+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

200883日 日本基督教団信告白講解説教10

イザヤ書5345節、テモテへの手紙一11217

「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り」

T.「信仰の継承」の問題

先週の木曜日から金曜日にかけて、白銀教会学校・馬場教会学校のサマー・キャンプが行われました。豊かな自然の中で、幼い子どもたちやお母様たちと共に、本当に楽しい時を過ごすことができました。参加した子どもたちは皆とても元気の良い子どもたちでありまして、礼拝の時間も説教を致しますと、いろいろな質問が飛び交います。中には「礼拝の時間が長い」とため息をつく子どももいました。しかし、遊ぶ時は打って変わって大変元気でありまして、子どもたちを担いで、ぐるぐる回したりしますと、とても嬉しそうな顔をしていました。そういうことを経験しまして、改めて自分が教会学校の生徒だった頃のことを思い起こしました。考えてみれば、自分も同じように教会学校の先生たちに抱っこをしてもらったり、おんぶをしてもらった記憶がありますし、礼拝の時間も「長いなあ、詰らないなあ。早く自由時間にならないかなあ」と思っていたものです。その時、教会学校の先生たちは、どんなにか忍耐してくれていたことかと思います。教会学校の伝道の業というのは、息の長いものであり、長い時間をかけなければ芽が出ないような地道なものです。今回のキャンプを経験して、改めて、幼い子供たちや、子育てに当たっておられるお母さんたちに正しい信仰を伝えることの大切と責任の重さを感じさせられました。教会の歴史は二千年の間、脈々と途絶えることなく続いてきたわけですが、それは代々のキリスト者たちが命をかけて、正しい信仰を継承し、それを伝えてきたからに他なりません。それは、使徒言行録に記された初代の教会の伝道にまで遡ることができます。

今回のCSサマー・キャンプでは「イエス様を伝えた人々」という主題の下、使徒言行録のパウロの伝道旅行について学びました。三回の礼拝を通して、使徒言行録1617章までを学びました。教会学校のキャンプで使徒言行録を学ぶということは当初は難しいことかと思っていましたが、それぞれ礼拝の話を聞く中で、改めて良い主題が与えられたと思いました。それは、使徒言行録が特に、信仰の継承の問題を取り上げているからです。私が担当したのは、使徒言行録161節以下でありましたが、その所は丁度、今日の御言葉の中に出てきますパウロとテモテが出会う場面を取り上げています。正確なことは分かりませんが、パウロとテモテとは一世代あるいはもっと年齢の差があるかも知れません。パウロが教会の第一世代であるとすると、テモテはそれに続く第二世代を代表する人物でありました。パウロが年若いテモテに信仰を伝え、そして、テモテがその信仰を継承して、後の人々に伝えました。

この説教の中で、わたしは教会の伝道を「駅伝」に例えて話をしました。駅伝の選手は一人一人に任された区間を一生懸命走り抜き、たすきを落とさないように、次の人にしっかりとたすきを渡して、自分の役目を果たして行きます。そのように皆が協力して、ゴールを目指して走ります。教会の伝道もそれと同じです。教会も2千年の間、聖書の信仰をたすきにして、信仰を受け継ぎ、しっかりと正しい信仰を次の世代へと伝えてきたのです。だから、私たちも次の世代にこのたすきをちゃんと渡さなければならないキリストのランナーである。そういう話をしました。

私たち一人一人は、神様から掛け替えのない命を与えられ、この日本において、21世紀という区間を任されたキリストのランナーなのです。私たちもこの「信仰告白」というたすきを受け取った者として、次の世代へと正しい信仰をしっかりと手渡して行かなければなりません。


U.最も大切な信仰告白

私たちの教会は創立100周年を迎えまして、その使命をもう一度受け止めるために、私たちの教会が拠って立つ日本基督教団信仰告白を学んできました。本日は、その第10回目、

御子は我ら罪人の救ひのために人と成り

の部分を取り上げたいと思います。

この部分は、日本基督教団信仰告白の中では、第二段落に位置しますが、前回学びました三位一体の神を信じる信仰と共に、キリスト教信仰の最も重要な部分であり、代々の教会が最も大切な信仰告白として受け継いできたものです。ここでは、イエス・キリストがどのようなお方であり、また何のために世に来られたかということが明確に告白されています。すなわち、「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り」とあるように、キリストが人となられた目的がはっきりと告白されているのです。

 もちろん、この告白は、聖書の御言葉に由来していることは言うまでもありません。これは特に、今日与えられました聖書の御言葉であるテモテへの手紙一115節の御言葉に由来するものです。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」

 これは聖餐式の招きの言葉においてもよく読まれる御言葉ですが、これほどキリスト教の信仰を簡単明瞭に言い表している御言葉は他にありません。これは最も短い信仰告白です。キリスト教の信仰はこの短い一言によって、すべて言い尽されているとさえ言えます。聖書は多くの言葉を重ねているように見えますが、突き詰めれば、このたった一つのことを私たちに伝えるために書かれた書物なのです。もし、皆さんが誰かキリスト教のことを知らない人から、「キリスト教の信仰とは何ですか。それを一言で言って下さい」と問われるならば、この聖書の御言葉を教えてあげれば良いのです。これはもはや説明の言葉を付け足す必要がないほどに明瞭な信仰の告白です。このように見ますと、すでに聖書の中に、私たちの信仰告白の核となる部分があることが分かるのです。


V.パウロとテモテ

さて、私たちは、この御言葉がどのような状況において語られた御言葉であるのかを、もう少し厳密に見てみたいと思います。これはテモテへの手紙一に記された御言葉です。テモテへの手紙というのは、その名前の通り、テモテという人に宛てて書かれた手紙です。テモテへの手紙一11節以下を見ますと、これは、使徒パウロがテモテという人に宛てて書いた手紙であることが分かります。パウロがテモテに出会ったのは、第二伝道旅行の際、リストラという場所に立ち寄った時のことでした。テモテはパウロよりも大分年下の、年若い青年でした。テモテへの手紙二15節を見ますと、テモテの祖母ロイスと母エウニケは熱心なキリスト者であったことが分かります。テモテはその信仰を受け継ぎ、特にパウロを通して、イエス・キリストに対する信仰を与えられたのでした。テモテへの手紙一12節において、パウロが「信仰によるまことの子テモテへ」と呼びかけていることからも、二人がどれほど固い絆によって結ばれていたかが分かります。しかし、それは単なる人間的な親しさではなくて、イエス・キリストに対する信仰による絆によって二人は結ばれていたのです。テモテはパウロが最も信頼する伝道の協力者でした。

さて、13節以下によりますと、パウロがマケドニア州に出発する時、信頼するテモテをエフェソに残し、エフェソの教会を指導するように頼みました。エフェソの教会には、正統な信仰とは異なる誤った教えを説く人々がいたようです。それらの人々によって教会が動揺させられていたのです。彼らは、律法の行いによって自分の正しさを証明しようとしたり、自分たちの系図を誇りとするようなユダヤ人たちでした。そこでパウロは、テモテをエフェソの教会に残して、そのような人々を指導するように頼んだのです。

しかし、年若く、経験も浅いテモテにとって、それは決して容易なことではありませんでした。412節を見ますと

「あなたは年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。」

とパウロが若いテモテを励ますような言葉を語っています。恐らく、テモテは年若く、この世での経験も浅いことから、教会の人々からは「パウロと比べて頼りない」と、ある面軽く扱われることがあったのではないかと思います。テモテ自身も自分の若さ、経験のなさに尻込みしたのでしょう。「自分はパウロのように偉大な指導者にはなれない」とコンプレックスを持っていたのかも知れません。一生懸命背伸びをして、それらの人々とこの世的な尺度で張り合おうとしたのかも知れません。


W.主の恵みの力

 そこでパウロは年若いテモテに対して、彼がなさなければならないことは一体何であるのか、伝道者として最も大切なことは何であるのかを、この手紙を通して伝えようとしたのです。その中で語られたのが、先ほどの115節の言葉であったのです。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」

パウロはテモテに向かって、このように告白したのです。年若いテモテから見れば、パウロは、知識においても、経験においても完成された、老練で偉大な伝道者のように映ったことでしょう。しかし、パウロは決してそうではないと語るのです。

「わたしもあなたと変わらない弱い人間だ。わたしが強くあることができるのは、人間的な力によるのではなく、主の恵みの力によるのだ。」

と告白するのです。ここで告白しているように、パウロは以前、教会の迫害者でありました。彼はキリスト者を迫害し、捕まえては牢に入れて、暴力をふるっていたのです。それが神の御心に適うことであると信じていたからです。ところが、神の御心に適うと信じてしていたことが、実は主を迫害することになってしまったのです。パウロはその時、人間の熱心さほど恐ろしいものはないことに気付かされたのです。「自分は正しい、自分は賢い者である」と自惚れる人間こそが、実は最も神から遠い人間であるということに気付かされたのです。

私たちは本日、平和聖日の礼拝を守っています。私たちの国は、自分たちの歴史を通して、神ならぬものを神とすることがいかにこの人類に悲惨な結果を招くかということを、身をもって経験しました。私たちはそのような罪の中にある者ですが、イエス・キリストはそのような罪人を救うために世に来て下さったのです。パウロはそのことを、身をもって経験したのです。

「以前はイエス・キリストの敵であったこの私の罪を赦し、このような者をさえ信頼して、御自身の尊い福音を伝える務めにつかせて下さった。」

パウロはこの召命の出来事を通して、主の深い恵みを身をもって経験したのです。パウロが「恵み」という言葉を口にする時には、必ずこの召命の出来事を念頭に置いているのです。つまり、敵の罪をすら赦し、愛して下さる。それが恵みに他ならないのです。この出来事を経験したからこそ、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉が真実であり、そのまま受け入れるに値するものであることを、パウロは理解することができたのです。しかも、パウロは「わたしはその罪人の中で最たる者です」と告白することができたのです。


W.敵をも愛する愛

 この個所を読んで思い起こされるのは、あの有名な山上の説教において語られたキリストの言葉です。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。…自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」(マタイ64446

 私たちの愛は、自分を愛してくれる人を愛する愛に過ぎません。仮に、愛にランクを付けることができるとするならば、自分を愛してくれる人を愛する愛は、最も次元の低い愛でありましょう。それは最も許容範囲の狭い愛です。自分に好意を持ってくれたり、自分のことを良く思ってくれる人を愛するのは自然なことだからです。それは努力しなくてもできます。それは自分に近い人だけを愛する愛です。その中には極限られた人しか含まれません。私たちの愛は極限られた人しか、そこに入ることができない円のようなものです。私たちは知らず知らずの内に、自分の周りにそのような境界線を引いてしまっているのではないでしょうか。しかし、私たちに問われていることは、果たして、この円をどこまで広げて行くことができるかということです。

私たちにとって、自分とは気が合わない人、考え方の違う人を愛するのは容易なことではありません。まして、自分のことを悪く言う人や、自分を迫害する人を愛することはほとんど不可能です。そのためには、自分を完全に捨て切らなければなりません。敵をも愛するということは、言葉を換えて言えば、自分自身を完全に捨て去るということに他なりません。それは自己犠牲の愛です。

キリストは、御自分を迫害する者をすら愛し、御自身を十字架に架け、命を奪おうとする者のために執り成しの祈りを捧げられた方です。そのような仕方で、キリストは本当の愛とはどのようなものであるかを私たちに示して下さったのです。このキリストの自己犠牲の愛の外に置かれる人など誰もいないのです。それはすべての人を包み込む、最も許容範囲の広い愛です。御自身の周りにある愛の境界線をどこまでも広げて行った結果、キリストは御自身の命を十字架において捧げることになったのです。御自分とは最も遠い所に立っている敵をさえも救うために、御自身の命を犠牲として捧げて下さったのです。しかも、御自身を迫害する者の罪をすら赦し、御自身の愛によって造り変え、御自身の御用のために用いて下さる。それがキリストの十字架の愛なのです。

パウロはキリストから最も遠く離れていた人でした。「絶対にキリストを信じることなどあり得ない。」誰もがそのように思っていた人が、キリストと出会い、キリストを信じ、最も熱心にキリストを宣べ伝える伝道者に変えられたのです。キリストから最も遠い人が、キリストに最も近い者として、キリストを愛する者へと変えられたのです。キリストの愛は、どんなに頑なな人をも造り変えることができるのです。これこそ、キリストの十字架の死と復活を通して起こる奇跡なのです。御自身を憎む者さえも、御自身を愛する者へと造り変えることができる。それがキリストの十字架の死と復活の力なのです。


X.キリストのランナー

これは、私たち一人一人に当てはまることではないでしょうか。私たちも自分の過去を振り返るならば、以前は、真面目にキリストを信じ、生きている人を馬鹿にしているような所があったのではないでしょうか。「クリスチャン」という言葉をちょっと馬鹿にしたような態度で用いたり、からかい半分に祈りのまねをして「アーメン」という言葉を唱えたりしていなかったでしょうか。そのように私たちは気付かない仕方で、多くのクリスチャンを悩ませてきたのではないかと思うのです。そして、その背後には、私たちのために限りない忍耐をお示しくださったキリストの愛があるのです。キリストはこのような私たちをすら信頼して、御自身の御用のために用いて下さるのです。何と光栄なことでありましょうか。私たちもパウロと同じように、キリストを信じない者から信じる者へと造り変えて頂くことができるのです。そのことを本当に経験した時に、パウロと同じように告白できるのです。

『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

この信仰告白こそ、私たちが次の世代へと伝えて行くべき、最も大切な告白なのです。パウロは自分よりも年若いテモテに最も重要なこととして、この信仰告白を伝えたのです。そして、代々の教会はたすきを手渡すようにして、この最も大切な信仰を「信仰告白」という形でこれまで受け継いできました。教会はいつの時代でも伝道の困難に直面してきました。しかし、その度に、教会はこの信仰に立ち帰り、支えられて来たのです。伝道には忍耐が必要です。時に人から嫌なことを言われたり、馬鹿にされたりすることもあるかも知れません。しかし、私たち自身もそのように多くの人々の忍耐によって、信仰へと導かれてきたことを忘れてはならないのです。何よりも、主イエス・キリスト御自身が私たちに対して限りない忍耐を示し、私たちを主を愛する者へと造り変えて下さったのです。この主の愛と忍耐を思う時、私たちは伝道への勇気を与えられるのです。私たちも、この「信仰告白」というたすきをしっかりと次の世代へと手渡して参りたいと思います。

天の父よ!

 あなたは、あなたの愛する御子を世に遣わし、私たちの罪を御子に負わせられ、十字架の贖いの死を遂げさせられました。その死によって、私たちの罪は赦され、今を生かされていますことを心から感謝致します。主よ、私たちは気付かない仕方で、どれだけあなたを傷つけ、苦しめていることでありましょうか。しかし、あなたは、そのような私たちに限りない忍耐をお示しになり、私たちを御自身の尊い御用のために用いてくださります。どうか、自らの肉に依り頼むことを止め、この私のために命を捨ててくださった主のために生きる者とさせて下さい。自ら、キリストの愛に生き、この私から最も遠くに立っている人をも愛する愛を私たちの内にお与えください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。アーメン。