+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教17

イザヤ書52710マルコによる福音書161418節、ローマの信徒への手紙11617

「福音を正しく宣べ伝え」


T.「福音を正しく宣べ伝え」

 受難節第一主日を迎えました。私たちの罪を代わりに背負い、十字架への苦しみの道を歩まれた主イエス・キリストのご受難を心に留め、自らの罪を深く悔い改め、主に従う決意を新たにする時です。この時に私たちはもう一度、信仰告白の学びを通して、信仰の原点に立ち返る機会を与えられました。今日は特に日本基督教団信仰告白の中で

「福音を正しく宣べ伝え」

という告白を取り上げたいと思います。ここは教会が果たすべき使命について語っている段落です。前回は、教会が果たすべき第一の使命として「公の礼拝を守る」ことについて学びました。主の日毎にすべての人に開かれた「公の礼拝」を守る。それが教会の果たすべき第一の使命です。それに続いて「福音を正しく宣べ伝え」と言われるのです。つまり、ここでは「何のために礼拝を守るのか」ということが語られているのです。すなわち、福音を正しく宣べ伝えることが礼拝の目的なのです。逆に言えば、福音が正しく宣べ伝えられる時に初めて、礼拝は正しく守られる、とも言うことができます。福音が礼拝を礼拝たらしめているのです。いずれにしても、礼拝の目的が、福音を正しく宣べ伝えることにあるということは、礼拝そのものが伝道の業であるということです。礼拝というのは、福音を正しく宣べ伝える場所です。伝道の場です。私たちは果たして、一人一人がそのような自覚をもって礼拝に臨んでいるでしょうか。礼拝を守ることは、私一人の事柄ではないのです。そうではなくて、隣人に福音を伝える機会としてこの時が与えられているのです。

さて、その際に大切なことは「福音を正しく宣べ伝え」ることです。それぞれが自分の信仰のあり方に従って、自分なりの仕方で福音を宣べ伝えれば良い、というのではないのです。そうではなくて、福音を「正しく」宣べ伝えることが大切なのです。その場合の「正しく」とは、一体何を意味するのでしょうか。それは言うまでもなく、「聖書の御言葉を忠実に語る」ということです。「聖書の御言葉に即して」ということが、「正しく」ということの意味です。そう致しますと、私たちが福音を正しく宣べ伝えるためには、それに先立って、聖書の御言葉を正しく聞かなければならない、ということになります。福音を正しく聞いていない人が、どうして福音を正しく伝えることができるでしょうか。

しかし、長い教会の歴史の中で、聖書ほど人間の我儘勝手に振り回されてきた書物は他にありません。聖書というのは、人によっていろいろな読み方ができます。それも個人の自由だと言ってしまえば、それまでなのですが、しかし、教会が成り立つためには、正しい信仰がなければなりません。ですから、教会は長い教会の歴史の中で、聖書を誤った読み方から守るために、「信仰告白」を生み出してきたのです。私たちは、教会が受け継いできた血と汗の結晶である信仰告白をこれまで順番に学んで来ましたが、今日の箇所に至って、信仰告白がどれほど大切さかということが改めて教えられます。信仰告白というのは、一言で言えば、聖書の正しい読み方を私たちに伝えるためのものなのです。「教会はこのように聖書を読んできた。」その読み方が信仰告白を通して示されるのです。信仰告白には、福音の正しい理解が示されています。ですから「福音を正しく宣べ伝え」ということは、「福音を、信仰告白の理解に従って、宣べ伝える」ということに他ならないのです。

しかし、実際には「信仰告白」の重要性というものはなかなか伝わりません。「ここに記されていることは、私たちの生活とはかけ離れた、無味乾燥な教理、あるいは、教義に過ぎない、もっと個人の信仰は自由であって良いのではないか」というような考え方にしばしば直面します。しかし、「信仰告白」というのは、実に私たちの生活を左右する、生死を決定するような重大な文書なのです。例えて申しますならば、信仰告白は、歯並びを良くする「矯正器具」のような役割を果たします。歯並びが悪いと、ただ見た目の問題だけではなく、虫歯になったり、食べ物をきちんと噛むことができずに、胃や腸に負担がかかり、体の健康を損なうことにまでつながります。歯の健康は、体全体の健康につながっているのです。ですから、歯を矯正して、歯並びを良くするのです。それは見た目の問題ではなくて、体全体の健康に関わる問題、生死に関わる問題です。

私たち個人の信仰は、個人的な関心や考え方に強く影響されやすいものです。祈りもそうですが、自分の関心のあることしか祈らないということが起こります。ですから、どうしても歪みが生じて来るのです。私たちは神の御言葉を食して、そこから栄養を頂くのですが、きちんとした歯で噛まないと、消化不良を起こし、体全体の健康を損なうことになります。そこで私たちは「信仰告白」という矯正器具を取り付けて、もう一度自分の信仰を見直し、きちんとした信仰に整えてもらう必要があるのです。歯の矯正と一緒で、矯正には長く時間がかかります。今日つけたから、明日すぐに治るというようなものではありません。「面倒くさいから放っておこう」ということにもなりかねませんが、しかし、放っておいたら大変なことになります。ですから、私たちは面倒くさがらずに、この信仰告白の言葉をしっかりと一つ一つ学び、自分のものにして行くことが大切なのです。

U.復活の主イエスの宣教命令

そこで、福音を正しく聞き取り、そして、正しく宣べ伝える、ということがどういうことなのかを、今日は特にマルコによる福音書の御言葉を通して共に学びたいと思います。ここには、復活なされた主が11人の弟子たちに姿を現わされる場面が記されています。主イエスが十字架に架けられ死なれてから、まだ一週間と経っていない時のことだったと思います。主イエスを裏切ったことに対する心の責めを負い、彼らはどんなにか暗い気持ちで食事をしていたことかと思います。ここには「11人が食事をしていた時」と記されています。本来であれば12人いたはずの弟子たちが、今は11人しかいません。主イエスを裏切り、自殺したユダがそこにはおりませんでした。弟子たちは、自分たちの主を失った悲しみだけではなくて、「自分たちの群れの中から主を裏切った者が出た」という辛い事実の前に、どれだけ大きなショックを受けていたか知れません。しかし、それは、ユダ一人の罪ではありません。皆が十字架を前にして主イエスを見捨てて逃げ出したのですから、彼らは皆、自分の罪に打ちひしがれていたことでありましょう。教会は、初めからこのような有様であったのです。教会は自らの内に破れを負い、欠けた状態から出発しなければならなかったのです。それがありのままの教会の姿でした。

さて、そのような所に、復活なされた主イエスが御姿を現わされたのです。そして、弟子たちが、復活の主を見た人々の言葉を信じなかったことをお咎めになられるのです。しかし、そうでありながらも、主イエスは、そのような欠けのある、罪に破れた、不信仰な弟子たちにご自身の福音を委ねられたのです。これは驚くべきことではないでしょうか。福音を託された人々というのは、不信仰で、心のかたくなな弟子たちでありました。しかし、そういう彼らが福音を託されることによって、生まれ変わる経験をしたのです。彼らに託された福音というのはまさに、主イエスの十字架の死による罪の赦しと復活による新しい命を伝えることに他なりませんでした。それは、彼ら自身がこの時、経験したことであったのです。罪を犯した弟子たちに、復活の主が御姿を現わされ、彼らに福音を託された、ということが、彼らにとっては、罪の赦しを頂くことであり、新しく生まれ変わる経験でもあったのです。

 さて、主イエスはここで弟子たちに向かって次のように言われました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

そこには何の例外もありません。何の限定も制約もありません。国、民族、思想、習慣、文化などに関わりなく、「全世界に行って」と言われているのです。仏教の強い地域は、伝道の実りが期待できないから、福音を伝えなくても良いと言われているのではありません。イスラム教国は、仰も文化も習慣も違うし、信教の自由を侵してもいけないから、イスラム圏は避けなさい、とも言われてはいません。主イエスは何ひとつ例外なく、「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」と命じられるのです。

しかも、ここでは「すべての造られたものに」福音を宣べ伝えなさいと命じられるのです。「すべての造られたもの」と言われた時、主はそこで人間のことだけを考えておられたのではありません。文字通り「すべての造られたもの」です。地に住む動物も、海や川に住む魚も、空を飛ぶ鳥も、野に咲く花も、夜空に輝く星も、全世界、全宇宙に福音を宣べ伝えなさい、と命じたのです。これは、主イエスの十字架の死と復活を通して起こった救いの出来事が、どれほどスケールの大きなものであるかを示す言葉です。

 今の世界の有様を見ていると、この世界は人間の罪によって、苦しみの叫びを挙げているような状態です。環境破壊による地球の温暖化は歯止めがかからず、また、先日はアメリカとロシアの衛星がぶつかり、宇宙に無数のゴミをばらまく結果になりました。今や、汚染は地球を越えて、宇宙にまで広がっています。神が造られた美しい世界は、人間の罪によって破壊され、汚されている。しかし、人間が罪から救われることによって、この世界もまた人間の罪から救われるのです。万物も罪と死の力からの救いを待ち望んでいます。主イエスの十字架の死と復活によって、万物が新しく造り変えられるのです。救い主イエス・キリストがこの地に人として来られたことは、まさにすべての造られたものにとって、「良き知らせ」“グッド・ニュース”であったのです。

 さて、それに続いて、主は次のように言われます。

「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」

 ここでは、福音を信じて受け入れることが大切であることが述べられています。先ほど読みましたローマの信徒への手紙1章16節にも福音は「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であることが述べられていました。福音にはどんなに罪深い人をも救う力があります。しかし、それは、その人が福音を信じて受け入れる時に初めて力を発揮する救いなのです。しかも、マルコによる福音書には、信じて洗礼を受ける者のみが救われると書いてあるのです。洗礼を受けるというのは、単なる形式的な問題ではありません。それは、信じていることを具体的に表す行為です。信じていても、洗礼を受けなければ、まだその人の信仰は本物とは言えません。福音はそれを信じて、洗礼を受ける時、初めて救いの力を発揮するのです。私たちはただ福音を通して、キリストを真の救い主として信じ、洗礼を受けることによってのみ救われることができます。反対に信じない者は、滅びの宣告を受けるのです。

V.信じる者に伴うしるし

 さて、それに続いて、信じる者に伴う「しるし」について語られます。

「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」

 福音書を読みますと、よく、主イエスが悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出す奇跡を行われる場面が出てきます。私たちは「悪霊にとりつかれている人」と聞きますと、何か特別な、気が狂ったような人を思い浮かべるかも知れません。しかし、そうではないのです。悪霊は、実に私たち一人一人の内に住んでいるのです。悪霊は教会の中にこそ強く働きます。なぜならば、私たちを神から引き離すことが悪霊の最も喜ぶことだからです。同時に、主に結ばれた兄弟姉妹の交わりを破壊しようとするのが悪霊の働きです。私たち兄弟姉妹が互いに言葉をもって傷つけ合う時、一番喜んでいるのは悪霊です。

では、私たちの内から悪霊が追い出されたことは、どこで分かるのでしょうか。それは、私たちが語る言葉で分かるのです。ですから、ここでは「新しい言葉を語る」と続くのです。「新しい言葉を語る」と訳されている言葉は、「新しい舌で語る」ということです。私たちが福音を信じ、洗礼を受ける時、私たちは新たに生まれ変わるのですが、そうであるならば、私たちの舌も新しく造り変えられるのです。私たちは一体、体のどの器官で一番罪を犯すでしょうか。それは「舌」ではないでしょうか。ヤコブの手紙3章には次のようにあります。

「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」

 もし、私たちの内から悪霊が追い出されたということは、どこで分かるかと申しますと、私たちが兄弟姉妹を傷つけるような言葉を互いに語るのではなく、むしろ、互いの信仰を励まし、慰め、益となる言葉を語るようになる、そのことによって分かるのです。

W.悪霊を追い出す力

 さらに信じる者は「手で蛇をつかむ」ことができるようになると語られます。もちろん、これは、信仰があると、蛇をつかめるようになる、というような単純な話ではありません。「蛇」というのは、聖書では、神に敵対する勢力を象徴するものです。元々、アダムを誘惑し、この世界を罪の支配の下に置いたのも、蛇の誘惑からでした。その時には、アダムは、蛇の誘惑に打ち勝つことはできませんでした。「神のようになることができる。」これが蛇の言葉でした。しかし、私たちは福音を信じ、新たに造り変えられることによって、蛇の誘惑と戦うことができるようになるのです。それが「手で蛇をつかむ」ということの意味です。
 
さらにそれに続いて「毒を飲んでも決して害を受けず」とあります。毒というのは、もちろん、文字通り、体に害を及ぼす薬物という意味がありますが、ここでの「毒」も象徴的な言葉として用いられているように思われます。先ほど引用したヤコブの手紙の御言葉には「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブ3:8)と言われていました。「毒舌」と言う言葉がありますが、私たちは人に対しても、舌によって死をもたらすような毒を吐いているのではないでしょうか。また人からも毒を吐きだすような言葉によって、心に傷を負うということがあると思います。しかし、福音を信じる人は、人の口から吐き出される毒を飲まされても、それによって害を受けることはないのです。福音は解毒剤あるいは血清のような役割を果たします。私たちは、キリストの血によって、人から受けた心の傷も癒されるのです。毒をもって毒を制するようなやり方ではなく、福音の言葉によって、兄弟姉妹との間に和解をもたらすのです。

 最後に「病人に手を置けば治る」と言われています。これも実際に主イエスや弟子たちが行った奇跡です。しかし、私たちが病人に手をおいても、必ずしも、その人の病が治るといは限りません。にもかかわらず、私たちは福音を伝えることを通して、病床にある人たちの所に罪の赦しをもたらすことができます。福音こそが、本当の意味での癒しをその人に与えるのです。私たちが罪の赦しの福音を、病床で自分の罪に悩んでいる人に伝えることを通して、あるいは、私たちが祈る言葉を通して、福音が見えざる神の御手となって、その人の病んだ心に触れ、その人の心を癒すということが起こるのです。

X.「全世界に行って」

 さて、私たちは、このように私たちの生活にさまざまな影響を及ぼす福音を携えて、全世界に出て行くように命じられています。最後にもう一度、「全世界に行って」という言葉の意味について考えてみたいと思います。確かに私たちの教会の歴史を考えても、今から100年以上も前に、遠くカナダから、宣教師がはるばる地の果てにまで福音を宣べ伝えに来てくれたことが、今の私たちの信仰生活に結びついています。その意味で、私たちも、まだ福音が宣べ伝えられていない所に福音を伝えなければなりません。しかし、「全世界に」という言葉は、どこか遠く離れた場所ということだけを意味するのではないと思います。

私は時々、中部教区の伝道委員会の仕事で名古屋に行くことがあります。中部教区はとても広く、名古屋まで3時間もかかります。名古屋から電車に乗って帰ってくる時、駅に停まる毎に「ああ、岐阜にはあの教会があり、あの先生が伝道をしているのだなあ、福井にはあの教会があり、あの先生が伝道をしているのだなあ、小松にはあの教会があり、あの先生が伝道をして、信徒の方々が教会生活を送られているのだなあ」と考えながら帰ってくるのです。そして、金沢駅に着きますと「ああ、私はこの金沢という地で、白銀教会の牧師として召されているのだなあ。ここが私の遣わされているのだなあ」という思いになります。主から遣わされている責任を感じると共に、福音の宣教を任されていることに対する感謝の気持ちが湧いてくるのです。私は一人ではなく、この地域には信仰を同じくする諸教会が建てられ、信徒が仕え、教師が働いている、そのことを本当に心強く感じます。それと同時に、自らが仕えている教会と、この地域における福音伝道の使命を強く感じさせられるのです。一人の人間が同時にすべての場所に伝道をすることはできません。一人の牧師がすべての教会を牧会することはできませんし、一人の信徒が多くの教会に仕えることもできません。もちろん、私たちは主にある交わりの中で福音を伝道して行くのであって、決して個人プレーではありません。しかし、同時にやはり、私たちに託されている教会、あるいは、場所があると思うのです。皆さんには、皆さんにしか福音を伝えられない場所があるのです。皆さんの背後には、家族を初めとして、学校や職場やいろいろな場所において、皆さんを通してしか、福音を聞くことができない人々がいるはずなのです。

主イエスは「地の果てに至るまで」(使徒言行録1章8節)福音を宣べ伝えるように命じられました。私たちは「地の果て」というと、どこか遠い、海に浮かぶ孤島のような場所を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、そうではありません。むしろ、皆さんがそれぞれ置かれている場所が「地の果て」なのです。主イエス・キリストは、そのように私たち一人一人を遣わされて、世界の隅々にまで福音をもたらすことをお望みなのです。私たちの身近な所に、私たちを通してしか、福音を聞くことができない人々が私たちの周りにも大勢いるはずです。そのことに対する責任感と共に、私のような取るに足りない器でも、福音を宣べ伝えるために用いて頂けることに感謝をして、福音を宣べ伝えたいのです。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

これが私たちのために命を捨てられ、復活し、今も生きておられる主イエスから託された使命です。主のご委託に忠実に応えて参りましょう。

天の父よ!
 あなたは、御前に立つに相応しくない私たちを招き、福音を聞き、信じることを通して、御前に義として下さいますことを感謝致します。どうか、私たちの不信仰とかたくなな心が打ち砕かれ、福音の中に隠された絶大な救いの力を経験することができますように、聖霊によって私たちの心を新たに造り変えて下さい。どうか、この主のご委託に応え、使命を果たして行くことができますように力をお与え下さい。特にあなたの福音を待ち望んでいる人々の所に、私たちが福音を携えて行くことができますようにお導き下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。ア‐メン。