+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教13

「ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」

詩編49編8−9節、ローマの信徒への手紙3章21−26節


T.聖徒の日(永眠者記念日礼拝)の意味

 本日は、聖徒の日(永眠者記念日)を覚えて、礼拝を捧げています。私たちの教会では、毎年、11月の第一日曜日の礼拝を「聖徒の日(永眠者記念日)」の礼拝として守っています。「永眠者記念日」という呼び方は、すでに永遠の眠りについている人々を記念する日ということです。確かに聖書を読みますと、人間が死ぬことを「眠りにつく」という表現で言い表している個所が随所に見られます。しかし、厳密に言いますと、キリスト者にとって死は「永遠の眠り」ではありません。聖書の信仰によれば、死は永遠の眠りではなくて、必ずもう一度、その眠りから目覚めさせられる時が来るのです。ですから、敢えて言えば、死は「永遠の眠り」ではなく、「仮の眠り」なのです。キリストを信じて眠りについた人々は再び目覚めさせられ、「永遠の朝」を迎えるという方が正しいのです。説教の後で歌う讃美歌575番の3節には次のようにあります。

「いのちの終わりは いのちの始め。

おそれは信仰に、 死は復活に、

ついに変えられる 永遠の朝

死は復活についに変えられる永遠の朝」

ここでは「死は復活に変えられる永遠の朝がやってくる」と言われています。「永遠の朝」とはどういうことでしょうか。それは再び夜がやって来ないということです。再び眠るにつくことはない永遠の朝がやってくる。つまり、もはや、死を経験することがない永遠の命に復活させられる。それがキリストを信じる者に与えられる希望なのです。
 しかも、それはただ終わりの日に起こる出来事として言われているのではありません。そうではなくて、私たちの信じるところによれば、この世の人生の中でキリストに出会い、キリストを真の救い主として信じ、洗礼を受けた人は、その洗礼を受けた時に、キリストと共にすでにそこで古い自分に死んでいるのです。そして、キリストと共に永遠の命に復活させられている。私たちはこの世の人生の中ですでに一度死を経験し、そして、永遠の命に生き始めている。これが私たちの信じるところであります。ですから、先ほど礼拝の初めの招詞において読んで頂いた御言葉には次のようにありました。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 (ヨハネによる福音書11章25−26節)

 そのように私たちに問われているのです。この言葉を聞いて「そんな馬鹿なことがあるか」と思われるかも知れません。実際、キリスト教信仰において、一番の躓きは、復活ではないかと思います。「現にクリスチャンであっても、他の人と同じように死んで行くではないか」と反論される方がおられるかも知れません。確かにクリスチャンであっても、必ず死んで行きます。しかし、聖書で「死」というのは、単に私たちのこの世での寿命が尽き、心臓が止まり、肉体が滅びることを意味するのではありません。むしろ、聖書でいう本当の「死」とは、それよりももっと恐ろしいことなのです。それは、「神から永遠に捨て去られる」という死です。神から見捨てられ、神から離れて、永遠に捨て去られること、これが聖書でいう「死」なのです。聖書では、人間が神に「罪」を犯した結果、死がこの世に入り込んできたというのです。死がこの世に入ってきたのは、私たちが罪を犯した結果に他ならないと言っているのです。つまり、聖書で「罪」と「死」とは、同じことを意味しているのです。「罪」即「死」であります。なぜなら、「罪」というのは、神に背を向けることだからです。神に背を向けて、自分勝手な方向に歩んでいく。これが聖書で言う「罪」に他なりません。しかし、元々、人間に命を与えて下さったのは、神でありますから、私たち人間は神ときちんと向き合う時にのみ、生きて行くことができるのです。しかし、神に背を向けて、自分勝手な方向に歩んで行くということは、自ら死を選びとって、死のどん底に落ちて行くようなものです。ですから、聖書の見方からすると、この世にあって、心臓は動いており、生きてはいるけれども、神から離れた生活を送っている人は、神の目から見るならば、すでに失われた人間であり、死んだ人間なのです。それとは全く反対に、神ときちんと向き合い、神に結ばれている人は、たとえ、その肉体は滅び、私たちの目の前からその肉体が取り去られたとしても、神と共に生き続けるのです。それが永遠の命に他なりません。
 ですから、先ほど申しましたように、この世の人生の中で、キリストと出会い、洗礼を受けた人というのは、いわば、神に背を向けた人がきちんと神と向き合って生きるようになるということです。それはつまり、その人がすでにこの世の人生の中で、永遠の命を生き始めているということに他ならないのです。キリストに結ばれて死んだ人々は、たとえ、私たちの目には見えなくても、キリストと共に今も生き続けています。今も天にあって、神の御前に礼拝を捧げています。先ほど歌いました讃美歌390番の4節には、次のような歌詞が歌われておりました。

「世にある民も 去りし民も

共にまじわり、神をあおぎ、
 
永遠の勝利を 待ちのぞみて、

イェスの来ますを せつに祈る。」

私たちは生けるキリストを礼拝することを通して、今は天にある兄弟姉妹たちと一つに結び合わされることができるのです。それがすなわち「聖徒の交わり」ということに他なりません。私たちは、この「聖徒の日」の礼拝に限らずに、毎週の礼拝において、この聖徒の交わりに与ることを許されているのです。
 そのような理解に基づいて、今回の聖徒の日の礼拝から、これまでのように世を去った信仰の先達たちの写真をこの礼拝堂の前に掲示しないことにしました。これは実は役員会におきましても、長年考えてきたことでありまして、非常に勇気の要る決断でもありました。何事も、長く行われてきたことを変えるということは大変勇気の要ることでありますし、特にこの事柄に関しては、本当に慎重に進めなければならないと皆が自覚しておりました。しかし、私たちはこのことを議論する中で、礼拝とは一体何かということを深く考えさせられたのです。礼拝というのは、目には見えない生ける神を拝む場であり、時であります。そして、目には見えない神を拝むということは、私たちがこの場において、死から復活なさったキリストと出会うということであります。死から復活なされたキリストと今この場所で、目には見えない仕方で出会うことができる。まずそのことを信ずるかどうかが問われています。そのことを前提とした上で、なお言えることは、この復活のキリストを通して、私たちはすでに天にある兄弟姉妹たちとも、この礼拝を通して、共に生ける交わりに与ることができるということです。礼拝というのは、ただ聖書のお話を聞きに来る、講演会のような場所ではありません。礼拝においてはもっとすごいことが起こっているのです。生けるキリストを通して、礼拝においては天と地が一つに結び合わされているのです。私たちは礼拝の度毎にすでにキリストと結ばれて死んで行った兄弟姉妹たちと、この場において生ける交わりに与ることができるのです。これは聖徒の日の礼拝に限らず、毎週の礼拝において、私たちが経験していることなのです。私たちは「目には見えない教会を信じる」と告白しています。つまり、ここに集まっている人だけが礼拝をしているのではなくて、すでに天にある兄弟姉妹たちも共に礼拝を捧げている、教会というのは、もっと広い広がりを持ったものであるということです。私たちは礼拝に集う度毎に、そのことを深く心に留めたいのです。私たち一人一人がそのような主にある聖徒の交わりに与るように招かれています。

U.「ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」

 さて、私たちは白銀教会創立100周年を迎えるに当たり、信仰告白の学びを続けて参りました。信仰告白というのは、私たちの教会が拠って立つ土台です。言葉を換えて言えば、私たちの教会が何を信じているのか、それを示す旗印でもあります。今日は、日本基督教団信仰告白の講解説教の第13回目、

「ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。」

という信仰告白を取り上げて説教を致します。
 この告白は、日本基督教団信仰告白の中でも最も中心に位置する大切な告白であると言うことができます。ここでは私たちのプロテスタント教会にとって大切な信仰である「信仰義認」ということが告白されています。ある人は、この信仰告白のことを指して、「教会がそれによって立ちもし、倒れもする、重大な信仰告白である」と言いました。これは平たく言えば、「わたしたちはただキリストを信じる信仰によってのみ救われる」ということです。私たちが救われるためには、何か善い行いをしなければならないとか、修業を積んで、信心を深めなければならないというのはなくて、ただキリストを信じる信仰による以外に道はないのです。そして、ここでは「救い」ということが、「罪を赦して義とする」という言葉で言い換えられています。私たちが救われるということは、言葉を換えて言えば「私たちの罪が赦され、義とされること」に他ならないのです。これは一体どういうことでしょうか。今日はそのことをローマの信徒への手紙の御言葉に基づいて考えてみたいと思います。私たちはこれまでローマの信徒への手紙を続けて学んで参りましたが、この手紙は聖書の中でも最も中心的な場所に位置する書であるということができます。そして、この手紙の主題は一言で言えば、今日取り上げている信仰告白の言葉によって表わすことができます。

「ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。」

 これこそ、パウロがローマの信徒への手紙全体を通して言おうとしていることなのです。

V.福音=神の力

 パウロはこのメッセージをキリストの福音と呼びました。「福音」とは「良き知らせ」、”Good News”であります。パウロはこの福音について、ローマの信徒への手紙1章16節において次のように言っていました。

 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

 ここでは「福音」が、信じる者すべてに救いをもたらす「神の力」である、と言われています。つまり、福音は単なる言葉ではなくて、すべてのことを救うことができる「力」であると言っているのです。ここで「力」と訳されている言葉は、元の言葉を見てみますと「ダイナマイト」という言葉の語源になった言葉です。「福音」というのは、ダイナマイトのような凄まじい破壊力を持った力であると言っているのです。
人間は生きて行くために様々な力を利用することを学んできました。ダイナマイトの発明もその一つでしょう。様々な力を利用することによって、より豊かな生活を営もうと努力してきたのが人類の歴史です。科学技術の力によって、今ではどの家庭の机の上にもパソコンが置かれる時代になりました。家にいながら、全世界が結ばれるネットワークが生み出されました。このようなことは誠に素晴らしい科学の力だと思います。
しかし、中には私たちの思いのままにならない力もあります。病気の力がその一つでしょう。時に、私たちの力ではどうすることもできない病気の力に悩まされることもあります。その中にはまた、老いの力も含まれているでしょう。日々、衰えて行く中で、何とか健康を保とうと一生懸命努力します。老いの力と闘おうとするということがあると思います。そして、その背後には死の力があります。未だかつて、死を克服した人はいません。どんなに偉大な人であったとしても、死の力に打ち勝った人は誰一人存在しないのです。自らの力を誇る格闘家のような人であっても、死の力にだけは勝つことはできません。どんなに頭の良い優れた学者であっても、自分の死の問題だけは解決することができません。お金の力で何でもできる。そう思っているお金持ちであっても、死に打ち勝つことだけはできません。私たち人間は自分たちの力をどんなに誇ったとしても、死の前には、結局は全くの無力であるということを証明する以外にないのです。死は私たちの人生において、究極的な、最後の勝利者である、最後に笑うのは死であるとさえ思われるのです。
 しかし、私たちは、どうしても私たちの力では動かすことのできない死の力よりも、もっと恐ろしい力があるということを聖書を通して知らされるのです。聖書の中には、次のような言葉があります。

「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ人の信徒への手紙10章31節)

 ここでは「死に落ちるのは、恐ろしいことだ」と言っているのではありません。むしろ、それよりも、生ける神の手に落ちることの方が遥かに恐ろしいと言っているのです。そうなのです。私たちにとって、本当に恐ろしいのは、死の力ではないのです。死の力よりももっと恐ろしい力がこの世には存在するのです。それは生ける神の力です。このお方は、御自身の御手の中に、私たちの生も死もすべて握っておられる方です。死の力すらも、この方の御手の内にあるのです。そのことがキリストの復活を通して、はっきりと証明されたのです。死は最後の勝利者ではない。キリストの復活を通して、神は死に勝利されました。死の力をねじ伏せられ、御自身の支配の下に死を置かれました。まさに神の力はダイナマイトのように、死の力を内側から粉砕したのです。そうだとするならば、私たちがこの生ける神の手に落ちるのは、何と恐ろしいことでしょうか。この方が私たちの味方であるならば、これ以上心強いことはありません。もはや何ものも恐れる必要はありません。

W.神を敵に回すことの恐ろしさ

 しかし、もし、万が一、神を敵に回すならば、どうでしょうか。それはどんな巨大な、力の強い格闘家を敵に回して、その人と勝負するよりももっと恐ろしいことです。「もし、私たちが神を敵に回すならば…」。この「もし…」は、「もし…」では済まされないのです。聖書によれば、私たちはすでに現実に神を敵に回してしまっているのです。聖書は、神が私たちの敵である、私たちが神にとって敵であるとはっきりと言っています。聖書で「罪」とは、「神を敵に回すこと」に他なりません。神ときちんと向き合わずに、神に背を向けて生きている。神を最後の勝利者として認めるのではなく、あたかも自分が人生の勝利者であるかのように振舞っている。勝利者の栄冠を神に捧げるのではなくて、私たちがそれを奪ってしまい、自らが人生の勝利者であるかのように振る舞ってしまっている。神の勝利を讃えるのではなく、自らの成功、富の力、人間の知恵や力を誇っている。あたかも、自分が神であるかのように振舞っている。人に対しても、自分の思いのままにならない人を傷めつけ、自分の意のままに操ろうとする。それこそがまさに聖書でいう「罪」に他ならないのです。私たちはこのような生き方をすることによって、神を敵に回してしまっているのです。そのようにして、最も恐ろしい方を敵に回してしまったのです。聖書には、はっきりと私たちが「神の敵」であると書かれています。それは私たち自身の責任なのです。私たちの方が先に神を敵に回し、宣戦布告をしたのです。人類の歴史はまさに神に対する戦いそのものではなかったでしょうか。人間が神の座を奪おうとする。その連続が人類の歴史でした。そして、この神に対する戦いは、まさにキリストの十字架においてこそ、その極みに達したのです。人間が神に敵対する者であるということが、キリストの十字架の死を通して、否定しがたい仕方で明らかにされました。人間は愚かにも、神の御子を十字架につけて殺してしまったのです。それほどに、自らを神としようとしたのです。真の神であられる方を十字架に架けて殺してしまったのです。人間の罪というのは、これほどに深いものなのです。

X.神との和解

 ところが、聖書はここで私たちに驚くべきことを語るのです。つまり、神を敵に回し、神の御子をすら十字架にかけて殺してしまう、愚かな人間に対して、神は裁きを下すのではなく、むしろ、御自身の方から和解の手を差し伸べて下さったのです。宣戦布告したのは私たちの方でしたが、神の方が和解を求めて歩み寄って来て下さる。しかも、他ならぬ、御子の十字架の死を通して、私たちと和解して下さるというのです。これはもはや私たちの理解を超えたことです。人間は自ら神に敵対し、御子を十字架にかけて殺してしまった。それは人間の罪から出た悪の業です。しかし、神はこの人間の罪から出た最悪の行為をも用いて、私たちを救おうとなさった。御子に私たちの罪の責任を代わりに背負わせ、その命を私たちの罪を償う供え物として捧げさせたのです。このキリストの贖いの死によって、神は私たちの罪を赦し、神の御前に義として下さるのです。これが今日の御言葉を通して、私たちに告げられている福音です。

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 イエス・キリストの十字架の福音の中には、死を打ち破る、ダイナマイトのような神の力が隠されています。神は死にも打ち勝つ力を、この「福音」の中に隠されました。それは私たちの目には小さなことのように映ります。愚かなことのように映るかも知れません。しかし、神はこの小さな「福音」の言葉の中に、ダイナマイトのような力を隠されたのです。神はこの福音を通して、私たちの罪を赦し、永遠の命をお与えになろうとしておられるのです。私たちはただキリストを信じずる信仰によってのみ罪赦され、神の御前に義とされる。この神の招きに応えて歩んで参りましょう。

全能の父なる御神!
 罪に死んでいた私たちが今、御前に礼拝を捧げ、聖徒の交わりに連なることが許され、感謝致します。あなたはあなたの御前から失われていた私たちを、御前に連れ戻すために、御子を世に遣わし、その十字架に死によって、私たちを贖い出し、その復活によって、私たちに永遠の命をお与え下さったことを感謝致します。どうか、キリストと共に死んだ者は、またキリストと共に復活させられ、永遠の命に生きるとの約束を信じて歩むことができますように。この世にあっては、別れの悲しみを経験致しますが、私たちは天にある者も、地にある者も、主にあって一つに結ばれていることを固く信じることができますようにお守り下さい。死によっても取り去られることのない真の慰めを私たち一人一人にお与え下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。ア‐メン。