+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

2008年10月5日 日本基督教団信告白講解説教12

エレミヤ書1章4−8節、ローマの信徒への手紙1章1−7節

「神は恵みをもて我らを選び」

T.日本基督教団信仰告白の三段落目

 私たちの白銀教会は、教会創立100周年を迎えるに当たり、これまで信仰告白の学びを続けて参りました。それは、私たちがもう一度、信仰の原点に立ち返り、私たちの教会は何によって立っているのか、そのことを再確認し、信仰の一致を固くするためであります。本日は日本基督教団信仰告白の講解説教の第12回目、

「神は恵みをもて我らを選び」

という告白を取り上げたいと思います。
 先ほども礼拝の中で告白致しましたが、皆さんのお手持ちの「礼拝要文集」の3頁をお開き頂きますと、そこに「日本基督教団信仰告白」が印刷されています。それを見ますと、日本基督教団信仰告白は大きく分けて4つの段落から成り立っていることが分かります。第一の段落は聖書についての告白がなされています。第二の段落は、私たちが信じている神がどのような神であり、またその神が与えて下さる救いとはどのような救いであるかということが語られています。そして、第三段落では、キリストを通して与えられる救いが、どのようにして、この私の救いとなるのか、言葉を換えて言えば、私たちがどのようにして信仰を持つようになるのかということについて語られています。そして、最後の第四段落は、教会についての告白がなされています。
 このように見ますと、今日取り上げます告白は、第三段落に属していることが分かります。ここでは平たく言えば、「聖書で語られている救いが、どのようにして私の救いとなるのか」ということが語られているのです。実際に多くの人たちがこの点に関して、次のような疑問を持っているのではないでしょうか。「聖書で語られていることはよく分かる。イエス様が私たちの罪のために十字架に架かり、死んで下さったことも話としてはよく分かる。しかし、そのことがなかなか自分のこととして捉えることができない。イエス様が自分の罪のために死んで下さったという実感がなかなか湧いてこない。」そのような疑問をよく耳に致します。そのような疑問に対して、日本基督教団信仰告白は、この第3段落において、明確な答えを与えてくれるのです。つまり、ここでは「私たちは一体どうしたら信仰を持つことができるのか」ということが語られているのです。

U.聖霊なる神の御支配の下に置かれた恵みとしての信仰生活

そういう視点で改めて、この第3段落を読んでみますと、非常に大切なことに気付かされます。この第3段落の文章の主語に注目して頂きたいのです。この段落の主語は「人間」ではなくて、「神」なのです。この段落は明確に「神」を主語として始まっているのです。「神は恵みをもて我らを選び…」と始まっています。先ほども申しましたように、この第3段落からは、私たちの信仰生活について語る件です。ここでは私たちがいかにして信仰を得るようになるのかが問題となるわけですから、そこでは当然「私たちは」という言葉が主語となることが予想されるのです。しかし、私たちの信仰生活について語っている第3段落の文章の主語は、最初から最後まで一貫して「神」なのです。続く文章も同じです。

「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したもふ。」

ここではいわゆる救われた信仰者が歩む「聖化」の歩みについて語られているのですが、そこにおきましても、主語は私たち人間ではなくて、聖霊が主語となっています。そのことが実は非常に重要な点なのです。なぜなら、私たちはともすると、信仰というのは、私たちの努力や決断によって得るものだと勘違いすることが多いからです。しかし、実際には、信仰は人間の努力や決断によって得ることのできるものではありません。そうではなくて、信仰は首尾一貫して、神から与えられるものなのです。私たちの信仰生活の出発点は、私たちが神に従う決断をした時点にあるのではなくて、むしろ、神の側の選びにその出発点があるのです。そのことを日本基督教団信仰告白は明確に語っているのです。すなわち、私たちが神を選んだのではなくて、私たちの決断に先立って、神が私たちを選んで下さったのです。その選びの結果、私たちに「恵み」として信仰が与えられたのです。ですから、この第3段落においては、私たちの信仰生活を語る場面において、この信仰生活は終始、聖霊なる神の御支配の下に置かれていることが告白されているのです。
 さて、それと関連して、もう一つ、この第3段落を読んで、すぐに気付かされることがあります。それはこの第3段落においては、「恵み」という言葉が2回も繰り返して用いられているということです。

「神は恵みをもて我らを選び…」
「この変わらざる恵みのうちに…」

更に教会について語られる第4段落においても、「恵み」という言葉が出てきます。

「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり。」

皆さんには注意深くこの信仰告白の言葉を読んで頂きたいのですが、日本基督教団信仰告白において、これまで一度も「恵み」という言葉は出てまいりました。ところが、私たちの信仰生活、すなわち、教会生活について語られる所になると、「恵み」という言葉が繰り返し用いられるようになるのです。それはつまり、「私たちの信仰生活は、すべて神の恵みによって与えられているものである」ということを語ろうとしているのです。
 ここにプロテスタント教会としての信仰が明確に打ち出されています。私たちのプロテスタント教会においては宗教改革以来、「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」ということが繰り返し強調されて来ました。これは「宗教改革の三大原理」と呼ばれています。すなわち、私たちはただ聖書の御言葉を通してのみ、イエス・キリストを信じる信仰を与えられます。そして、キリストを信じる信仰によってのみ、神の恵みを手に入れることができます。その神の恵みによってのみ、私たちは救われることができるのです。ですから、「聖書のみ」、「信仰によってのみ」、「恵みによってのみ」、私たちは救いに至ることができるのです。

V.パウロにおける恵みの理解

 さて、本日は、ローマの信徒への手紙の冒頭の部分の御言葉を説教の御言葉として選びました。それは理由のないことではありません。私たちは繰り返し、ローマの信徒への手紙を学んで参りましたが、ある人の言葉を借りて言えば、要するにローマの信徒への手紙というのは「神の恵みを高らかに賛美する歌」であるのです。ローマの信徒への手紙は、何か難しい神学議論をしている手紙ではなくて、「神の恵みを高らかに誉め讃える讃美の歌」、すなわち「恵みの讃美」なのです。パウロは生涯「恵みを宣べ伝える説教者」と言われる所以です。ある人がパウロについて次のように語っています。

 「この使徒(パウロ)の人生全体は、一つの目標を目指していたのです。すなわち、神を敬う者にも、神を敬わない者にも、『ユダヤ人にもギリシア人にも』、この恵みを差し出し、すべての人間とすべての被造物をこの恵みの中に招き入れるという目標を目指していたのです。」

パウロは生涯恵みを宣べ伝える説教者でありました。そのことはパウロが書いたどの手紙を読んでも明らかでありますが、そのことが最もはっきりと表れているのが、このローマの信徒への手紙においてなのです。この手紙の内容はまさに最初から最後まで「恵みの讃美」に他なりません。
 しかも、パウロにとって「恵み」というのは、私たちが安易に口にする場合のように、何か漠然とした、抽象的な事柄ではなく、いつも具体的にある出来事と結びついていました。それはより正確に言えば、「神の選び」と結びついていたのです。パウロにとって「恵み」というのは具体的には「神の選び」のことであり、「神の恵みの選び」に他なりませんでした。それは今日与えられましたローマの信徒への手紙の冒頭の部分によく言い表されています。彼はローマの教会の信徒たちに自己紹介をする上で、次のように語り始めたのです。

 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――」(ローマの信徒への手紙1章1節)。

 ここでは、パウロは自分のことを「神の福音のために選び出された」者であると紹介しています。ドイツ語のルター訳では、この部分は「神の福音を説教するために選び出された」と訳されています。パウロはそのように語った後、5節において再び、この神の選びについて語ります。すなわち、

「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」

ここはもっと直訳的に訳しますと次のようになります。

「この主イエス・キリストを通して、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。」

つまり、パウロがイエス・キリストを通して与えられたものは、「恵み」と「使徒の務め」であると言うのです。しかし、「恵み」と「使徒の務め」というのは、何か二つの別々なものを言い表しているというよりは、むしろ、同じ一つのことを別の言葉で言い換えていると言った方が良いでありましょう。つまり、パウロにとって、「恵み」とは、具体的には「使徒の務め」に他ならなかったのです。「使徒の務め」というのは、1節の言葉と併せて考えるならば、「神の福音を説教すること」です。パウロにとっては、神の福音を説教するために彼が選ばれたこと自体が「恵み」であったのです。
パウロにとっては、この選びは特別なことを意味していたのです。なぜならば、パウロは以前、教会の迫害者であったからです。パウロはキリストに出会うまでは、神の前に失われた人間でした。「自分は誰よりも神に喜ばれる生活をしている。」そのように自負していた彼が、実は知らずにキリストを迫害していたのです。神に近いようでありながら、神から最も遠く離れて生きていたのがパウロという人であったのです。しかし、キリストは、このようなパウロを決して見捨てることはなさいませんでした。むしろ、御自身から離れ去ろうとするパウロをどこまでも後から追って行かれ、彼を捕え、そして、御自身の御用のために用いて下さったのです。キリストは御自身を迫害する者の罪を担い、十字架に架かり、贖いの死を遂げられた。そして、死から復活されたキリストは、御自身を迫害する者の罪をさえ赦し、愛し、御自身の御用のために用いて下さる。パウロはこのキリストの愛を身をもって経験したのです。そのことこそが「恵み」に他なりませんでした。パウロがキリストを離れ去ろうとしても、恵みが彼を追いかけてくる。その測り知れない恵みをパウロは経験したのです。まさにこれこそ「驚くべき神の恵み」(Amazing grace)です。パウロはこの恵みを受けて使徒とされた者なのです。

W.永遠に遡る恵みの選び

そして、この恵みは、パウロを通して、私たちの所にまでもたらされたのです。パウロは、ローマの教会の信徒たちに向って、6節において次のように呼びかけました。

「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。」

これは他ならぬ私たちに語りかけている神の言葉です。私たちも、以前は神から遠く離れ、神の御心に反する生き方をしていた異邦人たちでした。しかし、キリストはそのような私たちを見捨てず、反って、私たちがキリストから離れようとすればするほど、キリストは私たちをどこまでも追いかけて来て下さるのです。残りの99匹の羊を置いて、失われた1匹の羊を探し出すまで懸命に追いかけて行った羊飼いのように、あるいは、家を出て、父の財産をすべて使い果たしてしまった息子の帰る日まで待ち続けてくれた忍耐深い父親のように、キリストはどこまでも私たちを追いかけて来て下さるのです。
あの有名な詩編の詩人が声高らかに歌ったように、

「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」(詩編23編6節)

のです。私たちが逃れようとしても、恵みはどこまでも私たちを追いかけてきます。ここで「恵み」とはイエス・キリスト御自身のことに他なりません。キリストは私たちの後を追い、私たちを捕え、神の御用のために用いて下さるのです。私たち一人一人は神に愛され、召されて、聖なる者とされた者たちです。神は私たち一人一人を神の福音を宣べ伝えるために選び、召し出して下さったのです。私たちが今、この場に居合わせているということは、単なる偶然でも、私たちの決断によることでもないのです。そうではなく、それは永遠に遡る神の恵みの選びによることなのです。主がエレミヤに語られた通りです。

 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ書1章5節)

これは私たち一人一人に語りかけられている神の言葉です。神は私たちがまだ母の胎に造られる前から、私たちを知っておられたのです。母の胎から生まれる前に、神はすべての人々にキリストの福音を宣べ伝える者として、私たち一人一人をお選び下さいました。それこそが「神の恵み」に他なりません。
この小さな欠けた器が、キリストの福音を伝えるために用いて頂けるということは、何と幸いなことでしょうか。本日はこの礼拝後、来る日に計画されております白銀教会創立100周年記念講演会・特別礼拝の案内のチラシをこの地域に配布しようとしています。チラシの配布は、人の目には小さな業に映るかも知れません。しかし、どんなに小さな業であっても、それは、キリストの福音を宣べ伝える伝道の業に他なりません。それがキリストの福音を宣べ伝えることに結びつくのであれば、神はどんなに小さな業であっても、それを喜んで下さいます。小さな一枚の紙切れであっても、それを通して伝えられる神の恵みは測り知ることができません。私たちはパウロのように、この小さく欠けた器を選び、用いて下さる神の大いなる恵みに感謝し、この恵みを誉めたたえながら、伝道の業へと遣わされて参りたいと思います。最後に伝道に遣わされる前にエレミヤに語られた神の言葉に耳を傾けたいと思います。

「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。」(エレミヤ1:7−8)

天の父よ!
 あなたは測り知ることができない深い愛をもって、私たちを母の胎に造られる前から私たちを選び、あなたの御用のために用いて下さる恵みを心から感謝致します。愛する御子の命を犠牲にしてまで、あなたは私たちを罪から贖い出し、神の子として愛して下さいます。どうか、主イエス・キリストを通して与えられている絶大な恵みに感謝して、生きる者とさせて下さい。どうか、他の人々にも、この大いなるあなたの恵みを伝える働きに喜んで遣わされて行くことができますように、聖霊によって一人一人の信仰を強めて下さい。
 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。ア‐メン。