+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教11

レビ記161116 ローマの信徒への手紙32126

十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり


T.日本基督教団信仰告白の中心部分

 私たちは白銀教会の創立100周年を迎えるに当たりまして、これまで私たちの教会の土台である信仰告白を順番に学んで参りました。信仰告白というのは、私たちの教会の「旗印」を意味致します。「私たちの教会が何を信じているのか。」そのことを簡潔に、しかも分かりやすい言葉で言い表した信仰告白です。今日はその11回目になりますが、今日取り上げます箇所は形式的に申しましても、内容的に申しましても、日本基督教団信仰告白の最も重要な中心部分に位置しています。すなわち

「御子は我ら罪人の救ひのために人となり、
 十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」

という告白です。その前半部分に関しましては前回学びましたので、今回はその後半部分を取り上げることにします。この告白は私たちの信仰生活において問題となる二つの問いに対して、答えを与えています。それはどのような問いかと申しますと

@「イエス・キリストとは誰であるのか」
A「イエス・キリストは私たちの救いのために何をして下さったのか」

 今日取り上げます後半の部分は、この第二の問いに対して明確な答えを与えてくれます。

U.イエス・キリストは何をして下さったのか。

 日本基督教団信仰告白はここで、イエス・キリストが私たちの救いのために何をしてくださったのかということを述べています。それを「贖ひ(い)」というたった一言によって表わそうとしているのです。「贖ひ(い)」という言葉はあまり普段の生活では耳にしない言葉かも知れません。これは、これまで繰り返し説明して来ましたように、人質になっている人、あるいは奴隷になっている人のために、その身代金を払って買い戻す行為を意味しました。パウロがこの手紙を宛てたローマ社会では、人身売買は日常的な事柄としてなされていました。ローマ人は自分たちが自由人であることを誇りにしていました。それに対して、奴隷は人間としての自由を奪われた存在として、軽蔑されていたのです。ですから、当時の人々にとって、「贖われる」ことは、まさに失われていた人間としての自由を再び取り戻すということに他なりませんでした。それはまさに奴隷であった人にとっては救いに他なりませんでした。
しかし、そのことが私たちと一体何の関係があるのかと思うかも知れません。なぜならば、当時と違い、私たちは誰の奴隷でもないし、自分の好きなように生きている。自分が自分の主人である。それが自由だと思っているのではないでしょうか。しかし、聖書の見方からすれば、まさにその点にこそ問題があるのです。聖書からすれば、それは本当の自由ではないのです。私たちはむしろ、そのようにして、自らの欲望の奴隷になっている。罪の奴隷になっている、というのが聖書の見方なのです。そこには人間としての本当の自由はありません。自分の好きなように生きる。自分を自分の主人として生きる。そのことによって、人類はどれほど多くの罪を重ねてきたことでありましょうか。人間が自らを神のようにして振る舞う時、私たちは罪の奴隷となっているのです。そのような状態から、私たちは自分の力で抜け出すことはできません。
しかし、イエス・キリストは、この罪の奴隷となっている私たち人間のために、その身代金を払って、ご自分のものとして買い戻し、私たちの主人となって下さる方なのです。しかも、お金ではなく、ご自分の命と引き換えに、私たちを罪から買い戻して下さったのです。それがイエス・キリストの十字架の死の本当の意味なのです。私たちはこの方を主人として、この方に仕えて生きる時、初めて自分の欲望から解放され、人として自由な生き方をすることができるようになるのです。

V.「ひとたび己を全き犠牲として神に捧げ」

 ところで、日本基督教団信仰告白は、このことをもう一つ違った言葉で言い表そうとしています。つまり、御子は、
「ひとたび己を全き犠牲(いけにえ)として神に捧げ」

という言葉です。この「犠牲」という言葉は、旧約聖書の祭儀に関係している言葉です。先ほどお読みしましたレビ記16章11−16節には、人間の罪のために、祭司が捧げる「贖罪の献げ物」について語られていました。イスラエル社会におきましては、祭司が重要な役割を果たしました。祭司というのは、神と人との間に立って執り成しをする人のことです。聖書によれば、罪ある人間が聖なる神の御前に出ることは許されていませんでした。そこで祭司だけが特別に選ばれ、他の人々の代わりに神の御前に出ることが許されたのです。旧約聖書においては、幕屋に設けられた「至聖所」と呼ばれる場所がありました。そこは年に一度大祭司だけが入ることが許されていました。そこで大祭司は他の人々の代わりに、「贖いの座」と呼ばれる場所において、動物の犠牲の血によって人間の罪を贖ったのです。血は命そのものを表します。旧約聖書においては、人間の命はお金ではなく、他の命をもって贖われなければならないと考えられていたのです。こうして、祭司の手によって、繰り返し動物の犠牲が捧げられることによって、人間の命が罪から贖われたのです。これが「贖いの供え物」の意味です。
 ところが、日本基督教団信仰告白によれば、御子は

「十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」

と語っているのです。つまり、イエス・キリストが十字架に架かって死なれたことは、単なる殉教の死とか、偶然起こった不慮の事故であったではなかったということです。むしろ、イエス・キリストは自ら進んで、大祭司として、贖罪の献げ物として神に捧げられた。しかも、動物の犠牲ではなくて、御自身の尊い命を私たちの罪を贖う供え物として、十字架において捧げて下さったのです。それが十字架の本当の意味なのです。イエス・キリストは、私たち人間の罪をすべてお一人で代わりに背負われ、その罪の贖いの供え物として、御自身の命を捧げられ、尊い血を流された。その犠牲の血潮によって、私たちの罪が御前に赦された。それが聖書が語る福音なのです。
 ここで特に注目に値するのが、「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ」という表現を教団の信仰告白が敢えて用いていることです。ここでは、イエス・キリストの自己犠牲は「ひとたび」の犠牲であり、しかも、「全き」犠牲であったことが強調されています。これはヘブライの信徒への手紙9章11節以下の御言葉に基づいています。そこには次のように記されています。新約聖書411頁です。

 「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9章11−12節)

ここではイエス・キリストの十字架の死による犠牲が「ただ一度」歴史のなかでなされた贖いの御業であったことが強調されています。旧約聖書の時代には、祭司の手によって捧げられる動物の犠牲は繰り返し捧げられなければなりませんでした。それは完全な捧げ物ではなく、すべての人間の罪を贖うことはできませんでした。しかし、キリストの血は、神の御子の血ですから、罪の汚れのない完全に清い血です。その血はただ一度流されるだけで、すべての人間を罪から贖い出すことができる尊い血潮なのです。このようにして、イエス・キリストは十字架という祭壇において、私たちの罪のために自らの命を犠牲として捧げられ、尊い血を流された。そのことを通して、二度と繰り返される必要のない、完全な、永遠の贖いを成し遂げられたのです。御子はまさにそのために人となられたのです。
私たちはもはや自らの罪を償うために何か他の犠牲を用意しなければならないということはなくなったのです。むしろ、信仰を通して、十字架において私たちの罪の贖いの供え物として御自身を捧げられた方を救い主として受け入れるが大切なのです。私たちはただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ罪赦され、救って頂けるのです。

W.『長崎の鐘』

 カトリックの信者であられる永井隆さんが書かれた『長崎の鐘』という書物があります。永井さんはこの著書において、1945年8月9日に長崎において被爆された時の経験を詳しく記しておられます。永井さんはもともと放射線医学のお医者さんでしたが、労働時間をオーバーし、放射線を浴びすぎて、慢性の原子病にすでにかかっておられました。それに追い討ちをかけるようにして、被爆の経験をされたのです。それによって、永井さんは愛する妻を奪われ、これまで積み上げてきた財産も、研究の成果も、家もすべてを瞬時にして奪われてしまいました。永井さん自身、原爆によって致命的な重症を負いました。しかし、そのような状況の中で、永井さんは命が尽き果てるまで、人命の救助に身を捧げられたのです。永井さんは突然身を襲った災難をも、信仰の力によって、神の「恵み」として受け止めることができたのです。
ある時、永井さんが浦上天主堂において行われた合同葬において、信徒を代表して弔辞を読み上げることになりました。永井さんはその弔辞の中で、原子爆弾が浦上天主堂の正面に落ちたことを、まさに神の摂理として受け止めておられるのです。もともと長崎に投下の予定がなかった原爆が、その日の天候に左右されて、突然予定を変更し、長崎に落とされることになった。しかも、それは軍需工場を狙って落とされたのが、雲と風の影響で、奇しくもカトリック教会である浦上天主堂の正面に落ちたのです。しかし、永井さんは、こうして原爆が投下されたために、日本が無条件降伏をし、戦争が終わったことは、まさに神の摂理であったと述べているのです。永井さんは次のように言っておられます。

「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き小羊として選ばれたのではないでしょうか。」

X.神の側からの供えの献げ物

 戦後すぐに、自らの上に落とされた原爆をこのように受け止めていた人がいたのだということはそれ自体、注目に値します。もちろん、私たちは犠牲になった方々のことを考えますと、軽々しく口にすることはできませんが、まさにその渦中にあった永井さんだからこそ語ることができた言葉だと思います。永井さんは浦上天主堂を、人間の罪の償いのために献げられた小羊として受け止めました。どうして、自分も被害に遭いながら、敵を責めるのではなくて、このように受け止めることができたのでしょうか。その背後には、人類の罪の贖いのために十字架において献げられた小羊なるキリストへの信仰があったのです。この十字架にかかり給いしキリストこそが、私たち人類のすべての罪を償うことのできる唯一の犠牲の小羊なのです。世界中を巻き込んだ悲惨な戦争は、原爆投下によって終止符を打たれました。そのために多くの犠牲の血が流されました。しかし、神はそれとは異なる仕方で、神と人との間の争いに終止符を打たれたのです。神は、繰り返し神に背き、自らを神とする人間を滅ぼすことによって、その争いに終止符を打たれたのではありませんでした。むしろ、神の方が人間の罪を贖うために、自ら、愛する御子を十字架において、犠牲の供え物として差し出されたのです。この御子の十字架の死によって、神と人間との間に繰り広げられていた争いに終止符が打たれました。神は御子の十字架の贖いの死ゆえに、私たちの罪を赦し、私たちと和解して下さるのです。神はそのようにして私たちに対する測り知れない愛を示して下さいました。
今日はこの後、主の聖餐の恵みに与ります。聖餐のパンとぶどう酒が私たちの前に差し出される時、十字架において御自身の命を捨て、復活なされたキリストが目の前に立ち、十字架において捧げられた御自身の肉と血を私たちの前に差し出して下さっているのです。私たちも、この神の側から差し出された犠牲の捧げ物を感謝を持って受け、自ら自己犠牲の愛に生き、和解をもたらす使者として歩んで参りましょう。

天の父よ!
 あなたは繰り返しあなたに背く私たち罪人のために、御自身の愛する御子を十字架において、罪の贖いの献げ物として捧げて下さいました。あなたの愛の深さは、測り知ることができません。あなたは、それほどに私たちを愛し、罪から救って下さる憐れみ深い神であられます。どうか、あなたが備えて下さったこの救いの道を真っ直ぐに歩む者とさせて下さい。どうか、私たちが心を頑なにすることなく、あなたの御前に自らの罪を真実に悔い改めて、十字架に捧げられた小羊なるキリストの御前に跪き、救いを求める者とさせて下さい。
 主よ、今特にあなたの助けを必要としている人々を憐れんで下さい。病の床にある人々を、またこの地上で愛する者との別れを経験し、悲しみの中にある人々を顧み、真の慰めをお与え下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。アーメン。