+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教20

マラキ書3章1節 ローマの信徒への手紙13章11‐14節

「主の再び来たりたまふを待ち望む」

T. 信仰告白の学びの締めくくり

 わたしたちの白銀教会は、昨年創立100周年を迎えるのを機に、信仰告白の学びを続けて来ました。信仰告白というのは、わたしたちの教会の信仰を端的に告白している文書です。信仰告白はわたしたちの教会の土台であり、この土台の上に教会は建てられるのです。

 わたしたちは毎月第一主日の礼拝において、信仰告白の講解説教を行って来ました。今は日本基督教団信仰告白を学んでいますが、その前には使徒信条を学びました。使徒信条の講解説教は2006年5月から始まり計18回なされ、その後、日本基督教団信仰告白に関する講解説教は2007年11月から始まり、今日で第20回目になります。約3年間に亘って、この学びを続けてきたことになります。白銀教会のホームページにこれまでなされた使徒信条と日本基督教団信仰告白の講解説教の全文がとても見やすいレイアウトで掲載されています。是非、一度そこを開いて読んで頂きたいと思うのですが、改めてその一つ一つを開き、読みかえしてみますと、信仰告白というものの奥の深さを感じずにはおれません。まさに教会は信仰告白の上にこそ建てられる。信仰告白に対する理解が揺らぐ時に、教会もまた揺らぐということを感じさせられます。創立100周年を迎える白銀教会がこの信仰告白の学びを通して、正しい信仰の道へと導かれ、しっかりとした土台を与えられたことは、まさに神の摂理という以外にはありません。ここに白銀教会がこれから歩むべき方向が示されていると言っても過言ではありません。信仰告白そのものが神への賛美・頌栄であると言われますが、この信仰告白の学びを通して、わたしたちの教会の歩みを導いて下さった父・子・聖霊なる三位一体の神に感謝と賛美を捧げ、栄光を帰するものであります。

U.「主の再び来たりたまふを待ち望む」

 さて、今日は信仰告白の学びの締めくくりとして、日本基督教団信仰告白の最後の部分を取り上げたいと思います。すなわち、

「主の再び来たりたまふを待ち望む」

という告白です。この文章の主語は言うまでもなく「教会」です。この告白は教会の働きについて述べる段落に属しています。もう一度、そこを読み返してみたいと思います。

 「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再びきたりたまふを待ち望む。」

 これは大変長い文章ですが、主文は何かと言いますと、「教会は…主の再びきたりたまふを待ち望む」という文章です。そこに、教会が最終的に目指すべき、究極的な目的が示されています。わたしたちの教会は今、何を目指し、何を目標にして歩んでいるのか。その答えがここに示されているのです。すなわち、教会は、主が再びきたりたまふを待ち望みながら歩んでいる。「然り、わたしはすぐに来る」(黙示録22章21節)と約束し、天に昇られた復活の主イエス・キリストが再びこの地上に来られる日を待ち望みながら歩んでいるのです。それが、教会が目指している目標なのです。わたしたちにはすでにこの人生の最終的な目標が示されているのです。このことは計り知れないほど大きな意義を持っています。

 わたしたちは誰一人、最終的にどこに向かって、この人生を歩んでいるのか、それを知っている人はいません。そこにまさに人生の奥深さがあり、またそれがわたしたちの不安の原因にもなっているわけです。死はいつ、どのような仕方でやってくるか分かりません。だからこそ、わたしたちは将来に不安を抱くのです。20年、30年後、自分がどうなっているか、誰も分かりません。そんな先のことでなくても、わたしたちは明日自分がどうなっているかすら、確かには言えないのです。少子高齢化の傾向がますます進む社会にあって、これから先、国民の生活はどうなって行くのか不安を覚えます。特に昨年末より生じた不況の影響で、将来が見えない不安に誰もが襲われています。温暖化の問題も歯止めがかかる兆しはなく、ますます悪化の一途を辿っています。北朝鮮の核問題をはじめ、この世界は未だ核の脅威に曝されています。人類は滅亡の危機に瀕しているのです。一体、この先、この世界はどうなって行くのか、不安は尽きることがありません。

 このように考えるならば、個人としても、社会としても、国家としても、また地球規模で考えても、わたしたちの将来を暗くしているのは「死」の問題であることが分かってきます。「死」はわたしたちの人生すべてを不確かなものにします。「死」はいつどのような仕方でやってくるのか、その先にどうなるのか、誰も分からないからです。わたしたちの人生が死で終わる限り、わたしたちは人生に関して何一つ確かなことは言えないということになります。

 しかし、それがわたしたちの人生の究極的な答えではないのです。聖書によるならば、「死」はわたしたちの人生の究極的な目標ではないのです。ある一人のお方がこの世にお生まれになったことによって、死はわたしたちの人生の最終的な目標ではなくなったのです。このお方がわたしたちの罪を背負い、十字架の贖いの死を遂げ、死から復活なさったことによって、死は完全に打ち負かされたのです。すべてを呑み込むはずの死が、逆にこの方の復活の命によって呑み込まれてしまったのです。その方こそ、わたしたちの救い主イエス・キリストに他なりません。主イエス・キリストは、御自身の十字架の死と復活を通して、わたしたちの人生が死で終わるものではないことを示して下さいました。わたしたちには、この方を信じることによって、復活の勝利が約束されているのです。復活の主イエス・キリスト御自身が、わたしたちの人生の目標となってくださったのです。この方が再びこの地上に来られる時、この世界の歴史は最終的な目標に到達します。この世界は温暖化や核によって滅亡して終わるのではない、すべては死に飲み干されて終わるのではない。そうではなく、わたしたちの主イエス・キリストが来られることによって、この世界の歴史は終わるのだということをわたしたちはすでに知っているのです。だから、わたしたちの希望は尽きることがないのです。信仰を持って歩む人生には、希望が尽きることがないのです。わたしたちを罪と死の支配から救い出すために十字架に架かり、復活して下さった主が再びこの地上に来てくださる。その希望の下にわたしたちは生かされているのです。ですから、信仰に生きる生活とは、希望に生きる生活に他ならないのです。

V.「…つつ」

 わたしたちはわたしたちの主イエス・キリストが再び来たりたまふを待ち望みながら、今の時を生きています。信仰の生活は、主を待ち望む生活です。そこで大切なのは、どのように待ち望むのかということです。言うまでもなく、わたしたちはその日が来るまで寝て暮らす、というわけには行きません。最終的には主が来られて、すべてを善きことに変えてくださるから、わたしたちは安心して自分のしたいことをして暮らす、というのでもないのです。主イエス・キリストを待ち望む生活というのは、決してこの人生や社会や国家や世界に対して、無責任に生きることを意味しません。では、わたしたちは、主が再び来たりたまふ日まで、どのような生活を送ったら良いのでしょうか。そのことを日本基督教団信仰告白ははっきりとわたしたち教えてくれるのです。もう一度、最後の段落を読みたいと思います。

 「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再びきたりたまふを待ち望む。」

 前回の講解説教の時に申し上げたことですが、この文章は「…愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」となっていることが大切です。この「…つつ」という言葉は、ただ「愛のわざに励み」という言葉だけにかかっているのではありません。そうではなく、「教会は公の礼拝を守り…」から始まるすべての文章にかかっているのです。ここには、教会はどのようにして主の再び来たりたまふを待ち望むのか、その姿勢が示されているのです。つまり、敢えて申しますならば、「教会は公の礼拝を守りつつ」、「福音を正しく宣べ伝へつつ」、「バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひつつ」、そして、「愛のわざに励みつつ」、「主の再びきたりたまふを待ち望む」のです。教会がなすすべての業は、主の再び来たりたまふ日に向ってなされる、そこを目標としてなされるということが示されているのです。
  
教会は主の日毎に、主の復活を祝い、礼拝を捧げます。礼拝は復活の主にお会いする場です。わたしたちは日曜日毎に、復活の主イエス・キリストに出会うことが許されているのです。信仰生活とは、具体的には日曜日に始まり、日曜日へと至る歩みです。わたしたちは、一週間という短い単位で、「主の再び来たりたまふを待ち望む」生活を送っているのです。人生はその繰り返しです。日曜日から日曜日へと至る歩みの連続です。そのような歩みを通して、わたしたちは主の再び来たりたまふを待ち望む姿勢を整えられるのです。

信仰生活はマラソンに例えられます。マラソンはいきなり遠いゴールを見ると、それだけで疲れてしまいますが、マラソン選手は電柱から電柱に向って走る、と聞いたことがあります。そのように小さな目標を一つ一つクリアして行くことによって、最終的なゴールにたどり着くことができるのです。わたしたちの信仰生活にとって、日曜日毎の礼拝はある意味で電柱のような役割を果たします。しかも、そこは給水所の役割も果たしているのです。

 さらに教会「福音を正しく宣べ伝えつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」のです。これはすなわち、伝道ということです。伝道は単に教会の教勢を維持するためや、教会の存続のためになされるべきものではありません。むしろ、伝道は主の再び来たりたまふを待ち望みつつなされるべきものです。つまり、わたしたちは、主が再び来られる、そのために準備をなすようにと人々に福音を宣べ伝えるのです。やがて、主が来られる時、御国が完成されます。わたしたちは今、その日に備えをなすように命じられているのです。この世界が真の王であり、救い主であるイエス・キリストをお迎えする備えをなすように、準備の出来た民を備えるが伝道の目的なのです。御国の完成に向ってなされるのが伝道なのです。

 さらに教会は「バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひつつ」「主の再び来たりたまふを待ち望む」のです。洗礼と聖餐にはもちろん、主イエス・キリストとわたしたちを一つに結び合わせる、という意味があります。しかし、聖礼典にはもう一つ、「主の再び来たりたまふを待ち望む」という性格があるのです。特に聖餐はそうです。わたしたちは聖餐の度毎に賛美歌81を歌います。そこで繰り返し
 
「マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国がきますように。」
と歌うのです。「マラナ・タ」というのは、主イエスが話されていたアラム語という言葉で「主よ、来たりませ」という意味です。コリントの信徒への手紙一16章22節には「マラナ・タ(主よ、来てください)」という言葉が出てきますが、今日、招詞で読まれました「アーメン、主イエスよ、来てください」という言葉が「マラナ・タ」の訳に当たります。聖書の最後の言葉が、「主よ、来たりませ」(マラナ・タ)という言葉で締めくくられていることは非常に意義深いことです。日本基督教団信仰告白も主を待ち望むことを告白して終わるのです。信仰生活のすべてがこの目標に向けられていることがよく分かります。

 わたしたちが聖餐を守る時、いつでも、主の再び来たりたまふを待ち望む信仰を強められるのです。聖餐を繰り返し受けることを通して、主は必ずわたしたちの所に来てくださる、その確信を強められるのです。聖餐はそのためにあるのです。

 そして、最後に大切なことは、教会は「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふをま望む」のです。一言で申しますならば、教会は信仰に生き、希望を持って、愛のわざに励みつつ、主の再び来たり給ふを待ち望む教会なのです。主を待ち望む生活、それは愛のわざに励む生活です。それが主を待ち望む者にふさわしいあり方なのです。そのことは前回の講解説教の際に学びました。その時取り上げたのは、ローマの信徒への手紙13章8−10節でした。そこには「愛は律法を全うするのです」とありました。「律法」というのは、「神の御意志」を表すものですから、「愛は神の御心を完全に実現するものである」と言い変えることができます。主イエス・キリストが再びこの地上に来られる時、この世の悪や不義や罪や死は滅ぼされます。そして、神の愛がすべてのものを覆い、御国が完成します。わたしたちはその日に向って歩んでいるのです。わたしたちはその日が来るまで、ただ漫然と生きるのではなく、わたしたちもその御国の完成を待ち望みつつ、愛のわざに励むのです。わたしたちの愛のわざが御国をもたらすというのではありません。しかし、主はわたしたちの小さな愛のわざをも、御国の完成のために用いてくださるのです。わたしたちがなす一つ一つの愛のわざは御国の完成のために用いて頂けるのです。更に言えば、わたしたちの小さな愛のわざを通して、真の愛をもたらす主イエス・キリストを指し示すことが、わたしたちに求められていることなのです。わたしたちの愛のわざは、たえず再び来たりたまふ主イエス・キリストに目を向けさせ、この方に希望を抱かせるものでなければなりません。ですから、主を待ち望む者の生活は、愛のわざに励む生活なのです。

W.終末待望

 さて、今日の御言葉は、さらに主の再び来たりたまふを待ち望む生活がどのような生活であるのかをわたしたちに教えてくれます。この箇所が愛のわざについて語った後に続いているということは非常に意義深いことです。11節には次のように続きます。

 「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」

 ここで「あなたがた」と呼びかけられているのは、ローマの教会の信徒たちです。すなわち、イエス・キリストを救い主として信じ、洗礼を受け、主が再び来たりたまふを待ち望みながら生活している人々です。そのような人々は「今がどんな時であるかを知っている」と言うのです。ここで「時」という言葉が用いられていますが、新約聖書には「時」を表す言葉に二つの言葉があります。一つは時間の長さを表す「時」という言葉です。これはわたしたちが普通に「時」という言葉から理解するものです。しかし、それとは別に、時間の長さではなくて、「繰り返されることのない決定的な一回限りの時」を表す言葉があります。パウロはそれをすぐに言い換えて「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と言っています。つまり、朝が近づいているということです。特別な仕事に就いている人は別として、わたしたちは夜の間は床に就き、朝になると目を覚まし、昼の活動を始める準備をします。わたしたちにとって、朝という時間は、眠りから目を覚まし、活動を開始する特別な時間です。少し大げさに言えば、夜から昼への「時の転換点」が朝です。

 信仰者というのは、そういう時の転換点をわきまえている人だということなのです。パウロはそれを次のように言い換えています。

「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」

 これは少し分かりにくい言葉かも知れません。「わたしたちが信仰に入ったころ」というのは、洗礼を受けた時のことを指しています。パウロやローマの教会の信徒たちが洗礼を受けたころよりも、今や救いはさらに近づいている、と言うのです。新約聖書を読むとすぐに分かることですが、初代のキリスト者たちは「わたしはすぐに来る」という主の約束を信じて生きていました。ですから、彼らはどんなに激しい迫害を受けても、それを耐え忍ぶことができたのです。初代のキリスト者の信仰の原動力は、まさに主を待ち望む信仰にこそあったのです。使徒パウロがあれほどに熱心に伝道をしたのも、主が来られる日はもう間近に迫っている、という緊迫した思いがあったからなのです。主イエスの十字架の死と復活によって、この世の悪は決定的に滅ぼされた。今や復活の永遠の朝を迎えようとしている。御国の完成が近付いている。その信仰に促されて、彼らは伝道に励みました。

X.衣服を着替える

 それはパウロの次の言葉を読むとさらに良く分かります。12節です。

 「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」

 ここでは、「脱ぎ捨てて」という言葉が使われています。わたしたちは夜、寝るときには寝間着を着て寝ます。寝間着は外行き用の服ではなく、家用の服です。あまり他人に寝間着姿は見られたくないものです。寝間着を着たまま外に出て、学校や仕事に行く人はいないと思います。そんなことをしたら、人々の笑い物になります。わたしたちは時に応じて、ふさわしい服に着替えることを知っているのです。

 それと同じように、わたしたちが眠りから覚めるべき時がすでに来ている。主が再びこの地上に来られる日が近づいている。御国の完成が近付いている。そうであるならば、主をお迎えするのにふさわしい衣服に着替えようではないか、とパウロは勧めるのです。

 パウロは「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と言っています。パウロは、キリストに出会う前の人間、キリストに救われる前の人間を「闇の行いを身に着けている」人間として理解しています。わたしたち自身のことを顧みれば分かります。わたしたちは、キリストに出会うまでは、あたかも夜の暗闇を生きるような生活を送っていたのではないでしょうか。パウロは13節で、さらに「闇の行い」を詳しく述べています。

「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て…。」

お酒を飲むのは大抵夜、一日の仕事を終えた後です。その日の務めを終えて、ほっと一息ついた時に酒を飲む。それは何も悪いことではありません。しかし、酒には人を虜にする力があります。酒を飲むのではなく、酒に飲まれると言うことが起こります。時を弁えず、昼間から酒を飲まずにはいられない。そうして、身を持ち崩すことになるのです。何事も節度が大切なのですが、その節度を守ることが難しいのです。わたしたちは酒に溺れて人生を失敗した例をいくつも知っています。まさに「酒宴と酩酊」は堕落の始まりです。そこから「淫乱と好色」が生じます。酒の力は人の判断を誤らせます。これは説明を要しないことだと思います。さらに、そこから「争いとねたみ」が生じます。それは何も酒に酔っている時ばかりではありません。わたしたちの心の中は、いつも人に対する妬みが渦巻き、人に対する憎しみに身を焦がしているのではないでしょうか。パウロはそれをさらに14節の最後で次のように言い換えています。
 
「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」

 要するに「闇の行い」というのは、自分の欲望を満足させようとして、肉に心を用いる生き方のことを指しているのです。もちろん、わたしたちは、体の健康を維持するために心を用いなければなりません。娯楽や趣味も大切なことです。しかし、中には体の健康を損なうような習慣というものがあります。暴飲暴食もその内の一つです。体の健康を維持するために食べるというよりは、肉の欲を満たすための飲み食いがなされることがあります。まさに、パウロがこの手紙を書いたローマという場所においては、人々は堕落した生活を送っており、美食を好み、食べては鳥の羽で喉をくすぐって吐き、また食べるというような生活を送っていたと言われています。宴席で吐くことはごく当たり前のことであったそうです。「食べるために吐き、吐くために食べる」という言葉が格言のように遺されていますが、それは単に過食の贅沢だけを批判しているのではなく、世界中からあらゆる富をかき集めて、それを浪費した人々の悪徳に向けられた言葉でした。

 これは何も古代ローマに限られた話ではなく、わたしたちの周りでも現実に起こっているようなことではないでしょうか。

Y.主イエス・キリストを身にまとう

 しかし、パウロはそのようなわたしたちに向って次のように勧めるのです。

 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。…夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」

 パウロは、わたしたちが夜着るような寝間着姿ではなく、きちんと日中にふさわしい服装を着て、品位をもって歩むように勧めるのです。パウロはそれを「光の武具」という言葉で表現していますが、それは具体的には何なのでしょうか。わたしたちが日中を歩むのにふさわしい服装というのは、どのようなものなのでしょうか。14節でパウロはそれを説明しています。

「主イエス・キリストを身にまといなさい。」
 わたしたちが日中を歩むのにふさわしい服、光の武具というのは、具体的には、主イエス・キリストに他ならないのです。では、「主イエス・キリストを身にまとう」とは具体的に何を意味するのでしょうか。わたしたちはどうしたら、キリストを着ることができるのでしょうか。それは洗礼を通してです。パウロはガラテヤの信徒への手紙3章27節で次のように言っています。

 「 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」

 このような比喩は実際に洗礼を受ける時に、古代教会では、新しい服を身につけたという習慣に由来すると言われています。いずれにしても、わたしたちは洗礼を受ける時、それまで身に着けていた古い衣服を脱ぎ捨てるのです。その衣服はわたしたちの罪の汚れでぼろぼろになっています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」、そういったものを重ねることによって、ぼろぼろになった衣服を脱ぎ捨てるのです。そして、わたしたちは「キリスト」という新しい罪の汚れのない、真っ白な、縫い目のない一枚の衣服を身にまとうことができるのです。このキリストという衣服を着る時、わたしたちの罪の汚れはすべて覆い隠されるのです。それはただわたしたちの罪の汚れを覆い隠すだけではなく、それを身にまとう者を、キリストに似た者として造り変える力があるのです。しかも、それは「光の武具」と言い換えられていることから、戦いのための服であることが分かります。それは悪しき力の攻撃から身を守るための服でもあるのです。わたしたちは洗礼を受けた時、古い罪に汚れた寝間着から、「キリスト」という新しい昼用の服に着替えたのです。確かに、わたしたちは繰り返し、夜の寝間着に着替えるような行動を取ることがあると思います。脱ぎ捨てたはずの闇の行いを再び身につけてしまうようなことがあるかも知れません。しかし、わたしたちは、繰り返し洗礼を受けたという事実に立ち返ることによって、日々新たに「キリスト」という新しい衣服を身にまとい、罪との戦いを続けて行くことができるのです。「主の再び来たりたまふを待ち望む」生活というのは、絶えずこのキリストという衣服を身にまとい、日中を歩むように品位をもって歩むことなのです。それは言葉を換えて言えば、「愛に生きる」生活です。主を待ち望む生活は、ただ禁欲的な生活ではなくて、愛に生きる生活です。なぜなら、キリストこそ愛そのものであるからです。

 消防士は、いつ出動があるか分からないから、寝る時も消防士の服を着たまま寝るそうです。その服は燃えにくい繊維でできています。いつ出動の知らせが来ても良いように待機しているのです。わたしたちもキリストを身にまとい、いつ主がわたしたちの所に来られても良いように備えをなしながら生きるのです。公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望むのです。

Z.アウグスティヌスの回心

 今日与えられた御言葉は、あの有名なアウグスティヌスがそれによって回心したテキストであると言われます。キリスト教の歴史の中で、最も偉大な思想家の内の一人に数えられる人です。彼はカトリック教会のみならず、プロテスタント教会にも、今日に至るまで大きな影響を及ぼしている人物です。彼は紀元354年、北アフリカに生まれました。この時代には、すでにキリスト教はローマ帝国による激しい迫害の時代を潜り抜け、ローマ帝国において公認の宗教とされていました。

アウグスティヌスは、このような時代に生まれましたが、彼は初めからキリスト教の信仰を熱烈に信奉していたわけでありませんでした。彼が回心をし、洗礼を受けたのは32才の時でした。そこに至るまで、彼は何度も挫折を経験し、紆余曲折の人生を歩んだのです。彼は幼い時、キリスト教の教育を受けました。しかし、反ってそれに反発して、少年時代、青年時代を通じて、母親を悲しませるようなばかりする問題児でした。彼の母モニカは、素朴な信仰の持ち主であり、後のアウグスティヌスの成長に対して、決定的な仕方で感化を及ぼしました。それとは対照的に、彼の父は、非常に名誉心の強い父親でした。彼はお金持ちではありませんでしたが、無理をしてでも息子に高い教養を身につけさせようと学校に通わせました。しかし、父親が息子の勉学のために、何とかお金をやりくりしようと血の滲むような努力をする中、彼はそのような親の期待とは裏腹に、怠惰な生活を送ります。父親は、彼が16才の時に亡くなりました。その2年後、18才の時に、彼は勉学の途中にありながら、若い情欲に心奪われて、ある女性と同棲し、結婚もしないまま、その女性との間に子どもが生まれます。この女性とは13年間共に生活しましが、彼は後に他の女性と正式に結婚をするために、この女性と子どもを自分の下から追い出してしまいました。

 彼は、このような放蕩の限りを尽くした生活を送りましたが、他方で、哲学に関心を持ち、真理への愛に目覚めました。そのような中、彼は当時流行していたキリスト教の異端であるマニ教の教えに心惹かれました。彼は、そのような異端の教えの虜とされ、母の信仰からは大きく逸れていきました。母モニカはこの息子のことを思い、あたかも自分の息子が死によって自分の手から奪われたかのように、神に向かって激しく泣き続けました。

彼女はある時、教会の司教の所に行き、息子を説得して、誤りを悟らせてもらうように頼みました。しかし、この司教は、アウグスティヌスが自分でその誤りに気付くまでは放っておくように命じました。母モニカはそれでも諦めずに、涙を流して、執拗に司教にすがるようにして、息子を説得するように頼みました。すると、司教もさすがに困った顔をして言いました。「お帰りなさい。あなたはほんとうに真実に生きています。このような涙の子はほろびえないのです」。彼女はこの司教の言葉を聞いて、ようやく司教の下から帰って行きました。

その後も母モニカは息子のために日夜涙を流し続けました。そして、遂に、その母親の涙が息子を正しい道に立ち返らせる時が来ました。彼はある時、自分の罪に気付かされ、涙を流していました。すると、隣の家から、子どもの声で「取って読め、取って読め」という声が聞こえてきたのです。彼は急いで聖書を手に取り、無造作に開いたページに、この御言葉が記されていたのです。

「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」

その時の気持ちは彼はこう表現しています。「わたしはそれから先は読もうとせず、また読むにはおよばなかった。この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ちあふれて、疑惑の闇はすっかり消えうせたからである。」

アウグスティヌスは、母にそのことを告げました。母は涙を流して喜びました。彼は遂に回心し、洗礼を受けました。こうして、母モニカの涙は喜びへと変えられ、「涙の子は決して滅びない」という司教の言葉は本当に実現したのです。母モニカは、死を前にして息子に次のように言いました。「わが子よ、私はもはやこの世の何ものにも、よろこびを感じなくなりました。私はなおこの地上で何をなすべきか、何ゆえ、この地上にまだいるのか知りません。私はこの世では何も望んでいないからです。ただ一つのことのため、この世になおしばらく長らえたいと願っていましたのは、死ぬ前に、真のキリスト者としてのお前を見ることでした。私の神さまは私に十分にその望みを満たして下さいました」。

主を待ち望む生活、それは決して失望に終わることがない生活です。主は必ず来て、わたしたちを罪と死の力から救い出して下さる。その希望に生きる生活です。わたしたちも、「主の再び来たりたまふを待ち望む。」そのような生活を送って参りましょう。

天の父よ!
 私たちの罪のために十字架で命を捨てられた主は、「見よ、わたしはすぐに来る」と約束して下さいました。ゆえに、わたしたちは希望を失うことがありません。どうか、あなたの救いを求めているわたしたちの所に、キリストが来てくださるように、その希望に生きる者とさせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。ア‐メン。