+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教18

エレミヤ書31章31−34節 マタイによる福音書26章26−30節 ローマの信徒への手紙6章1‐11節

「バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い

T.「死から新しい命へ」

私たちは今日、主イエス・キリストが死者の中から復活なされた喜びの日を迎えました。今、教会の前の芳斉分校の桜も満開です。冬は枯れていたかのように思われた桜の木が、毎年、春になると枝先にまで見事な花を咲かせます。生命の力強さを改めて感じさせられます。教会では毎年、桜が咲く頃に、主の復活を祝うイースターを迎えるのは、神の摂理でしょうか。『讃美歌21』には、前の讃美歌にはなかった「球根の中には」(575)という歌が新しく取り入れられました。この歌は主イエス・キリストの復活と共に始まった新しい時の流れを見事に歌っています。
 
     「球根の中には 花が秘められ、さなぎの中から いのちはばたく。
      寒い冬の中 春はめざめる。 その日、その時を ただ神が知る。

      いのちの終わりは いのちの始め。 おそれは信仰に、 死は復活に、
      ついに変えられる 永遠の朝。 その日、その時を ただ神が知る。」

この歌を聞くと、生きる勇気と力が湧いてくるのではないでしょうか。なぜでしょうか。それは、この讃美歌が、私たちが普通人生で経験する時の流れとは、全く逆の流れを歌っているからではないでしょうか。私たちの内、誰一人として、死を免れることのできる人はいません。私たちの人生の歩みは死に向かう歩みです。「命の誕生から死へ。」私たちは一度この世に生れたら、誰一人この流れに逆らうことができず、あたかも激流に流されるがごとく、死に向かって歩まなければならないのです。しかし、この歌にはそれとは違う人生の流れが歌われています。それは「命の誕生から死へ」という流れではなくて、むしろ、「死から新しい命の誕生へ」という流れです。キリストの復活と共に「死から新しい命へ」という流れがこの世界に新しい人生の流れが造り出されたのです。それが復活という出来事の意味なのです。

U.神の国の到来を告げる知らせ

しかし、そうは申しましても、私たちを取り巻く現実に目を向けるならば、依然として、「命の誕生から死へ」という流れがこの世界を支配しているのではないでしょうか。キリストの復活は、ただ一度起こった突然変異のような出来事であり、その後は今まで何ら変わることのない自然の法則が支配しているのではないでしょうか。

ヨーロッパの古い諺に次のようなものがあります。「つばめ一羽ではまだ夏とは言えない。」ツバメは渡り鳥です。日本には夏鳥として春先に飛んできます。イギリスでは夏になるとつばめがやってきます。ですから、イギリスではつばめは夏の訪れを告げるしるしなのです。しかし、つばめが一羽飛んできたからと言って、完全に夏が来たわけではありません。そこから、この言葉は「早合点は禁物」という意味で用いられるようになったのです。つまり、たった一つの例から一般的な結論を引き出してはいけない、という意味で用いられるようになったのです。確かにその意味では、主イエス・キリストの復活というのは、人類の長い歴史の中で起こったたった一つの例外であるかも知れません。確かに、一羽のつばめが飛んできたからと言って、完全に夏が来たわけではありません。しかし、それでも、この一羽のつばめは、確実に夏が近づいて来ていることを告げることに変わりはないのです。

主イエス・キリストは、新しい時が始まったことを告げる「つばめ」のように、私たちの所に飛んで来て下さいました。キリストは新しい神の国の到来を告げるつばめです。確かにまだ完全に神の国が来たわけではありません。しかし、神の国はすぐそこまで来ている。キリストの復活は神の国の到来を告げる知らせなのです。私たちもやがて、主と同じように永遠の命に復活させられる時が来る。その時が確実に近づいているのです。私たちは復活のキリストを信じることによって、「死から新しい命へ」と向かう新しい命の流れの中を生きることが許されるのです。


V.洗礼

そのような歩みはどこから始まるのでしょうか。それは「洗礼」と共に始まるのです。キリスト者としての歩みは、洗礼を受けることから始まります。私たちは洗礼を受けることを通して「命から死へ」の流れの中から、「死から命へ」の流れの中に移されるのです。先ほどお読みしましたローマの信徒への手紙6章3−4節には、次のようにありました。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」

洗礼はキリストと結ばれるためのものですが、それは何よりもまず、キリストの死に与るためのものなのです。私たちは新しい命に生きるようになるためには、まず古い自分に死ななければならないのです。キリストは他の所で、次のように言われました。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

一粒の麦は実を覆っている殻を破らなければ、芽を出し、実を実らせることはできません。球根は、球根の形のままでは、花を咲かせることはできません。球根の中に秘められている命は、球根としての形を一度捨てなければ、花を咲かせることはできません。さなぎも殻を破らなければ、蝶になることはできません。それと同じように、私たちが新しい復活の命に生きるためには、まず古い自分に死ななければならないのです。古い自分の生き方に固執していたのでは、新しい命に生きることはできないのです。そして、それを妨げる力を聖書は「罪」という言葉で呼んでいるのです。私たちはなかなか罪に汚れた自分の古い生き方を捨て去ろうとはしません。古い自分に固執して、古い自分を神の御手に委ねようとはしません。しかし、キリストは御自身の十字架の死を通して、この罪の力を打ち砕き、新しい命への道を切り開いて下さったのです。パウロはローマの信徒への手紙6章4節で次のように言っています。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

私たちは洗礼を受けることを通して、キリストの十字架の死と復活に与るのです。洗礼を受けた者はすでに一度古い自分に死に、新しい命を生き始めているのです。洗礼を受けた者は、もはや「命の誕生から死へ」という時の流れの中を生きているのではないのです。そうではなく「死から新しい命へ」と至る新しい時の流れを生き始めているのです。


W.聖餐

 ところで、球根から生まれ出た芽は、世話をせず、放っておいたのでは美しい花を咲かせずに枯れてしまいます。それと同じように新しい命も必要な栄養を取らなければ、成長せずに枯れてしまうのです。その必要な栄養が「聖餐」なのです。聖餐のパンとぶどう酒は、私たちの内に永遠の命を養う真の食べ物であり、真の飲み物なのです。

先ほど読んだマタイによる福音書26章26節以下には、この聖餐が制定された時のことが記されていました。ここは、主イエス・キリストが十字架に架かられる前夜、弟子たちと最後の食事をしている場面ですが、26節には「一同が食事をしているとき」とあります。そこには12人の弟子たちが一堂に会し、食事を共にしていたのです。そこには、主イエスを裏切ることになるユダもおりました。そして、主イエスは弟子たちが見ている前で「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』」ここではパンを取り、それを裂かれたとありますから、元々はパンの塊であったことが分かります。私たちの聖餐式では、初めからパンが分けられていますが、主イエスは弟子たちが見ている前で、一つのパンを裂き、弟子たち一人一人に、目を見ながら、「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言って手渡されたのです。また、杯をも同じようにして言われました。「皆、この杯から飲みなさい」。「この杯」とは一つの杯です。弟子たちは同じ一つの杯から順々に飲んだのです。皆が同じ一つの杯から飲むということが大切なのです。日本語でも「杯を交わす」という言葉があります。日本の伝統的な結婚式においては、結婚をする男女が三三九度の杯を交わすように、血縁関係にない者同士が杯を交わすことによって、絆を深めるということを致します。日本では「杯」そのものが人間を結ぶ「絆」を意味するのです。

W.聖餐

しかし、キリスト教の場合には、人間が互いに杯を交わすのではなくて、主が一人一人に杯を手渡されるのです。その時、主は一人一人の目を見ながら、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われて、その杯を手渡されるのです。主はそのような仕方で、「わたしはあなたの罪を代わりに背負い、あなたのために肉を裂き、血を流すのだ」と語りかけて下さるのです。そのような仕方で永遠の命を養う真の食べ物をお与え下さるのです。

教派によっては、今でもこのような仕方で聖餐式を守っている所があります。例えば、私がドイツで出席していたルター派の教会などでは、聖餐式になりますと、聖餐を受ける人々が前に出て、牧師は一人一人に「これはあなたのために裂かれたキリストの体です」と言って、目を見ながらパンを与えてくれます。杯も一つの杯を用いて、「これはあなたのために流されたキリストの血潮です」と言って、目を見ながら語りかけ、杯を差し出します。その一つの杯から兄弟姉妹が順々にぶどう酒を飲みます。

私たちはたとえ、そのような仕方で聖餐式を守っていないとしても、意味は同じです。キリストは聖餐式において、私たちの目を見て、「わたしはあなたの罪を代わりに背負い、あなたのために肉を裂いた。わたしの肉を食べなさい」と語りかけてくださいます。また、「わたしはあなたの罪のために血を流した新しい契約の血として、これを飲みなさい」と語りかけてくださるのです。

そこで大切なことは、ここで主イエスが「罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」と言われていることです。旧約聖書では、神との契約が結ばれる時、汚れなき小羊の血が流されました。その血によって民の罪は赦され、神と契約を結ぶことができたのです。イスラエルが奴隷の地エジプトから導き出される時、過越が祝われ、小羊の血が流されました。それによって、彼らは奴隷の地エジプトから贖われ、神の民とされたのです。

しかし、今や、キリストは十字架上で御自身の血を流されることによって、「新しい契約」を結んで下さったのです。これがエレミヤ書に約束されていた「新しい契約」です。それは、イスラエルの民のみならず、世界のすべての民が与ることのできる契約です。主イエス・キリストの十字架の死と復活という出来事は、神が世の罪を赦し、世界のすべての民と契約を結ぶための出来事であったのです。

私たちは洗礼を受けることを通して、この契約に与ることができます。洗礼を受けることを通して神の民の一員として加えられるのです。キリストを通して与えられる新しい命とは、個人的なものではなく、神の民の一員として生きる命なのです。聖餐はこの契約に与っている民に与えられる食事なのです。聖餐を通して、私たちは主にあって一つの民としての絆を強められるのです。ですから、聖餐は個人的に受けるべきものではなく、神の民が共に喜び祝う共同の食事なのです。聖餐においてこそ、私たちは一つの民とされるのです。新しい命というのは、一人孤独に生きる命ではなく、他者と共に生きる、喜びに溢れた命なのです。復活の主イエスと共に生き、主にあって兄弟姉妹と共に生きる命なのです。それを与えてくれるのが「洗礼」と「聖餐」という二つの聖礼典なのです。

Y.人生に欠くことのできないもの

話が少し横道に逸れますが、シルヴァスタインという人が書いた有名な絵本で『ぼくを探しに』という絵本があります。単純なイラストですが、内容から言えば、大人向けの絵本です。その中の主人公は丸いボールのような形にしており、丁度、口の部分を三角に切り取った形をしています。この主人公は、「自分には何かが足りない」、「心が満たされない」、そういう思いを抱えながら、野越え、山越え、一生懸命、自分の口に合う三角の形をしたピースを探しに出かけるのです。そして、転がりながら、次のような歌を歌います。

「ぼくはかけらを探してる、足りないかけらを探してる、ラッタッタ さあ行くぞ
 足りないかけらを探しにね。」

道の途中、いろいろな形のピースに出会いますが、なかなか自分の口の形にぴったりとはまるピースを見つけることができません。あるものは小さ過ぎ、あるものは大き過ぎ、またあるものは形が違って、上手く口に合いません。しかし、遂に自分の口にぴったりと合うピースを見つけます。その欠けたピースをはめると、完全な丸の形になり、前よりも坂道をごろごろと転がることができるようになりました。ところが、あまり速く転がるので、途中でみみずにお話しすることもお花の香りもかぐことも、前のように歌を歌うこともできなくなってしまいました。そこでこの主人公は、そっとそのかけらを口から降ろし、元通りの形で転がって行くというお話です。

Y.人生に欠くことのできないもの

 この絵本は私たち人間が抱えている根本的な問題を描いていると思います。この絵本にあるように、私たち人間は誰でも、今の自分に満たされない気持ちを抱えているということです。自分には何かが欠けている、その何かを私たちは一生懸命探し求めて、人生を生きていると思うのです。人生というものは「自分探しの旅」です。ある人は仕事に、ある人は結婚に、ある人は子どもに、ある人は家族に生きがいを見出すかも知れません。けれども、そのどれもが本当の意味で私たちの心を満たしてくれない。一体自分に欠けているものは何であるのか。この本はその究極的な答えを与えてくれません。その問いに本当に答えることができるのはキリストだけです。キリストは私たち人間に何が欠けているのか、何が本当に必要なのか、知っておられるただ一人のお方です。キリストはそれを与えるために聖礼典を定められたのです。そして、この二つの聖礼典を通して、私たちに欠けている、私たちが生きる上で絶対に欠くことができないものをお与えくださるのです。すなわち、キリスト御自身の命をお与え下さるのです。私たちは聖礼典を受けることを通して、復活のキリストと一つに結び合わされます。生ける復活のキリストこそ、私たちが生きる上で、どうしても必要なお方なのです。聖礼典はそのお方と私たちとを結び合わせてくれるのです。それは言い換えれば、この方を通して与えられる「罪の赦し」と「永遠の命」です。この聖礼典を通して、私たちは神と共に生き、隣人と共に生きる愛の生活を始めます。ここに私たちを生かすまことの交わりがあります。それは終りの日に神の国において完成される交わりです。終りの日には、私たちは神の下で祝いの祝宴に共に与ることが約束されています。聖餐はそのことを先取りして与えられているものなのです。聖餐は、神の国の完成が近付いていることを世の人々に知らせる「つばめ」の役割を果たします。復活のキリストは、私たち一人一人をこの祝いの食卓に招いておられます。私たちも御国の完成を待ち望みつつ、この祝いの食卓に人々を招くために伝道の歩みを進めて参りましょう

天の父よ!
 私たちの罪を代わりに背負い、十字架の贖いの死を遂げられた主イエス・キリストは死を打ち破り、復活なさいました。今日も御言葉を通し、聖礼典を通して、復活のキリストが私たちの真中に立たれ、「我に来よ」と招いて下さることを感謝致します。どうか、私たちが主の招きに応え、私たちが生きる上で絶対に必要なものを聖礼典を通して受け取ることができますように、私たちを主の復活の命で満たし、私たちも新しい命に生きる者とさせて下さい。主よ、どうか、今日もまた一歩神の国の完成へと近づくことができますように、悲しみが喜びに、死が復活に変えられる、その希望に生きる日とさせて下さい。特に弱さの中にある兄弟姉妹を顧みてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン。