのです。神を父と呼ぶ資格のない者にも、イエス・キリストの十字架のゆえに「アバ、父よ」と呼ぶことを赦して下さるのです。

 あの息子が放蕩の限りを尽くして、この世の享楽に耽り、身を持ち崩した結果、彼が最後に求めたものはただ一つ、父の愛だけでした。私たちの渇いた魂を本当に満たすことができるのは、父なる神の愛だけなのです。慈愛に満ちた父の懐に安らうことは、何と幸いなことでしょうか。イエス・キリストは

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」

と私たちを招いておられます。キリストは、この慈愛に満ちた父の愛の中で生きるように、私たちを招いて下さるのです。キリストは生涯、父なる神との全き愛の交わりの中で生きられました。その父と子の愛の関係の中へと、私たちを招いて下さるのです。神を父と呼ぶことが許されるのです。父の懐に抱かれて、この世では味わうことのできない平安の中で生きることが許されているのです。

 今日は、これから共に聖餐に与かります。聖餐は祝いの食事です。父の下を離れていた子どもたちが、父の下に帰って来たことを喜び祝うための食事です。私たちは天において、父がそのような祝福に満ちた食卓を用意していて下さることを、聖餐を受ける度に思い起こすことが許されているのです。

 私たちだけではありません。私たちの周りには、まだ父の下に帰ってきていない子どもたちが大勢います。私たちは主の祈りの中で「天にましますわれらの父よ」と祈ります。「わたしの父」ではなく、「われらの父」と複数で祈ります。そこには、すでに天の父を知っている兄弟姉妹だけではなくて、まだ天の父を知らずに父の下を離れている地上のすべての兄弟姉妹が含まれているのです。私たちの周りには、まだ本当の父の存在を知らずに、道に迷っている人々が大勢います。それらの人々もいつの日にか、天の父の下に立ち返る日が来るように祈りつつ、それらの兄弟姉妹を父の下へと導く務めを果たして行きましょう。

天の父
 イエス・キリストの十字架の贖いゆえに、あなたを父と呼ぶことのできる幸いを感謝致します。あなたは限りない憐れみをもって、私たちの罪を赦してくださいました。繰り返しあなたの下を離れ、放蕩の限りを尽くしているような私たちを、あなたは愛と忍耐をもって待ち続けて下さっています。そのあなたの愛は、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、はっきりと私たちに示されております。どうか、私たちがイエス・キリストの十字架の前に己が罪を真実に悔改め、父の下に立ち返り、新しく神の子として生きることができますように導いて下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。