+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教15

「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり」

エフェソの信徒への手紙4章1−16節

T.新しい年を迎えて

 私たちは新しい主の年2009年を迎えることができました。それぞれいろいろな思いで新しい年を迎えられたことと思います。特に今年は100年に一度といわれる金融危機による不況に襲われ、将来に大きな不安を抱えてのスタートとなり、必ずしも明るい気持ちで新年を迎えられた方たちばかりではなかったと思います。更にそれに加えて、様々な個人的な悩み、不安、そういったものを抱えながらのスタートとなった方々もおられたことと思います。私たちは、一体どこに神の御心があるのかと問わずにはおれないような状況の中に置かれています。

世界は今、時代の大きな転換点に立たされています。これまで安全だと思っていた社会のシステムが大きく揺らぎ、人々の信頼を失いました。今、私たちの社会には大きな変革が求められています。その中にあって、教会は決定的に重要な役割を担っています。なぜならば、教会においてこそ、永遠に変わることのない神の御意志が明らかにされるからです。人々は今、この激動の時代にあって、一体神の御心がどこにあるのかを問うています。すべてが不確かな中にあって、何か確かなものはないのかと救いを求めています。その中で教会だけが語る得ることがあります。私たちはすべてが不確かな時代の中にあって、一つだけ変わることのない確かなことがあると胸を張って言うことができます。それは、この教会を通して世界を救うことが、永遠に変わることのない神の御意志であるということです。時代が変わり、社会が変わったとしても、イエス・キリストを通して示された神の御意志は永遠に変わることがありません。神が世の造られる前から持っておられた御意志――その御意志は世界には隠されておりました――は、二千年前にイエス・キリストを通して、私たちに明らかにされたのです。それは、イエス・キリストの御身体なる教会を通して世界を救うこと、ばらばらになってしまった世界をもう一度、教会を通して一つにすることです。私たちは今こそ、この激動の時代にあって、この変わることのない神の御意志に基づいて、世界を再建することが求められています。すなわち、キリストの御身体なる教会を中心として、この世界を再建することが私たちに求められていることなのです。

そのことを象徴するかの出来事が起ころうとしています。今回の金融危機の発端となったアメリカでは今月、オバマ氏が新しい大統領に就任し、その就任式において、あのリンカーンが大統領就任の宣誓の際に手を置いた聖書を用いて宣誓を行おうとしているのです。南北に分裂したアメリカ社会に統一をもたらすリンカーンの志を継いで、オバマ氏は分裂している世界にもう一度統一をもたらそうとこの危機に立ち向かおうとしています。その人が就任の時に聖書の上に手を置いて宣誓をするのです。これはアメリカの伝統であると言ってしまえばそれまでですが、私は、これは誠に新しい時代の幕開けを象徴的に表すような出来事ではないかと思います。つまり、これからの新しい世界は聖書、すなわち、神の言葉を土台として築き上げられて行かなければならないということです。永遠に変わることのない神の御意志に基づいて、すなわち、教会を通して社会が変革されて行くことが神の御心に適う唯一の道なのです。

U.教会とは何か:「恵みにより召されたる者の集ひなり」

そこで今日は新しい年の初めにもう一度、「教会とは何か」、「教会が果たすべき使命とは何か」ということを、特に信仰告白の言葉を手掛かりとして、聖書の御言葉から聞きたいと思います。私たちの白銀教会は創立100周年を迎えるに当たり、信仰の原点に立ち返る意味で、私たちの教会の信仰告白を順番に学んで参りました。今日はその15回目に当たりますが、今日取り上げるのは丁度、「教会」について告白している部分です。すなわち、

「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり」

という告白です。「礼拝要文集」の3頁を見て頂くと分かりますように、日本基督教団信仰告白においては、ここから第四段落に入り、教会に関する告白が始まります。今日の部分では、特に「教会とは何か」が告白されています。すなわち、日本基督教団信仰告白は、教会とは「主キリストの体」であり、「恵みにより召されたる者の集ひ」と告白しているのです。そこでまず初めに「恵みにより召されたる者の集ひ」という告白について、特に今日与えられましたエフェソの信徒への手紙の4章1−6節までを中心にして考えてみたいと思います。

ここで教会は「恵みにより召されたる者の集ひなり」と告白していますが、この告白は一体何を表現しようとしているのでしょうか。この「召す」という漢字には「呼び出す」、「招き寄せる」という意味があります。これと非常に似た漢字として、「招く」という字があります。聖書では同じ一つの言葉が時には「召す」と訳され、時には「招く」と訳されます。日本語の「召す」という漢字は、ただ招くだけではなくて、特に目上の人からの招きを表すそうです。つまり、権威ある方が「上から命令を下し、その人を捕え、囚人とする」という意味で使われることがあります。パウロはエフェソの信徒への手紙4章1節で次のように語っています。

「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」なさい。

 ここで「招かれた」と訳されている言葉は、むしろ、「召し出す」と訳した方が良い言葉です。なぜならば、ここで招いておられる方は人間よりも権威あるお方、つまり、神だからです。しかも、この方に招かれた者は、拘束力ある仕方でこの方の囚人とされるのです。

 更に大切なことは、聖書で教会とは「主によって呼び出された者たちの集い」、「主によって召し出された者の集い」という意味だということです。すなわち、この信仰告白の言葉が見事に表現しているように、教会というのは、「恵みにより召されたる者の集ひ」なのです。私たちは神から招かれた者たちなのです。つまり、教会は、人々が自主的に集まって始められた集まりではないということです。自主的に集まる会と、招かれる会では、何が決定的に違うのでしょうか。自主的に集まる会の場合には、そこに集まる人々の意志と自主性があって初めて会が成り立ちます。しかし、招かれる会の場合には、私たちの意志や主体性に先立って、招く側の意志、主体性がそこにはあるのです。ですから、招かれた側の人々は、招いた側の主旨を良く理解し、それが何のための会であるのかを良く考えて、行動するということが求められるのです。

先日、ノーベル賞の授賞式がありました。その光景を多くの人が目の当たりにされたことと思います。授賞式と晩餐会がありました。スウェーデンの王室や各界の著名人たちが集まり、そこに受賞者とその妻が招かれました。招かれた人も驚くような豪華な食事が用意され、普段話をすることができないような人々と並んで、とても喜ばしい、光栄な時が持たれました。そこに招かれた一人の教授は、日本には失われているお持て成しの心がそこにあったことに感激したとありました。ノーベル賞の授賞式は分刻みで動かなければならない、過密なスケジュールですが、それは決して堅苦しいことではなくて、招く側は、招かれた人に失礼にならないように誠心誠意、心をこめて、この時のために準備したのです。受賞者を迎えるために、どれだけ多くの人々が働き、心配りをしていたことかと思います。このように私たちが招かれる場合には、私たちの意志に先立って、招く側の意志が先にあるのです。招かれた人は、その招きにふさわしく行動することが求められるのです。

V.主がお与えになられる賞

 私たちは今日、新年初めの礼拝を捧げるためにここに集いましたが、果たして、自分の意志でここに来たのでしょうか。もちろん、そうですけれども、実は目には見えない仕方で、神が私たち一人一人をこの場へと招いて下さったのです。私たち一人一人は神によって招かれた者たちです。私たちは礼拝に来ることを当たり前のように思っているかも知れませんが、敢えて申しますならば、私たちが教会に招かれ、礼拝に招かれることは、ノーベル賞を受賞し、その受賞式や晩餐会に招かれることよりも遥かに光栄なことなのです。神も私たちに輝かしい賞をお与えになるために、私たちを招いて下さっているのです。その賞とは「罪の赦し」と「永遠の命」です。それはお金では買うことができないものです。まさに「恵み」としてのみ与えられるものです。しかも、招かれている私たちは、ノーベル賞を受賞した人たちとは違って、その招きに何らふさわしくない者たちです。むしろ、招いて下さった神の栄光を汚し、神を裏切った者たちです。そういう者たちを神はなおも招いて下さるのです。そのことのために、神がどれほど大きな犠牲を払われたことか、私たちは忘れてはなりません。神は私たちをお招きになるために、御自身の愛する御子の命を犠牲に捧げられました。神は、私たちの罪を贖う犠牲の供え物として、愛する御子の命を十字架において捧げるという仕方で、私たちに賞を準備されたのです。これは誠に不思議なことです。一体どうして、神様はそこまでなさらなければならないのでしょうか。私たちの側には招きを受ける資格も根拠も全くありません。これは人間にはとても理解できないことです。なぜ、御自身を裏切った者のために、これほどの賞をお与えになるのか、その理由は全く分かりません。しかし、それこそがまさに人間の理解を超えた神の愛なのです。

 神がお与えになる賞にも授賞式があります。それは一体何でしょうか。それは洗礼式です。洗礼式において、神は私たちのために備えられた賞をお与えになられるのです。つまり、イエス・キリストを救い主と信じ、告白する者に、「罪の赦し」と「永遠の命」という輝かしい賞をお与えになられるのです。三節以下で、パウロは次のように言っています。

「体は一つ、霊は一つです。…主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ…」
 
ここでパウロは、主に招かれた者たちが一つとされていることを繰り返し強調しています。主に招かれた者たちが一体どこで一つにされるのかと申しますと、具体的には洗礼を受けることを通して一つとされるのです。洗礼を受けることを通して、古き自分がキリストと共に十字架に架けられて死に、罪を赦される。そして、キリストと共に復活させられ、永遠の命を受けるのです。そのことは私たちが洗礼を受けて、キリストの体に結びあわされることによって起こることです。ここで「体は一つ」とありますが、この体とは、具体的には、主イエス・キリストの体なる教会のことを意味しています。洗礼を受けるということは、ただキリストと一つに結び合わされるだけではなくて、キリストの体なる教会の肢として結ばれるのです。そこにおいて、私たちは聖霊を受け、永遠の命を受けるのです。洗礼というのは、ただ神と私たちを結びつけるだけではなくて、同時に人と人とを結び合わせる絆でもあります。「平和の絆で結ばれて」とありますが、洗礼を受ける時、神と平和の絆で結ばれ、そして、主にあって、人間同士も平和の絆で一つに結ばれるのです。もはや男も女もなく、ギリシャ人もユダヤ人もありません。地位の高い者も低い者もなく、世界のすべての人々が主の体なる教会に結ばれることを通して一つにされるのです。それがまさに永遠に変わることのない神の御意志なのです。

W.祝いの食事

 そして、授賞式の後には、祝いの食事が続きます。主は私たちに賞をお与えになった後、素晴らしい祝いの食卓を備えて下さっています。それがすなわち、主の聖餐です。そこに用意されている食事は、この世のどんな御馳走よりも素晴らしい食事です。キリストが十字架上で私たちの罪のために割かれた御自身の肉であり、流された血潮です。それは私たちの内に永遠の命を養う食事です。私たちはこの食卓に一人一人が招かれ、その食事を共にすることを通して一つとされるのです。キリストの体と血とに与る時、私たちの内には聖霊が働き、主にあって私たちを一つにします。パウロは3節で

「霊による一致を保つように努めなさい」

と勧めていますが、「霊による一致」は、まさに聖餐においてこそ保たれるのです。この食卓に与るためにこそ、私たちは教会に招かれているのです。神はまさにこの祝いの食卓に人々を招くことによって、世界のすべての人々を一つになさろうと御計画なさったのです。神様の御計画においては、世界の中心に教会があり、教会の中心には聖餐があるのです。世界を一つに結び合わせる力は教会にあり、教会を一つに結び合わせる力は聖餐にこそあるのです。私たちの世界がもう一度新しく再建されるとするならば、まさにこの聖餐を中心とした世界が再建されなければなりません。十字架と復活の主の下に集められ、一つとされる。その時、世界に真の平和が訪れます。現代社会は人間同士の結び付きがますます希薄になり、個人主義が横行しています。そのような社会の中にあって、私たちは本当に人間と人間を結びつける絆を必要としています。その絆が聖餐にこそあるのです。

X.「教会は主キリストの体にして」

最後に、教会が「主キリストの体」であると言われることを考えてみたいと思います。教会が「主キリストの体」であると言われる場合には、そこには二つの意味が込められています。一つは、教会がキリストの体であるならば、キリストは教会の頭です。キリストと教会は頭と体の関係にあります。つまり、この体は私たちの意志によって動くのではなく、頭であるキリストの意志によって支配され、動かされるのです。

もう一つは、体というものは、元々一つのものとして、この世に生まれてきます。子どもが生まれる時も、後から体を組み合わせるのではなくて、一つの体として生まれてくるのです。キリストの体なる教会の場合も同じです。私たちが一つの教会を造り上げるのではなくて、むしろ、最初から一つの体として存在しているのです。そして、私たち一人一人はこの体の肢として結び合わされるのです。

また母親が子供を生む時には、どうしても産みの苦しみを通らなければなりません。その苦しみは子どもを産むときだけではなく、子どもを育てる中でも続きます。一人の人を育てるということは、大変やりがいのある務めです。子育てには苦労が伴いますが、それ以上に、子育てを通して与えられる喜びの方が大きいのです。子どもの成長は親の喜びです。もちろん、育てられるのは神です。私たちに人を成長させる力はありません。しかし、子どもの成長を目の当たりにし、それに参与することができることは大変やりがいのあることであり、それによって私たち自身が成長させられます。

キリストの御身体なる教会を成長させるということも、それと同じです。キリストはこの地上に御自身の御身体なる教会を産み出すために、産みの苦しみを耐え忍ばれました。それは十字架の死による苦しみです。主はこの苦しみを通って、永遠の命に復活され、この地上に御自身の御身体なる教会を建てられたのです。この産みの苦しみは今でも続いています。この体を頭であるキリストに向って成長して行くためには苦しみが伴います。そのために、私たちは絶えず産みの苦しみを耐え忍ばなければなりません。もちろん、私たち自身に教会を成長させる力があるわけではありません。教会を成長させて下さるのは神です。しかし、私たちはその御業に参与する仕方で、教会の成長に共に与ることができるのです。

 私たちの教会は今年度、「頭であるキリストに向かって成長する教会」という標語を掲げて歩んで参りました。教会が成長するとはどういうことでしょうか。そこには、教会の人数が増える、組織が整えられる、一つ一つの集会が充実するということもあります。しかし、それは何よりも、自分の内に深く根を張る罪との戦いなのです。繰り返し私たちの内に起こってくる罪と戦うことほど骨の折れる仕事はありません。しかし、その戦いを通してこそ、教会が成長させられて行くのです。

そして、突き詰めて言えば、教会を成長させる力は、愛以外にはありません。「自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」愛がある時に初めて心の通う人と人との交わりがそこに生まれるわけでありまして、教会は愛によって成長させられて行く交わりなのです。
最後にもう一度パウロの勧めの言葉を聞いて終わります。

 「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」

天の父よ!
 あなたは世が造られる先から、私たちの救いのために測り知れない御計画を用意していて下さり、愛する御子を通して、あなたの変わることのない御心をお示しくださいました。心から感謝致します。どうか、主に招かれた者として、その招きに相応しく歩むことができますようにお導き下さい。
 私たちの世界は今、様々な不安に包まれています。どうか、この時こそ、真に人を救い、生かすことのできるあなたに目を向け、あなたの御心にそう仕方で世界を再建することができますように、国の政治の責任を負っている指導者たちに知恵と力を与え、主を畏れる心を与えて下さい。また、病の苦しみの中にあり、また側で看病をしている者がおりますならば、どうか、あなたがたが癒しと希望をお与え下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。ア‐メン。