+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教16

ヨハネによる福音書4章1−42節

「教会は公の礼拝を守り」

T.「教会は公の礼拝を守り」
 わたしたちの白銀教会は教会創立100周年を機に、もう一度信仰の原点に立ち返る意味でわたしたちの教会の信仰告白の学びを進めて来ました。今日はその第16回目、

「教会は公の礼拝を守り」

の部分を取り上げたいと思います。日本基督教団信仰告白においては、教会が果たすべき使命が幾つか挙られておりますが、その最も大切な使命として、「公の礼拝を守ること」を挙げています。「公の礼拝」とは何でしょうか。これは教会では「公同礼拝」とも言われます。教会では毎週、日曜日に捧げられる礼拝を「公同礼拝」と呼んでいます。「公同」とは「一般的に共通の、普遍的な」という意味の言葉です。つまり、わたしたちが普段の生活において様々な場所において捧げる礼拝とは区別して、日曜日の朝にすべての信徒が同じ時に、同じ場所に集まって守られる礼拝のことを「公同礼拝」と呼ぶのです。
なぜ、教会では日曜日の朝に公同礼拝が守られるようになったのでしょうか。それは、わたしたちの救い主イエス・キリストが、日曜日の朝早くに、墓の中から復活なさったからです。キリストは今も生きておられます。そして、わたしたち一人一人を御自分の下に来るようにとお招きになります。男も女も、子どもも大人も、社会的な身分に関係なく、すべての国の人々が分け隔てなく教会に招かれるのです。ですから、全世界の教会において、日曜日の朝、礼拝が守られているのです。
わたしたちの白銀教会も、この地において日曜日毎に公の礼拝を守るようにと、主がお建てになられました。分け隔てなく、すべての人を礼拝に招くように命じられています。そのようにして、キリストの愛をすべての人々に伝えるように命じられています。それがわたしたちの教会が果たすべき最も大切な務めなのです。

U.サマリアの女との出会い
 さて、今日はそのことを、特にヨハネによる福音書4章に記された御言葉を通して、ご一緒に考えてみたいと思います。時は昼の十二時頃のことでした。場所はエルサレムの北、ガリラヤへ行く途上にあるサマリアのシカルという町での出来事でした。主イエスは旅に疲れ、その町にある井戸の側に腰を下ろし、木陰で休んでおられました。この地域は昼間は特に日差しが強く、気をつけていないと、知らない間に体から水分が奪い取られて、脱水症状を起こします。日差しが強い日中に、外を歩き回る人はあまりいませんでした。女性たちが井戸に水を汲みに来るのも、朝か夕方の涼しい時間と決まっていたのです。
ところが、そんな暑い中、珍しく一人のサマリア人の女性が井戸に水を汲みにやってきたのです。そのこと自体、彼女が何か特別な事情を抱えている人であることを物語っていました。後で分かりますように、彼女には人には触れられたくない過去があったのです。だから、彼女は人目を避け、誰も水を汲みに来ない、日中の一番暑い時間をわざわざ選んで、水を汲みに来なければならなかったのです。
すると、主イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と声をかけられました。彼女の目に映ったのは、旅に疲れ、喉が渇いている一人の人に過ぎませんでした。彼女は不信に思ったのか、このように答えました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」いかにもそっけなく答えたのです。当時ユダヤ人とサマリア人とは敵対関係にあり、互いに交流を持つことはありませんでした。サマリアとユダヤは元々一つの国でしたが、不幸な歴史のため、北と南に分断され、互いに敵対するようになってしまったのです。彼らは互いに言葉を交わすこともありませんでした。まして、サマリア人が口をつけた容器で、ユダヤ人が水を飲ませてもらうなどということは考えられないことでした。ですから、このサマリア人の女性は驚いたのです。
しかし、彼女が驚いたのには、もう一つ別の理由がありました。彼女は背負っている過去のゆえに、普段人から声をかけられることなどなかったのです。彼女は罪人扱いされ、人々から遠ざけられていました。まして、彼女を必要としているくれる人などいませんでした。人は誰からも必要とされていない、と思うと知らず知らずの内に心を閉ざすようになってしまいます。このサマリアの女のように、人を避けるようになってしまいます。そのようにして人間らしさを失ってしまうのです。しかし、人から言葉をかけられることによって、固く閉ざされていた心が開かれるようになります。人から必要とされることによって、人間らしさを取り戻すことができるのです。恐らく、主イエスが声をかけられたサマリア人の女性はそのような経験をしたのではないでしょうか。彼女の固く閉ざされた心はこの時、段々と開かれて行ったのです。

V.永遠の命に至る水
主イエスは彼女が心の奥深くに抱えている問題を見抜かれて、こう言われました。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

主イエスは彼女の心が渇いていることをご存知であったのです。罪の重荷に疲れ果て、魂が飢え渇いている、そのことをご覧になられて、永遠の命に至る水を与えようと、彼女に言われたのです。すると女は言いました。

「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」

この時、彼女がどんな水を想像していたか、はっきりとは分かりません。しかし、少なくとも、彼女にとって、この場所に水を汲みにくることが苦痛であり、重荷となっていたことは間違いありません。「人と顔を合わせたくない。」彼女は、水を汲みに来るたびに、こんな人生から解放されたいと心から願っていたのでしょう。だから、彼女は「ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい」と頼んだのです。この言葉から彼女の魂が渇いていたことが分かります。
すると、主イエスは彼女に対してこう言ったのです。

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

これはいかにも唐突な言葉のように響きます。なぜ、主イエスはこのように尋ねられたのでしょうか。それは彼女にとって一番触れて欲しくない点でした。彼女は過去に五回も離婚をし、しかも、今一緒に暮らしているのは、正式な夫ではなかったのです。彼女はそのことのゆえに、人々から信用されなくなり、罪人扱いされていたのです。彼女が日中の暑い時間に、わざわざ人目を避けて水を汲みに来たのもそのためでした。彼女は自分がこれまで犯してきた罪に雁字搦め(がんじがらめ)にされていたのです。人には言えないような過去を背負って、それを隠して生きていたのです。そのような過去にとらわれている限り、彼女は本当の意味で、自分らしく生きることはできませんでした。だからこそ、主イエスはこのように言われたのです。主イエスは今、彼女から罪の重荷を取り去ろうとされたのです。だから、彼女が一番触れてほしくない点にわざわざ触れられたのです。彼女の最も奥深くに隠されている罪の問題を明るみに出し、それを取り去ろうとされたのです。主イエスが彼女に与えようとなされた「永遠の命に至る水」とは、一体何だったのでしょうか。それは、主イエスが与えてくださる「罪の赦し」に他なりません。わたしたちは自分の罪を隠し続ける限り、わたしたちの心が本当に満たされるということはありません。罪を隠し続ける限り、わたしたちの心は渇き続けます。しかし、わたしたちが主イエスの前に自分の罪を告白し、心から悔い改め、この方から罪の赦しを受け取る時に、わたしたちの心の中には、決して渇くことのない永遠の命に至る水が湧き出るようになるのです。

W.真の礼拝
ですから、主イエスは彼女に言われました。

「婦人よ、わたしを信じなさい。」

主イエスは御自分を信じ、永遠の命に至る水を彼女が手に入れるように招かれたのです。もちろん、彼女も彼女なりに信仰を持って生きていました。しかし、それはサマリア人としての信仰でした。サマリア人はゲリジム山という山を聖所として、そこで神を礼拝していました。それに対して、ユダヤ人はエルサレムこそ、神を礼拝する唯一の場所であると主張していました。そのことがサマリア人とユダヤ人の対立の原因となっていたのです。ところが、主イエスは

「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…今がその時である。」

と言われたのです。ここでまず注目すべきことは、主イエスが神を「父」と呼んでいることです。「神を礼拝する」と言わずに、「父を礼拝する」と言っていることが大切なのです。サマリア人たちも、ユダヤ人たちも、確かに神を礼拝していました。しかし、彼らは、その神が父であられることをまだ本当の意味では知りませんでした。そのことは神の独り子であられるイエス・キリストを通して、初めて人々が知るところとなったのです。神が人間の罪を赦して下さる慈愛に満ちた父であられるということ、あの放蕩息子の物語に出てくるように、家を出て、放蕩の限りを尽くした息子の帰りを待ち、彼が悔い改めて帰って来た時に、何も言わずに彼を抱きしめ、罪を赦される、憐み深い父であられるということ、そのことをわたしたちに教えて下さったのは、イエス・キリストが初めてでした。
更に、そのことと関連して、ここでは

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」

と言われていることは注目に値します。神を父として礼拝するためには、「霊と真理をもって礼拝する」必要があると言われるのです。わたしたちは「霊と真理もって礼拝する」という言葉を聞きますと、何か、誠心誠意、心をこめて、礼拝すべきだという意味に受け取ってしまうのではないでしょうか。しかし、この言葉はそういう意味ではありません。むしろ、「真理」は、ここでは具体的に、イエス・キリスト御自身のことを指しているのです。そして、「霊」は聖霊なる神のことです。つまり、真の礼拝を捧げるためには、御子なるキリストと聖霊なる神の力によらなければならない、ということを言っているのです。わたしたちは、御子キリストの十字架の死と復活を通して、初めて罪赦され、神の子としての新しい命に復活させられます。イエス・キリストを信じることなくして、神を父と呼ぶことも、礼拝することもできません。そして、わたしたちにキリストを信じる信仰を与えて下さるのが「聖霊なる神」に他ならないのです。ですから、父・子・聖霊なる三位一体の神の働きがなければ、わたしたちは神を神として、正しく礼拝することができないのです。


X.新しい人生:神と人との和解
 彼女は真の救い主と出会うことによって、罪から自由にされました。彼女は神の子としての新しい命をこの方から受け取ったのです。そのことは、彼女の態度から分かります。彼女は水がめをそこに置いたまま町に行き、他のサマリア人たちにメシアに出会ったことを伝えたのです。「水がめ」は彼女の古い生き方を象徴しています。それは彼女にはもう必要なくなったのです。なぜならば、彼女の渇いていた心には、永遠の命に至る水が泉のごとく湧き出るようになったからです。あんなに人に対して心を閉ざし、人々を避けていた彼女が、何と自分の方から人々の所に行って、交わりを求めるようになったのです。
すると、町の多くのサマリア人たちが彼女の話を聞いて、ぞくぞくと主イエスの下に集まってきました。そして、自分たちのところにとどまるようにと主イエスに頼んだのです。そして、彼らは彼女に言いました。

 「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

何ということでしょうか。ユダヤ人を敵として、あれほど憎んでいたサマリア人が、ユダヤ人である主イエスを救い主として信じるようになったのです。これこそ、まさに聖霊がなされる奇跡に他なりません。
キリストはこのように具体的な仕方で、わたしたちの世界に和解をもたらして下さるのです。この物語の中には、よく読みますと、様々な関係に和解がもたらされていることが分かります。まず、罪の中に死んでいたこのサマリアの女は、主イエスを通して、罪赦され、神と和解させられました。それはサマリア人であるこの女性とユダヤ人である主イエスとの和解でもありました。その彼女が今度は主イエスを宣べ伝える器として、同胞のサマリア人の下に遣わされたのです。こうして、彼女は主イエスから遣わされることによって、仲たがいをしていた人々と和解させられたのです。そして、彼女を通して、今度は他のサマリア人たちは主イエスの下に招かれました。こうして、ユダヤ人とサマリア人との間を隔てている民族の壁がこの一人のお方を通して打ち破られたのです。主イエスは御自身を礼拝することを通して、世界のすべての民を和解させることがおできになるのです。キリストの愛はすべての隔ての壁を超えて行くのです。

Y.収獲への派遣
 最後に、主イエスと弟子たちとの対話に注目したいと思います。食べ物を買いに出かけて戻ってきた弟子たちは、主イエスに「食事をどうぞ」と差し出しました。ところが、主イエスは「わたしにはあなたがたに知らない食べ物がある。」その食べ物とは「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われたのです。それはつまり、「伝道」ということです。主イエスは食する暇も忘れて、神の言葉を人々に宣べ伝えました。まさに主イエスにとっては、伝道することが何よりの生きる糧であったのです。それはそれに続く言葉から分かります。

「目を挙げて、畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」

 ここで主イエスは畑の収穫について語っておられます。と申しましても、それは農作物の収穫ではなくて、伝道の収穫のことです。ここで言われているのは、神様の畑のことです。それは具体的にはサマリアのことでした。弟子たちや他のユダヤ人の目から見れば、このサマリアという土地は、異邦人が住みつく土地であり、伝道に最も向かない地域でした。そこからは何の収穫も期待できない、誰も伝道しようと思わない不毛の地でした。しかし、そのような所で、主イエスはサマリアの女を初め、豊かな伝道の実りを収穫することができたのです。そして主イエスは言われました。

「そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 サマリアの地には旧約聖書の時代、数々の預言者が遣わされました。その時には、人々は神の言葉を受け入れず、多くの預言者たちは殺されました。その時には彼らの働きは全く無駄に終わったかのように思われました。しかし、そうではなかったのです。無駄に蒔かれたように思われた種が、今、豊かな実りをもたらしたのです。
これは私たちに大切なことを教えてくれるのではないでしょうか。よく日本の伝道は困難だと言われます。特に、この北陸の地は、浄土真宗が深く根を張っており、キリスト教が受け入れられにくいと考えられています。しかし、それはわたしたち人間の目に映る姿に過ぎません。主イエスの目から見れば、この地は全く違った土地に見えているのです。主イエスはこの地を指して言われます。

 「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待ってい
る。」

 すでにこの地も色づいて刈り入れを待っているのです。この北陸の地にも、わたしたちに先立って、多くの信仰の先達たちがこれまで福音の種まきを続けて来ました。その時は、その種は無駄に蒔かれたかのように思われたかも知れませんが、その種は今、豊かに成長し、刈り入れを待っているのです。わたしたちは自分で労苦しなかったものを刈り入れるために遣わされるのです。伝道とは常にそういうものです。同じように、わたしたちが蒔く種もすぐには芽を出しませんが、後の時代に他の人々が刈り取ることになるのです。「こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」
伝道の収穫をもたらすのは神御自身です。キリストの愛はすべての隔ての壁を超えて行きます。キリストの愛が伝道の実りをもたらすのです。頑なに信じなかった人々が信じるようになる。そのような奇跡が起こるのです。だから、わたしたちには希望があるのです。わたしたちは、この唯一真の救い主イエス・キリストを礼拝することによって一つにされます。主イエスの愛がわたしたちを互いに隔てている壁を取り除き、主にあって一つの民とします。公同の礼拝に与っていることはいかに幸いなことでしょうか。わたしたちも、この教会に与えられた使命を果して参りましょう。

天の父よ!
 あなたは聖霊によって、わたしたち一人一人をこの場に集め、あなたを礼拝する民として召してくださいました恵みを心から感謝致します。今日もまた、主の御言葉を通し、また聖餐を通して、主にあって一つとされる幸いを感謝致します。どうか、わたしたちが自らの罪から自由になり、互いに心を開き、一つの神の民として歩むことができますようにお導き下さい。わたしたちの教会には「公の礼拝を守り続ける」使命が与えられています。どうか、わたしたちの教会に与えられた使命が何であるのか、見失うことがありませんようにお守り下さい。主よ、どうか、信仰の目を持って、神の畑を見ることができますように。すでにあなたの畑は色づき、あとは刈り入れを待つだけであります。どうか、わたしたち一人一人を伝道の業に遣わし、収穫の喜びに共にあずかることができますようにお導き下さい。主よ、どうか、魂の深い悩みの中にある方、病の痛みの中にある方のことを覚えますが、どうか、永遠の命に至る水を与えになられる主イエスがそれらの兄弟姉妹たちと共にいて下さり、生きる力と希望をお与えください。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。ア‐メン。