+使徒信条講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 使徒信条 講解説教-

使徒信条講解説教.01 

新約聖書:マタイ福音書16章13−20節

「われは信ず」

T.使徒信条:教会の旗じるし

 私たちの白銀教会ではこれから毎月、第一週目の日曜日に使徒信条に基づいて講解説教を致します。私たちは毎週の礼拝において、繰り返し使徒信条を唱えていますが、案外その内容についてきちんと理解している人は少ないのではないでしょうか。そもそも、なぜ使徒信条を礼拝の中で告白するのか、その意味について、私たちはきちんと理解しているでしょうか。教会によっては礼拝の中で使徒信条を告白しない教会もあります。そう致しますと、私たちはどうして礼拝の中で使徒信条を唱えるのか、その理由をきちんと説明できなければなりません。

 使徒信条そのものは決して新しいものではありません。それは世界で最も古い信条の一つに数えられます。使徒信条が今の形に整えられたのは大体紀元8世紀頃と言われていますが、その原型は既に紀元2世紀頃には存在していたと言われています。今の形のものにしても優に千年以上にも亘って、場所と時代を超えて代々の教会において告白されて来たのです。

 私がドイツにおりました時、プロテスタントのルター派の教会に通っておりましたが、そこでも毎週使徒信条を唱えていました。ドイツですから国も違い、言葉も違います。同じ教会でもやはり初めて足を踏み入れる時には、それがどのような教会であるのか分かりませんので勇気が要りました。そこに集っている人々は見知らぬ人たちばかりです。しかし、初めて会った人々であっても共に使徒信条を唱えることを通して、「ああ、この人も私と同じ信仰を持っているのだなあ」と思うと、相手に対する信頼の気持ちが自然と湧いてきました。ドイツは宗教改革発祥の地ですから、向こうの方が本家本元なわけですが、こんな遠く離れた所でも日本の教会と同じように使徒信条が告白されているのかととても感慨深いものがありました。異国の地に行って大変心細い思いがしていましたがほっと致しました。その時、礼拝の中で使徒信条を唱えることの大切さを改めて実感致しました。

 このように信仰告白というものは、その教会がどのような信仰を持った教会であるのかを表わすものなのです。言わば「教会の旗じるし」です。言葉を換えて言えば、私たちの教会がどのような伝統を持った教会であるのかを最もはっきりと表すのが信仰告白なのです。使徒信条を告白することを通して、私たちの教会も聖なる公同の教会に連なる教会であることを外に向かっても示すことができるのです。

U.聖書と信条

 もちろん、信仰告白は聖書にとって代わるものではありません。聖書との関係で言えば、聖書の方が信仰告白の上に来ることは間違いありません。しかし、信仰告白は聖書の内容を簡潔に分かりやすく説明した文書です。聖書は大変分厚い書物です。誰でも読んで直ぐに理解できるものではありません。また人によっていろいろな解釈ができます。そこで教会は信仰告白を通して、自分たちが聖書をどのように理解しているかを簡潔な文章で表そうとしたのです。ですから、使徒信条は初めて聖書を読む人にとっても聖書を正しく読むための手助けとなります。私たちを正しい信仰へと導いてくれるのです。それは突き詰めていえば、私たちを真の救い主であるイエス・キリストの下へと導いてくれる道案内の役目を果たします。

 ヨハネによる福音書5章39節以下には、これに関して大変興味深い物語が記されています。イエス・キリストはそこでユダヤ人たちと論争しました。ユダヤ人たちはこの方が真の救い主であり、神の子であるということを信じようと致しませんでした。すると主イエスは彼らに向かってこう言われたのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」


 
これは大変示唆に富んだ言葉ではないでしょうか。当時はまだ新約聖書はありませんでしたから、ここで聖書と言われているのは旧約聖書のことです。ユダヤ人というのは今でもそうですが、幼い頃から旧約聖書を徹底的に暗記するのです。聖書の知識に関して言えば、私たちとは全く比べ物になりません。しかし、たとえどんなに聖書に精通していても、それで聖書を本当に正しく読んだことにはならないのです。聖書というのは、イエス・キリストを証しするために書かれた書物です。私たちがこれを読んでイエス・キリストこそ真の救い主であり、生ける神の子であることを信じ、救いに到るために書かれた書物なのです。ところが、幾ら聖書を読んでも、イエスを神の子、救い主と信じない人は、聖書を正しく読んだことにはならないのです。そこで使徒信条は聖書の正しい読み方を私たちに教えてくれるのです。イエス・キリストへと到る正しい道筋を教えてくれるのです。これは私たちよりも先に救いに到達した人々が遺産として残してくれたものです。教会はこの使徒信条を大切な遺産として受け継いで来たのです。

V.使徒信条の起源

 そのことは使徒信条の起源とも無関係ではありません。昔は使徒信条はその名前の通り、12人の使徒たちがイエス・キリストの福音を宣べ伝えるに当たって、大切だと思われる事柄をまとめたものと考えられていました。しかし、今では使徒信条はもともと洗礼式に由来すると考えられています。既に紀元2世紀頃にその原型となったものが見られます。つまり、信仰告白というのは、洗礼を受ける人に対して、試問をするために用いられていたのです。その当時、洗礼は全身を水に沈める形で行われておりました。まず洗礼を受ける人が水の中に入ると、洗礼を授ける者がその上に手を置いて、あなたは「全能の神である父を信じますか」と尋ねます。洗礼を受ける人が「信じます」と応えますと、洗礼を授ける者は洗礼者の頭に手を置いたまま、その人を水に沈めます。それから続けて、洗礼を授ける者が尋ねます。あなたは「聖霊によっておとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられて死に、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って父の右に座し、生者と死者をさばくために来られる神の子、イエス・キリストを信じますか」。洗礼を受ける者が「信じます」と答えると、同じように、二度目の水に浸されます。それから洗礼を授ける者が「聖なる教会の中で聖霊を信じますか」と尋ねると、洗礼を受ける人が「信じます」と答え、三度目の水に浸されるのです(『ニカイア信条講解』関川泰寛著、教文館、32頁参照)。

 これが信仰告白の起源なのです。このように見ると信仰告白の意味が分かってくるのではないでしょうか。私たちは信仰告白というと、どうしても何か自分の信念や確信を述べることと勘違いしてしまいがちです。しかし、この洗礼式からも分かりますように、そこでは教会が受け継いできた信仰を受け入れるかどうかが問われているのです。父・子・聖霊なる三位一体の神に対する信仰が問われているのです。「われは信ず」という場合、個人的に信じているというのではなくて、「教会が大切に受け継いできた信仰を、わたしも受け入れます」と告白しているのです。そうして初めてその人は洗礼を授けられ、イエス・キリストの御身体である教会の肢として繋がれるのです。人はこのようにイエス・キリストに対する信仰を公に言い表すことによってのみ救いに与かることができるのです。ローマの信徒への手紙10章9−10節には次のようにあります。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」


 
教会はこのように正しい信仰の告白を通して、イエス・キリストと一つに結び合わされた人々の集まりなのです。私たちはこの信仰告白を通して互いに一つに結び合わされているのです。その意味で信仰告白は「教会の絆」であると言うことができます。教会はこの信仰告白という土台の上に建てられているのです。

W.教会の土台:信仰告白

 これは何も教会が勝手に考え出したことではなく、イエス・キリスト御自身が約束して下さったことなのです。今日私たちに与えられました御言葉は教会に対して、その約束が最初に与えられた時のことを伝えています。その時、弟子たちはフィリポ・カイザリアと呼ばれる町におりました。そこでペトロはイエスに対して、

「あなたはメシア、生ける神の子です」

と信仰を告白したのです。すると主イエスは、ペトロに対して

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」

と約束して下さったのです。ペトロという名前は、ギリシャ語で「岩」を意味する言葉です。ペトロはその上に教会が建てられる岩となるというのです。しかし、果たしてペトロは岩のような人であったでしょうか。岩のように堅い信念を持った人であったでしょうか。少なくとも本人はそのように思っていたかも知れません。しかし、そのような自負心は主の十字架の前に粉々に打ち砕かれてしまいました。ペトロは敵の手に捕らわれた時、この方をおいて逃げ出してしまいました。主イエスが十字架にかけられる時、三度も「イエスを知らない」と否定しまったのです。では、そのことによって、ここでペトロが告白したことは、全く意味がなくなってしまったのでしょうか。不思議なことにそうではないのです。ペトロの弱さや罪の破れに関わりなく、この告白そのものは正しい告白であり続けたのです。むしろ、ペトロは自分の弱さを自覚すればするほど、自分の罪深さを自覚すればするほど、反ってイエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と真実に告白できるようになったのです。復活されたキリストと出会い、十字架による罪の赦しを経験して、初めて本当の意味で「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白できるようになったのです。人間の罪の現実の中でこそ、この信仰の告白は真実なものであることが明らかにされるのです。

 ですから、主イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた時、そこで「岩」という言葉で意図されていたのは、ペトロ個人のことではなくて、ペトロが弟子たちを代表して告白した「信仰告白」のことであったことが分かります。つまり、人間の罪によっても変わることのない「真理」の上に教会は建てられると約束されたのです。それはその前に語られた主イエスの言葉からも分かります。その前に主イエスは

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 
このペトロの告白は、彼の個人的な確信や決断から生まれたものではなくて、天の父が彼の口に授けて下さったものなのです。信仰は私たちの努力や決断によって得られるものではありません。それは父なる神御自身が聖霊を通して、私たちの内に授けて下さるものなのです。ペトロのように弱く、罪深い人間がイエスを救い主と信じ告白するようになるのは、それ自体、神の大いなる御業なのです。信仰告白そのものが神様から贈り与えられるものなのです。これは人間が勝手に考え出したものではありません。これはイエス・キリストとの出会いを通して、神が与えて下さったものなのです。このことを聖書では「啓示」と言います。父なる神はイエス・キリストを通して、御自身を私たちに啓示されたのです。神との出会いは神の側から与えられるものなのです。

 そのことは、ここでの弟子たちとのやり取りを見れば分かって参ります。ここで大切なことは、主イエスの方から

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

と弟子たちに尋ねておられることです。まず主イエスの方の呼びかけがあって、それに答える仕方でペトロは信仰を告白したのです。信仰告白というのは、主イエスの呼びかけに応えることです。ですから、私たちは聖書を通して、この呼びかけを聞くことが大切なのです。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」私たち一人一人がイエス・キリストからこのように問いかけられているのです。このようにイエス・キリストは御自分の方から問いかけることを通して、私たちを真の信仰へと導いて下さるのです。イエス・キリストとの出会いはこの問いかけを聞くことから始まります。信仰は聖書の御言葉を通して、この問いかけを聞くことから始まるのです。

X.信仰告白の上に堅く立つ教会を目指して

 最後にもう一つ、信仰告白が持っている役割について言及したいと思います。使徒信条は教会が外部から攻撃され、危機に曝される時、教会を守る盾としての役割を果たします。国家が良心の自由や信教の自由を脅かし、教会に対して神ならぬものを神として拝むことを強要する場合、「われは信ず」という信仰の告白は自ずと、そのような国家の弾圧に対する抵抗運動になるのです。ドイツのプロテスタント教会では1933年以前までは、一般的に牧師だけが礼拝で使徒信条を唱えていたそうです。ところが1933年以後は会衆も共に声に出して信仰を告白し始めたそうです。1933年と言えば、ヒトラー率いるドイツ・ナチスが一党独裁の体制を確立した年です。教会員たちは教会に対するナチの攻撃に対して、自分たちの信仰を自覚的に、公に告白するために使徒信条を共に告白することを望んだのです。それが国家に対する抵抗運動に発展して行ったのです。

 ところが日本のプロテスタント教会はどうかと言えば、この真の神に対する信仰告白そのものが曖昧であったために、結果的に国家の圧力に屈する結果になりました。それは礼拝の中で使徒信条が唱えられていなかったことと無関係ではないと思います。この体質は今でも変わっていないと思います。私たちの教会は本当に立つべき土台の上に立っているでしょうか。イエス・キリストが据えられた土台の上にしっかりと築かれて来たでしょうか。人間的な知恵や力に依り頼んで、安易な道に逃げてしまったことがなかったでしょうか。私たちは今このような時代にあるからこそ、「われは信ず」という使徒信条が持っている告白の重みを改めて認識しなければなりません。
私たちの教会はもうすぐ創立100周年を迎えようとしています。私たちはこの機会に改めて、教会の土台は一体何であるのか、教会は何に依って立っているのかを深く問い直したいと思います。そして、この100周年がイエス・キリストに対する真実の信仰を告白する機会として用いられるならば真に幸いであります。

天の父よ
 あなたは御言葉を通して、絶えず私たちに問いかけ、私たちを真実の信仰へと導いて下さる方であることを信じます。どうか、私たちが絶えずあなたから問われている者として、その呼びかけに真実に応える者とさせて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。