+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教19

レビ記19章18節  ローマの信徒への手紙13章8‐10節

「愛のわざに励みつつ」

T.礼拝・伝道・奉仕:キリストの愛のわざからわたしたちの愛のわざへ

 わたしたちは、白銀教会が創立100周年を迎えるに当たり、もう一度信仰の原点に立ち返り、確固とした土台の上に教会を築いて行くために、これまでわたしたちの教会の信仰告白を順番に学んで参りました。それも今日で19回目を迎え、残す所あと1回となりました。改めてこの信仰告白を注意深く読んでみますと、ここにはただわたしたちが信ずべき事柄が簡潔に述べられているだけではないことが分かります。ここでは順序に注目して頂きたいのですが、この信仰告白の順序はわたしたちの信仰生活の歩みそのものを表していることが分かります。わたしたちがどのようにして救いに至るのか、そして、救いに至った者がどのような信仰生活を歩んで行くのか、その信仰生活の歩みの過程が信仰告白の順序そのものに表れています。特に今日の

「愛のわざに励みつつ」

という告白を取り上げる時、そのことがよく分かってきます。この信仰告白は、わたしたちのクリスチャンの生活をこのたった一言の言葉によって言い表しています。すなわち、キリスト者の生活は要するに突き詰めて言えば、「愛のわざに励む」生活である、この一言に尽きるのです。何を行うにしても、わたしたちは愛のわざに励むということが大切なのです。

 しかし、実際には、わたしたちは「愛のわざ」という言葉を聞きますと少々、後ろめたい、重苦しい気持ちを抱くのではないでしょうか。一体なぜでしょうか。わたしたちは誰しも、愛のわざが大切であることを知っています。そのようなことは繰り返し教会で聞いていますから、愛のわざに励まなければならないということは誰しも心得ています。しかし、問題は、わたしたちが愛に欠けた者であるという現実に直面することです。愛のわざに励もうとしても、そうできない現実があります。一体、どうしたら、愛のわざに励む人になることができるのか、そのことでさんざん悩んできたはずです。わたしたちはさまざまな経験を通して、愛のわざに励んでいるように見えながらも、実際にはそれは本当に相手のためになされているというよりは、単なる自己満足のためになされているに過ぎず、「愛の押し売り」みたいなことになってしまう、そういう現実にしばしば直面させられます。要するに、わたしたちが愛のわざをなす時、相手の人から見返りを求めたり、感謝されることを先に求めてしまう。もっと言えば、あたかも自分が神であるかのように、その人から崇められることを望んでしまう、そういう下心のようなものがわたしたちの愛のわざの背後にはあるのではないでしょうか。愛のわざほど、わたしたちがしたいと望みながら、それをすることが難しいことは他にないことを知っています。ですから、ここで大切なことは、愛のわざが大切であると説くと同時に、一体どうしたら、わたしたちが愛のわざに励む人間に変わることができるのかということを知ることです。

 その点において、日本基督教団信仰告白は大切なことを教えてくれるのです。この信仰告白は、一体どうしたら、わたしたちが愛のわざに励む人となることができるのか、その原動力が一体どこから生まれてくるのかを明確に示してくれるのです。もう一度、この段落の言葉とその順序に注目して、この信仰告白の言葉を読んでみたいと思います。

 「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む。」

 ここでは教会が果たすべき務めが述べられているのですが、この順序が大切なのです。まず第一に教会が果たすべき使命は何か、それは、公の礼拝を守ることであると述べられているのです。そして、次にその礼拝の中で「福音を正しく宣べ伝えること」が大切であることが言われています。それは言葉を換えて言えば、「伝道」ということです。礼拝から伝道へという順序で進みます。そして、それに続いて、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行うことが語られます。これは具体的にキリストの犠牲に与ることです。これは礼拝の本質を表しています。礼拝の本質とは一体何でしょうか。英語では「礼拝」のことを「サーヴィス」と言います。わたしたちが神にサーヴィスする、神に仕える、という側面ももちろんありますが、礼拝は何より、神がわたしたちにサーヴィスして下さる、神がわたしたちに奉仕をして下さる場所なのです。その究極が聖礼典を通して与えられるキリストの命に他なりません。今日も聖餐に与りますが、キリストは聖餐のパンとぶどう酒を通して、わたしたちに御自身の命を差し出して下さるのです。そういう仕方で、わたしたちの罪を赦し、新しい命に生きることを可能にして下さるのです。礼拝というのは、そのような神の奉仕、キリストの愛のわざに与る場所です。その上で、それに続く形で「愛のわざに励みつつ」ということが語られるのです。わたしたちは一体どうしたら、愛のわざに励む人間に変わることができるのか、そのためにはまず、神を神として礼拝するということが大切なのです。礼拝においてキリストに仕えて頂く経験をする、キリストの愛のわざに生かされる、そのことがわたしたちの愛のわざへと結びついて行くのです。この愛のわざの主体は「教会」です。ですから、順序としては、礼拝、伝道、そして、奉仕へと至る、そのような歩みを教会は歩んで行くのです。教会の愛のわざ、教会の奉仕のわざの原動力はまさに礼拝にこそあるのです。

U.「愛のわざに励みつつ」

 もう一つ大切なことは、「愛のわざに励みつつ」と言われていることです。これも面白い言葉遣いだと思います。信仰告白の中では唯一「…つつ」という言葉が用いられています。なぜ、「…つつ」という言葉が用いられているのでしょうか。「…つつ」という言葉は、一つの動作を間に、もう一つのことを行うということです。つまり、わたしたちは愛のわざに励む、そのことに没頭することは大切なのですけれども、しかし、それだけに埋没してしまってはいけないということです。愛のわざにははっきりとした目標があるのです。それがどこにあるかと申しますと、「主の再び来たりたまふを待ち望む」ということ、そこに愛のわざの究極的な目標があるのです。主は天に昇られる時、再びこの地上に来てくださると約束されました。主が再びこの地上に来て下さる時、神の国が完成されます。その御国の完成に向って、わたしたちは愛のわざに励むことが大切なのです。

このことは何を意味しているのでしょうか。一つは、今申しましたように、愛のわざの「目標」を示しています。御国の完成に向って愛のわざに励んで行く。そして、もう一つは、この言葉は愛のわざの「限界」をも示しています。わたしたちの愛のわざはどんなに頑張ったとしても、不十分な欠けの多いものに過ぎません。わたしたちの愛のわざがこの地上に神の国をもたらすわけではないのです。そうではなく、復活のキリスト御自身がこの地上に再び来られて、神の国を完成させてくださるのです。ですから、わたしたちは自分の愛のわざの限界を知らなければならないのです。限界を知りつつ、なお、どんなに小さな業も決して無駄になることはない、神の国の完成につながって行く大切なわざであるということが、ここでは言われているのです。

わたしたちが愛のわざをなす時、何よりも大切なことは、再臨のキリストに目を向けることです。わたしたちの愛のわざを受ける人々の目をも、再臨のキリストに向けさせるようにすることが大切なのです。つまり、その意味では「伝道」こそ、最大の愛のわざなのです。御言葉を宣べ伝え、再臨のキリストに目を向けさせること、これが教会がなすべき、最大の愛のわざです。先ほど、わたしたちが愛のわざをなす時に、どうしても、自分自身に目を向けさせてしまう誘惑があるということを言いました。人から感謝されたい、自分が神であるかのように人から崇められたい、どうしてもそういう気持ちが先に働いてしまいますが、しかし、再臨のキリストに共に目を向けることによって、わたしたちはそのような自己中心的な愛のわざから解放されるのです。人の目を自分に向けさせるのではなく、キリストに向けさせる愛のわざが求められているのです。

V.互いに愛し合うこと:返し終えることのない負債

 そのことを、今日与えられました御言葉であるローマの信徒への手紙13章8−10節は、わたしたちに深く教えてくれます。ここでは愛のわざについて語られているのですが、非常に不思議な言葉遣いがなされています。すなわち、

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」

という言い方をしているのです。元の文章では、ここはもっとインパクトのある言い方をしています。すなわち、まず最初に「あなたがたは誰に対しても、借りがあってはなりません」と言うのです。そして、その後に「互いに愛し合うことのほかは」と続くのです。どうしてパウロは「あなたがたは誰に対しても、借りがあってはなりません。」なぜ、パウロは、唐突に「借り」という言葉を使うのでしょうか。パウロはなぜ、愛について語るのに、「借り」という言葉を使うのでしょうか。それは決して偶然のことではありません。今日の御言葉が置かれている文脈に目を向けますと、その前には国家に対してキリスト者が果たすべき責任が語られています。

 「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」
(ローマの信徒への手紙13章7節)

 ここでパウロは「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」と勧めていますが、「義務」と訳されている言葉は8節の「借り」と訳されている言葉と同じ言葉なのです。ここでは特に国家に対して果たすべき「義務」について言及され、税を納めることが語られていますが、キリスト者であっても、国家に対する義務はすべて果たすべきであると勧められます。その後で、パウロは愛について次のように語るのです。

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」

と言うのです。これは一体どういうことでしょうか。つまり、こういうことです。わたしたちは、互いに愛し合う責任を負っている。それは、どんなに頑張っても払い終えることのできない借りのようなものである、ということです。これは大変不思議な言い方ではないでしょうか。わたしたちは、愛のわざは自発的になされる時にこそ、本物であると思っているのではないでしょうか。人から強制されるのではなくて、自分から自発的になされる時、それは本物の愛のわざになるのではないでしょうか。
 しかし、ここでは、決して愛のわざが義務感からなされるべきだと言うことが言われているのではありません。むしろ、愛のわざというのは、何かそれによって、わたしたちが報酬を求めることができるようなわざではないということが言われているのです。つまり、「愛」というのは、自分の財産のように銀行に預け、あるいは、人に貸して、利子を求めることができるような財産ではないということです。「愛」は元々、わたしたちのものではないのです。そうではなく、それは神から恵みとして頂いたものなのです。わたしたち自身が神に対して、測り知れないほどの「愛」という借金を背負っているものなのです。それは、言葉を換えて言えば、「罪」です。聖書で罪という言葉は、「負債」という言葉です。私たちは、神に罪を犯すことによって、負債を負っている。それがいつの間にか積もり積もって、人生のすべてを費やしても、返せないほどの莫大な借金を背負ってしまったのです。

マタイによる福音書18章21節以下のたとえ話がそのことを示しています。そこには、主君に1万タラントン借金をした家来の話が出てきます。1万タラントンというのは、わたしたちのお金に換算すれば、3000億円という途方もない金額です。しかし、この主人は、借金の返済を待ってくれと必死になって頼む家来を憐れに思い、家来の借金を帳消しにしてやりました。ところが、自分の借金を帳消しにしてもらった直後に、この家来は100デナリオン金を貸している友人に出会います。それは、せいぜい50万円程度のお金です。すると、今、途方もない借金を帳消しにしてもらった家来は、友人の胸倉をつかみ、「すぐに借金を返せ」と脅迫したのです。それを聞いた王は心を痛め、この家来を牢に閉じ込めたのです。

 わたしたち人間は、神に一生かかっても返せないほどの借金を背負っているのです。それは罪の負債です。しかし、主イエス・キリストは御自身の尊い命を十字架に捧げることを通して、わたしたちの罪の負債を代わりに支払って下さったのです。それによって、神はわたしたちの罪の負債を帳消しにし、罪を赦し、借金から解放されて新しい生活を始めることができるようにしてくださいました。わたしたちは、主イエス・キリストに対して、一生かかっても返すことができない負債を負っているのです。それは愛の負債です。

W.キリストの命令:互いに愛し合いなさい

 主イエス・キリストは、十字架の死を目の前にして、弟子たちと最後の食事を共にされた席上で、弟子たちに新しい掟を与えられました。ヨハネによる福音書13章34節以下に記されています。
 
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

キリストは、この愛の借金を御自身に対して返すことを求めません。むしろ、わたしたちが互いに愛し合うことが、キリストに対して愛の借金を返すことになるのです。わたしたちが愛のわざに励んだとしても、それは、キリストから借りている借金をほんのわずかばかり返すようなものであって、雀の涙のようなものです。それによって、わたしたちが見返りや利子を求めることなど、到底できるようなものではありません。もし、愛のわざを行って、人から感謝されるような場合、わたしたちは、相手に対してこう言わなければなりません。

「わたしは果たすべき責任を果たしただけです。感謝するなら、キリストに感謝してください。この方が御自身の命を犠牲にしてまで、わたしの罪の借金を帳消しにして下さったから、今、わたしは生きることが許されているのです。この方はあなたの罪の借金も帳消しにして下さる方です。だから、感謝するなら、キリストに感謝してください。」

 そのような愛のわざこそが、律法を全うするのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という律法は、すべて隣人に悪を行わないために定められたものです。しかし、愛は、隣人に悪を行わないだけではなく、隣人に益をもたらします。だから、愛は、律法を全うすることができるのです。

X.真の愛のわざ

 愛のわざには決まった形はありません。愛のわざは祈りから生まれて来ます。祈りの中で、その人のために自分が何をできるのか、その答えを神に祈り求めることから生まれて来ます。何よりもその人のために祈ること自体が愛のわざです。執り成しの祈りは最大の愛のわざです。一人で相手のために祈るにしても、共に祈り合うにしても、そうです。祈りはいつも神に向ってなされます。自分自身に目を向けるのではなく、神に目を向けさせます。祈りが背後にない愛のわざは、真実の愛のわざではありません。わたしたちの愛のわざが日々の祈りによって裏付けられる時、それは本当の愛のわざになります。悩みを抱えている人の話に静かに耳を傾け、その人のために祈ってあげるのも愛のわざでしょう。教会を長期欠席している人に手紙を書くことも愛のわざの一つでしょう。どうしたら、その人が礼拝に出席できるか、考え、工夫し、そのためにできることをする、それも愛のわざでしょう。そのような人に週報を届けることも愛のわざの一つでしょう。病院に入院している人を見舞うことも愛のわざの一つでしょう。人が見ていない所で、教会のスリッパを揃えたり、教会の周りを掃除して、礼拝に備えることも愛のわざでしょう。わたしたちがキリストに救われた者として、その愛に感謝して、為される行為はすべて愛のわざとなります。

さらに、この御言葉の文脈の中で考えれば、社会や国家に対しても、わたしたちは愛のわざに励まなければならないでしょう。 今日は丁度、憲法記念日です。わたしたちは、この日、特にこの日本国憲法を通して、わたしたちが国家に対し、社会に対して、また、広く国際社会に対して果たすべき責任を改めて思わされます。憲法9条が問題となっていますが、これはわたしたちの国が世界に誇ることのできる憲法です。わたしたちは戦争という大きな代償を支払って、この宝を勝ち取りました。ですから、わたしたちはこれが守られるように、キリスト者としても積極的にその責任を果たして行かなければなりません。また今、100年に一度と言われる不況で、多くの失業者が生まれ、生活の基盤を失っている中、改めて憲法に規定されている「生存権」が問題とされています。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が憲法25条に規定されています。このような社会を実現して行くことに積極的に参与することも、また愛のわざの一つです。なぜなら、神の国においてこそ、そのことは実現されるからです。わたしたちは、失われた1匹の羊のたとえを語られた後、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と語られた主イエス・キリストが、再び来たり給う日を待ち望みながら生きているのです。

いずれにしても、大切なことは、その愛のわざを通して、わたしたちが互いに唯一の救い主に目を向けることなのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられた方に目を向けることが大切なのです。愛のわざに励みつつ、主の再び来たり給ふ日を待ち望む。それが真実の教会の姿であり、また真実のキリスト者の生き方なのです。

天の父よ!
 わたしたちを罪の中から贖い出し、神を礼拝する民として召し出して下さいましたことを感謝致します。主よ、あなたはわたしたち一人一人が愛に生きる者となるように、御子の尊い犠牲によって、わたしたちを罪より贖い出してくださったことを感謝致します。どうか、わたしたちがどんな小さな業をも軽んじることなく、愛のわざに励むことを通して、真の救い主を宣べ伝え、主が再び来たり給ふを待ち望む歩みを送ることができますように。今から聖餐の恵みにあずかろうとしています。どうか、復活のキリスト御自身がわたしたちの前に立ち、復活のキリストの御手から聖餐を受け取ることができますうように。聖餐を通して「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という御言葉を聞き取り、愛のわざに励むことができますようにお守り下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。アーメン。