+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教.02 ペンテコステ礼拝

旧約聖書:出エジプト記20章1−3節 新約聖書:マタイ福音書28章16−20節

「神を信ず」


1.ペンテコステの出来事

 本日、私たちは聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝を迎えました。イエス・キリストは十字架に架かられて死に、復活された後、40日間弟子たちと共にこの地上で過ごされました。その後、弟子たちが見ている前で天に昇られました。弟子たちは自分たちの偉大な指導者を失い、心にぽっかりと穴が開いたような状態におりました。しかし、主が復活されてから50日目に聖霊が彼らの上に降ったのです。ペンテコステという言葉は元の言葉で「50」という数字を表す言葉です。聖霊が彼らの上に降ると、彼らは人が変わったように力強く「イエスこそ真の救い主である」と宣べ伝えるようになりました。聖霊がぽっかりと開いた彼らの心の穴を埋めたのです。イエス・キリストは彼らを見放されたのではありませんでした。復活され、天に昇られたキリストは聖霊を通して彼らの内に生きておられる。遠くに行かれたはずの方が彼らの内におられる。そのことを経験したのです。その時、弟子たちは本当の意味で生ける神と出会ったのです。こうしてイエス・キリストの教会が誕生致しました。聖霊は二千年もの間、教会の歩みを導い下さった主です。そして、イエス・キリストは聖霊を通して、今も私たちの内に生きておられます。聖霊を通して、私たちは生ける神と出会うことができるのです。聖霊は私たちに生きる力を与えて下さる方なのです。

2.「神を信ず」


 
さて、本日は使徒信条の講解説教の二回目になりますが、今回はこの「神との出会い」ということを主題として取り上げたいと思います。前回、私たちは「我は信ず」ということを取り上げました。使徒信条は「我は信ず」という言葉から始まっています。それだけを見ますと、使徒信条は私たちが何を信じているかということよりも、むしろ、信じる側の主体性、つまり、「信じているわたし」を強調しているように見えるのです。

 先日、ある方がこのことに関して興味深いことを言っていました。その方に依りますと、日本人は「信じる」と言うと、すぐに特定の宗教と結びつけてしまう傾向があると言うのです。しかし「信じる」ということは、何も特別な宗教に関係することではなくて、すべての人に必要なことだ。お釈迦様にしても、キリストにしても、何を信じているかは問題ではない。むしろ、「何かを畏れ敬う」、「何かを信じる」という気持ちそのものが大切なのだ。そういう気持ちがなければ、人間は大きく成長できないと言うのです。

 これは私たち日本人には大変分かりやすい説明ではないでしょうか。この国には様々な宗教が混在しています。特にこの北陸は非常に宗教的な色彩の強い地盤です。そういう地盤では、自分が信じている宗教が絶対に正しいとは言いにくいのです。むしろ「何を信じているかが問題なのではなくて、信じる心そのものが大切なのだ」と言った方が人々に受け入れられやすいのではないでしょうか。その一つの選択肢として、キリスト教も考えられるわけです。確かに信仰は心の問題であり、その人自身の問題です。信仰は全く自由であって、他の人がとやかく言うような問題ではありません。仏教を信じている人にとっては、それが正しい信仰です。


 
しかし、私たちの側から致しますと、そう単純に言い切ることはできません。「お釈迦様でも、キリストでも、何を信じているかは問題ではなくて、信じる心が大切なのだ」と単純に言い切ることはできません。聖書の見方によれば、信仰はそれだけでは何の意味もないのです。むしろ、聖書の神は偽りの神々を信じることを厳しく禁じております。信仰心そのものが大切なのではないのです。そうではなく、生ける真の神を正しく信じるようになることが大切なのです。つまり、どのような神を信じているかが大切なのです。使徒信条は私たちがどのような神を信じているかをはっきりと告白しています。私たちが信じている神は天地を造り、今もその全能をもって、この世界を支配しておられる父なる神です。その十字架の死によって私たちを罪から贖い出し、復活の命に与らせて下さる御子なる神です。そして、私たちの内に生き、永遠に私たちと共にいてくださる聖霊なる神です。この父・子・聖霊なる三位一体の神こそ、私たちの主に他なりません。この三位一体の神を信じる所に私たちの救いがあるのです。そのことを私たちは使徒信条を告白することを通して、公に言い表しているのです。
 
3.神との出会い

 以前、東京神学大学の学長をされていた桑田秀延先生が、『キリスト教の人生論』という著書の最初に、「神と人との出会い」ということについて記しておられます。その最初に先ほどの話と関連して、大変興味深いお話をされています。ある時、禅の大家である釈宗演という人と、キリスト教の牧師で同志社大学の総長にもなった海老名弾正という人が対談を致しました。その対談の後、釈宗演は海老名弾正にこう言ったそうです。「どうもあなたの話を聞いていると、何か目の前にちらつくものが出て来て、それが気になってしかたがない。」これに対して、海老名弾正は「実はそれが私にとっては命なのだ。いちばん大事なところなのだ」と答えたそうです。桑田先生はこの二人の会話の中に、禅とキリスト教との違いがよく出ていると言われています。桑田先生の説明によれば、禅においては「悟り」ということが大切なのです。禅でいう悟りとは、自分ひとりで悟るものです。余計なものが目の前にちらつくのはまだ未熟な証拠です。それを取り除いて、澄み切った境地になって、はじめて悟りを開くことができるのです。それに対して、キリスト教では人間が自分中心でいては駄目なのです。神というはっきりした相手を認めなければ何もできないのです。そして海老名弾正の言ったように、自分以外の神様をいつも考えていることが、キリスト教では最も大切なのです、と桑田先生は言っておられます。そして次のように続けておられます。「人間というものは一人では生きていけません。家庭でも、社会でも、『相手』があって生活しています。しかしほんとうに相手をよく知るためには、相手の人格を認めて、その人と正面から出会わなければなりません。人間同士でも出会いということが大切ですが、人間は神と出会うことが大切なのです。他者がいて、初めて、自分というものを知るようになる。」絶対に取り除くことのできない他者として神を認めること、否むしろ、自分の存在はすべて神に負っているということを認めることにこそ、キリスト教信仰の真髄なのです。

 しかし、私たちの信仰生活はともすると自分中心になってしまいます。「何を信じているかということよりも、信じる心が大切だ」というような言葉は、私たちがいかに自分中心に信仰生活を考えているかをよく表しているのではないでしょうか。要するに信仰心さえ持っていれば、相手は誰でも良いと言っているようなものです。しかし、本来、わたしたちのために神がいるのではなくて、神のためにわたしたちが存在しているのです。神が生きておられるからこそ、私たちも生きることができるのです。私たちは改めて、どれだけ神中心の信仰に立って信仰生活を歩んできたか自らを顧みなければなりません。私たちは一体、私たちが信じている神についてどれだけのことを知っているでしょうか。説教においても、神について聞くよりも、牧師の人生経験を聞くことを期待している人が少なくないと思います。しかし、本当に生ける神と出会わなければ、生きた信仰生活というものは生まれて来ないのです。

4.罪の根源:自ら神のようになる誘惑

 しかし、聖書によれば、人間が神と出会うことを決定的に妨げているものがあるのです。それは人間の「罪」です。人間は本当の神様をなかなか受け入れようとはし。むしろ、「自分が神のようになる」ことを望んでいます。あらゆる罪の根源はここにあります。人類の歴史はこのただ一つの欲望の上に築き上げられてきたと言っても言い過ぎではありません。人間は自分を神のように思い、互いに争い、憎み合い、殺し合いを続けてきました。真の神が神とされず、神ならぬ者が神とされる時、私たちはいかに悲惨な運命を辿らなければならないかということを歴史を通して学んだはずです。本当の神を忘れた人類は世界全体を破滅へと導く戦争に行き着くことになるのです。この日本においても神ならぬ者が神とされ、国のために数知れない尊い命が犠牲にされました。私たちの国は再び誤った方向に歩みを進めようとしています。今、私たちがしなければならないことは、ただ平和を唱えることではありません。今こそ声を大きくして、「ただ神のみを神とせよ!」とはっきりと語らなければなりません。真の神が神として礼拝される時、初めて本当に平和な社会が実現するのです。ドイツでは1933年にナチス・ドイツが台頭した時、カール・バルトという神学者が今教会が何を置いても果たさなければならない課題は「ただ神のみを神とせよ」という戒めを守ることだと人々に訴えました。それは今の私たちにも当てはまることではないでしょうか。

5.ただ神のみを神とする

 
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」これはイスラエルの民に与えられた第一の戒めです。主なる神はご自身と並ぶ存在を許さない、他の神々の存在を許さないのです。しかし、ここで言われている「他の神々」とは一体何のことでありましょうか。これは狭い意味で申しますならば他の宗教の神々のことです。しかし、それだけではありません。ある人によれば「人間にとっての神とは、その人が自分の心を寄せ、執着させているもの」のことなのです。言い方を換えれば「その人の心がある所、そこにまたその人の神もいる」ということになります。そういう意味で考えますならば、私たちには実にいろいろな神々が存在するのではないでしょうか。お金に心を寄せ、執着している人にとってはお金がその人の神です。何よりも仕事を第一として、他のことを二の次にしている人にとっては仕事がその人の神です。学問に没頭している人にとっては知識がその人の神です。何よりもまず健康を気遣う人にとっては健康がその人の神です。家族を何よりも大切にする人にとっては家族が神であり子供が神なのです。そのような意味で申しますならば、私達の生活の中には実に数限り無い神々が存在しているのです。


 そして、それらが具体的に形に現らわされたものが「偶像」です。十戒の第二の戒めにおいては「あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられます。「偶像」とは、私達の理想や願いが具体的な形を取った物に他なりません。つまり「偶像」は、すでに私達の「心の中」にあるのです。それは私達の祈りにおいて最も良く現れ出るものです。私達は神に祈っているように見えながら、実は自分勝手に造り上げた理想の神を拝んでいることがないでしょうか。それは私達の願いをそのまま聞き入れてくれる神です。それは物言わぬ神であり、私達の願望が造り出した神に他なりません。しかし、聖書において御自身を現わされる神は生ける神です。神は人間には侵されることのない自由を持ったお方です。人間の操り人形になるような方ではありません。神の像を造るということは、神からこの自由を奪い、神を人間の操り人形にすることなのです。だから、主なる神はこれほど厳しく偶像を造ることを禁じられておられるのです。

6.自由な愛に生きる神

 私達の心の中には実に多くの偶像が住み着いています。しかし、今や偶像で満たされた私たちの心の真ん中に生ける神御自身が来て下さるのです。イエス・キリストは聖霊を通して、私たちの内に生きて下さいます。そして、偽の神々を私たちの心の中から追い出して下さいます。イエス・キリストだけが真の神として私たちの心を支配して下さるのです。それが聖霊降臨日に起こった出来事なのです。この世の富や名誉や地位に対する執着心、死に対する恐れ、そういったすべてのものから私たちの心を解放し、生ける神御自身が私たちの心を満たして下さるのです。天地万物を創造された、いと高き神が低きに降り、罪に汚れた私たちの心を住家として下さる。イエス・キリストの十字架の死と復活の力を通して、私達の罪を赦し、御自身の契約のパートナーとして真剣に扱って下さる。そこに計り知ることのできない神の愛が示されています。私たちが信じている神は、一言で言えば「自由な愛に生きる神」です。私達は本当に生ける神と出会うことによってのみ偶像から自由にされるのです。この神と出会う時、私たちは本当の自由とは何か、本当の愛とは何かを知るようになるのです。そして、私たちも本当に自由な愛に満ちた生き方をすることができるようになるのです。生ける神との出会いは、私たちの生き方を根本から変えるのです

7.『タテ社会の人間関係』

 中根千枝さんという社会人類学者が書かれた本で、『タテ社会の人間関係』という有名な本があります。中根さんはこの書物の中で、日本の社会の人間関係を「タテ社会の人間関係」と言い表しております。中根さんによれば「タテ」の関係とは、親分・子分の関係、官僚組織などに支配的な人間の上下関係のことを指しています。それに対して、「ヨコ」の関係とは、平等な兄弟姉妹の関係のことです。中根さんによれば、日本の社会は「タテ社会の人間関係」によって支配されています。それは日本人には「契約精神」というものが欠けているからだと言うのです。欧米の社会においては、職場においても、雇う側と雇われる側との関係は、純粋な契約関係によって成り立っています。それ以上の関係は何もありません。しかし、日本の社会においては、形式的には契約によって成り立っているように見える関係であっても、実は個人的あるいは感情的な人間関係によって、仕事が成り立っている面が大きいと言うのです。こういう社会においては、下の者は上の者に対して感情的に依存せざるを得なくなります。このような依存関係は上の者たちにとって都合が良いだけではなく、下の者にとっても責任を負わずに上の言う通りに行動していれば良いので大変抜け難いものになるのです。
大切なことは、このような日本的な「タテ社会の人間関係」を生み出す根幹には、日本人の神に対する関わり方があるということです。日本人にとって「神」あるいは「祖先」というものは、この「タテ」の線のつながりにおいてのみ求められるのです。つまり、上下関係に基づいた人間関係の延長線上に神を考えるのです。そうすると、祖先が神として拝まれ、天皇が神と拝まれるようになるのです。それに対して、キリスト教が信じているような、人間世界を超越した「絶対的な神」との関係は、これまでの日本文化の中では築き上げられて来なかったと指摘しています。その結果、日本人は人間的なつながりにのみ価値を置くようになったのです。このような社会においては、神に対する関係ではなくて、人に対する関係がその人の行動をすべて決定します。「みんながこういっているから」とか「他人がそうするから」とか「みんながこうしろというから」というように、人の目を気にして自分の考えや行動を決定します。このような絶対的な神が不在の社会では、本当の意味で人間に自由はありませんし、本当に自立した人間は生まれて来ません。リーダーと部下との間には、対等に議論できるルールが存在せず、契約に基づいた人と人との関係も築くことはできないと、中根さんは言うのです。

8.自由と平等に基づいた社会を目指して

 ですから、私たちが本当に自由と平等に基づいた社会を築こうとするならば、その中心には絶対者なる神が立っておられなければならないのです。本来、純粋なタテの関係というのは、ただ神との関係においてのみ成り立つものです。人間の関係は職場の役職はあっても、上下関係は本来存在しないのです。人間関係においては、本来ヨコの関係だけが存在すべきなのです。すべての人間が生ける真の神の下にひれ伏す時、人間同士の間では自由と平等が支配するようになります。ただ神のみを神とするということは、神ならぬものから自由になることなのです。自分自身からも自由になることです。そのようにして初めて、私たちは自由な人間らしい生活を送ることができるようになります。私たちは「ただ神のみを神とせよ」という主の戒めを守って、そのような社会を築いて行きたいと思います。
 
天の父よ
 今日、弟子たちの上に聖霊が豊かに注がれ、イエス・キリストの教会が誕生致しました。聖霊はこの罪の歴史を変わらず導き、今も私たちの教会を支配し導いて下さる方であることを信じます。どうか、今私たち一人一人の内にある偽りの神々が退けられ、真の唯一の神であるあなたが私たちの心を支配して下さいますようにお祈り致します。この社会には多くの不正が蔓延り、不平等な社会が目の前にあります。どうか私たちがあなたを信じる信仰をもって、この社会を建て直して行くことができますようにお導き下さい。
このペンテコステの日、どうぞ世界中にある教会の上に、聖霊が豊かに注がれ、いろいろな困難の中にある人々にも生きる希望が与えられるように祈り願うものであります。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン。