+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-


日本基督教団信告白講解説教14

「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したまふ」

2008年12月7日 ルカによる福音書1章26‐38節

T.「義認」と「聖化」

 私たちはアドベント第二主日を迎えました。私たちはこれまで白銀教会創立100周年を機に、私たちの教会の信仰の土台である日本基督教団信仰告白を順番に学んで参りました。今日はその14回目、

「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、
その御業を成就したまふ。」

という告白を取り上げます。
 皆さんは、この信仰告白の言葉を聞いて、ある一人の人の姿が思い浮かんで来ないでしょうか。実は私はこの信仰告白の言葉を何度も味わっている間、ある一人の人物の姿がどうしても頭から離れませんでした。それは主イエスの母、マリアの姿です。そこで今日は、本来、聖書箇所として選んでいなかったルカによる福音書1章26−38節の御言葉も加えることにしました。なぜ、マリアの姿が思い浮かんできたのか申しますと、ここは信仰告白の中でも、聖霊なる神の御業について述べられるくだりですが、このような聖霊の働きを最初に身に受けたのはマリアであったからなのです。
 そこでまずは簡単に信仰告白の言葉について、若干説明したいと思います。日本基督教団信仰告白の文章を見ますと、この前の所では、神の恵みの選びと、キリストを信じる信仰によって罪赦され、義とされるということが告白されておりました。

 「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。」

「義とされる」ということがどういうことであるのかは、先日、ローマの信徒への手紙4章の御言葉を通して学びましたように、神との本来あるべき正しい関係の中で生きるようにされるということです。神に背を向け、神の下から離れていた人間が、キリストを信じる信仰によって罪赦され、神と和解させられ、神との正しい関係の中で、神と共に生きるようにされる。それが義とされるということの意味です。そのためにこそ、キリストは十字架の贖いの死を遂げ、そして、復活なさったのです。

「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマの信徒への手紙4章25節)
「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」(ローマの信徒への手紙4章26節)

そうすると、今日取り上げます、日本基督教団信仰告白の言葉は、キリストによって、罪赦され、義とされた人が具体的にどのような生活を送るようになるのかを述べていることが分かります。キリスト教の言葉では、罪赦され、義とされることを「義認」と呼びます。神との正しい関係を回復することです。それに対して、義と認められた人間が、その後、神との正しい関係の中で生きることを通して、神の子として新しく造り変えられて行く歩みを「聖化」と言います。言葉を換えて言えば、それは「恵みに対する応答」です。神から恵みを頂いた人は、その恵みに感謝して、その恵みに応えて生きるようになるはずです。それが「聖化」の歩みなのです。感謝の歩みと言っても良いでしょう。

U.恵みに対する応答:聖霊の御業

しかし、「恵みに対する応答」あるいは「聖化」と言う時に、気をつけなければならないのは、それが単に人間の努力や決断によってなされるのではないということです。「恵み」は神から頂くものだけれども、それにどのように応答するかは人間の決断や努力にかかっている、というのではないのです。なぜならば、神の恵みに対して正しく応答することは、簡単なようで、実は難しいことだからです。神の恵みに正しく応答するということは人間の力によってできることではありません。罪赦され、義とされることが神の恵みであるならば、私たちが神の子として造り変えられ、「聖化」されて行くことは尚更、神の恵みによると言わざるを得ません。ですから、日本基督教団信仰告白においては、その点が誤解されないように、わざわざ「この変わらざる恵みのうちに」という言葉を付け加えているのです。聖化の歩みが単に人間の決断や努力によってなされるのではなく、神の恵みの内に進められて行くものであるということが強調されているのです。
更には、この文章の主語が「聖霊」になっていることにも注目しなければなりません。恵みに応答するのが人間であるならば、ここでの主語は本来人間であるべきではないでしょうか。しかし、ここでの主語は人間ではなく聖霊です。

「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」

つまり、私たちが自分で努力して、神の子としてふさわしい者になって行くというのではなくて、聖霊こそが私たちを神の子としてふさわしい者に造り変えて下さると告白されているのです。聖霊が我らを潔めて義の果を結ばせるのです。しかも、聖霊は私たちがキリスト者として一人前に成長するまで導き、後は独り立ちして、自分の足で歩くようになるというのではなく、聖霊は生涯、初めから終わりまで、私たちの信仰生活を導いて下さる主なのです。ですから、日本基督教団信仰告白は「その御業を成就したまふ」と告白しているのです。私たちの内で善き業を始めるのも聖霊であり、それを完成されるのも聖霊なのです。

V.恵みの選び

今、申しあげた意味で聖霊の働きを身に受けた人物は処女マリアでした。私たちは具体的にマリアに対する聖霊の働きに注目して、御言葉に聞きたいと思います。前回の場面では、年老いた祭司ザカリアの下に天使ガブリエルが現れ、不妊の女であったエリサベトが子供を身ごもった、その子は洗礼者ヨハネとなる、その部分を学びました。今日の場面はユダヤ教のエルサレムから、はるか北に遠く離れたガリラヤのナザレという町に舞台を移します。「ナザレ」という町の名前は、旧約聖書では一度も出てこない、全く小さな村に過ぎませんでした。なぜ、一度も出てこないかと言えば、それまで誰も有名な人物を輩出していなかったからです。その町の名を一躍有名にし、全世界に知らしめたのは、処女マリアでした。
しかし、マリアという人物はそれほど傑出した人物であったのでしょうか。不思議なことに、マリアの人柄については、一言も聖書は述べていないのです。マリアが特に正しい人であったとか、心の清い人であったとか、信仰深い人であった、などということは一言も書かれてはおりません。ただ聖書に書かれているのは、この女性が「ダビデ家のヨセフという人のいいなづけである」ということだけなのです。敢えて言えば、マリアが選ばれた理由は、彼女がダビデ家出身のヨセフのいいなづけであったという以外にはないのです。なぜ、ダビデ家出身のヨセフのいいなづけであるということがそれほど大切なのでしょうか。それは旧約聖書において、イスラエルの王ダビデの子孫から、イスラエルを永遠に治める王が生まれると約束されていたからなのです。32節以下。

「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

こうしてダビデ家出身のヨセフのいいなづけであるマリアからイエスが生まれることによって、旧約聖書に記された神の約束は実現したのです。マリアは決して特別な人であったから、神に選ばれたわけではありませんでした。それは言葉の厳密な意味で「恵み」であり、「神の恵みによる選び」であったのです。ですから、天使は彼女のところに来て、次のように言いました。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」

ここでは繰り返しマリアが選ばれたのはただ神の恵みであることが強調されています。

W.聖霊による聖化

しかし、マリアはこの神様の恵みをきちんと受け留めるには余りに小さな人間でした。ですから、彼女は天使の言葉に対してこう答えたのです。

「どうしてそんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

マリアも最初は、神の恵みに対して正しく応答することができなかったのです。マリアもまた、ザカリアと同じように、神の大いなる御力を人間の小さな尺度に押し込めて理解しようとしたのです。私たちはどうしてもマリアを特別視してしまう傾向があります。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と結果的には答えていますから、どうしてもマリアを信仰深い、清らかな女性として見てしまう傾向があります。しかし、本当はそうではなかったと思います。マリアも私たちと何ら変わることがない一人の小さな罪人に過ぎませんでした。私たちはむしろ、そのようなマリアに対して、天使が語った言葉の方に注目しなければなりません。35節。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」

「包む」という言葉は「影で覆う」という意味があります。旧約聖書には、罪ある人間を神が御翼の影の下に覆ってくださるという表現があります。そのままでは神の御前に滅ぶべき罪ある人間を、神は御翼の影で覆って下さり、神の裁きを免れさせて下さるという意味です。ですから、「あなたを包む」というのは、「あなたの罪は赦される」ということなのです。マリアに聖霊が下さったのは、処女降誕の奇跡のためだけではありません。むしろ、それ以前に、罪ある人間が罪を覆われて、神の御子を胎に宿すことができるように清められるのです。それこそがまさにマリアの身に起こった奇跡でした。

X.「神にできないことは何一つない」
そのことは、ザカリアとマリアの身に起こった出来事の違いを理解する上で重要になってきます。私たちはルカによる福音書をずっと読んできますと、ザカリアもマリアも天使の言葉に同じように応答していることが分かります。ザカリアは自分たち夫婦が年をとっているということを理由に、天使に対して、「何によってわたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えました。「そんなことはあり得ない。人間の常識からしてありえない」と天使に答えたのです。その結果、ザカリアは口が利けなくなってしまいました。
そうであるならば、マリアは「男性と関係したことのない女性が子供を身ごもるなどということがありえましょうか。そんなことは人間の常識ではありえません」と答えておりながら、どうして、マリアはザカリアと同じように口が利けなくならなかったのでしょうか。皆さんは、この二人の中にどういう違いを見出すでしょうか。マリアが女性であったからでしょうか。それとも、マリアがザカリアよりも信仰深かったからでしょうか。聖書はそのことについて何も語りません。
私もこの箇所を読んでその理由がずっと分かりませんでした。しかし、ルカによる福音書の著者がこの二つの記事を並べることによって、この二つの出来事の中に明らかに違いがあることを強調していることは間違いありません。一体何が違うのでしょうか。一つ考えられることは、マリアが身ごもった子どもが他ならぬ神の御子イエス・キリストであったということです。そこに大きな違いがあるのではないでしょうか。ザカリアとエリサベトに与えられる子は洗礼者ヨハネです。救い主に道を備えるために遣わされた者です。最後の預言者です。洗礼者ヨハネは、どちらかというと旧約聖書の時代に属する人です。しかし、マリアに与えられる子は、旧約聖書が約束していた救い主です。この方の誕生と共に全く新しい時が始まったのです。今こそ恵みの時が始まったのです。神が人となって、私たちの世界に来られたのです。マリアはまさに神の御子を身ごもることによって、自らの罪が覆われ、主がわたしと共におられるということを身をもって経験した最初の人物となったのです。
天使はマリアに与えられる子供の名前を告げました。

「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」

この名前自体がマリアにとっては一つのしるしとなっているのです。つまり、「イエス」という名前は「主は救い主」、「主は民を罪から救う」という意味を持っているのです。マリアの胎に宿った子は、マリア自身をも罪から救って下さる救い主なのです。マリアは救い主を身ごもることによって、最初からこの方の十字架の贖いの下に身を置くことができたのです。マリアは聖霊の力によって、罪赦され、義とされ、潔められたのです。一人の死すべき罪人が、こうして、永遠の命を内に宿すことができたのです。彼女の口が利けなくならなかったのは、彼女の罪が聖霊の力によって覆われたからです。
ここでは、わたしたちキリスト者の身に起こることが、すべてに先立って、マリアの身に起こっているのです。「神にできないことは何一つない」という言葉は単に処女降誕の奇跡だけを意味しているのではありません。むしろ、このような小さな罪深い女性をも神は罪から救い、潔め、神の御子を宿す器と生まれ変えさせることができるということを意味しているのです。それはまさに、このような小さな罪深い人間と共に神がいてくださる、という経験でした。マリアに与えられたのは、そのような恵みでした。

Y.マリアの聖化
最初は神の御心を受け止めきれず、不信仰に陥ったマリアも、聖霊の力によって生まれ変わったのです。そのことはその後に続く彼女の言葉がはっきりと示しています。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

自らを神として生きていたような人間が、「わたしは主のはしためです」と言って、主に仕える僕に変えられる。神に逆らい、神に背を向けていた人間が、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、神の御言葉に聞き従う人間へと変えられる。これこそ、まさに聖霊の力によらなければ起こり得ない奇跡です。マリアは神の御子を胎に宿すことによって罪赦され、聖化される道を歩み始めていたのです。聖化の道は神の御言葉に従順に聞き従うことから始まります。恵みに対して、正しく応答する人間がここで生まれたのです。神は自らの聖霊の力によって、神の御言葉に従順に聞き従い、神の恵みに正しく応答する人間を創造されたのです。
ローマの信徒への手紙8章29節には、

「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものとしようとあらかじめ定めておられました。」

とあります。これは大変興味深い表現だと思います。神はキリストを通して、私たちを救い、私たちも神の御子であるキリストの姿に似たものに造り変えて下さるのです。キリストを信じ、洗礼を受けた人は、キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に新しい人に復活させられます。幼子のように生まれ変わるのです。生まれ変わった私たちは、キリストに似たものとして、段々に成長して行くのです。その歩みを導くのが聖霊であり、その歩みが「聖化」の道なのです。
普通は子どもが親に似るのではないでしょうか。子どもは成長するに連れて、親の姿に似てきます。果たして、主イエスの面立ちが果たしてマリアに似ていたかどうかということは定かではありません。ヨセフに似ていなかったことは確かでしょう。
しかし、ここでは実に不思議なことが起こっているのです。普通、私たちが経験するのとは、全く反対のことが起こっているのです。つまり、子が親の姿形に似るのではなくて、むしろ、子どもを身ごもった親の方が、胎の子の姿に似たものとして造り変えられるということが起こっているのです。マリアは神の御子を身ごもることによって、反ってマリアの方がキリストに似た者として造り変えられて行く、ということが起こっているのです。イエス・キリストがマリアに似るというよりは、むしろ、マリアの方が、従順な神の御子に似た者として造り変えられ、神に従う者となっているのです。

Z.私たちの聖化
私たちもこの聖霊の働きの下に置かれています。マリアに与えられた恵みは、私たちにも与えられます。私たちもキリストを救い主と信じ、洗礼を受ける時、マリアに働いた聖霊が私たちの内にも働き、キリストが私たちの内に宿って、私たちもキリストと同じ姿に変えられて行くのです。神に背く罪を赦され、罪を潔められ、神の御前に義とされ、神と和解させられ、神との正しい関係の中で生きるようになる。その中で私たちは神に従順に従う子へと変えられて行くのです。聖霊の力によって、御子の姿に似た者へと変えられて行きます。すなわち、神の御言葉に従順に従う人間へと変えられて行きます。聖霊の御業に自らの身を明け渡す人間へと変えられて行きます。そこから、霊の結ぶ実である「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が生まれてきます。すべては神の御言葉に従順に聞き従うことから始まります。
最後に使徒パウロの言葉を聞いて終わります。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」(ガラテヤの信徒への手紙5章24−26節)。

天の父よ!
 あなたは私たちを罪から救うために大切な独り子を世にお与えくださいました。マリアに与えられた恵みは私たちにも御言葉を通して与えられることを信じます。どうか、聖霊が豊かに下り、あなたの恵みを正しく受けとめ、正しく応答する者として下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。ア‐メン。