+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

200876日 日本基督教団信告白講解説教9

出エジプト記31315節、コリントの信徒への手紙二1313

「聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる三位一体の神にていましたまふ」


T.日本基督教団信仰告白における三位一体の神への信仰の位置づけ

 私たちは今年白銀教会の創立100周年を迎えるに当たり、もう一度、私たちの教会が何によって立っているのか、そのことを深く学ぶ意味で、私たちの教会の土台である日本基督教団信仰告白を順番に学んで参りました。本日は第9回目、

聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる三位一体の神にていましたまふ

という告白を取り上げたいと思います。

この告白は日本基督教団信仰告白においては第二段落に属しています。これは形式の面から見ても、内容の面から見ても、日本基督教団信仰告白の中心部分に位置しています。その前の第一段落では、聖書に関する告白がなされていました。信仰生活は具体的には聖書を読むことから始まります。ですから、聖書に関する告白が一番最初に置かれているわけです。そこが信仰生活の入口です。では、その聖書は一体何のための書かれたのでしょうか。そこに記されていることは一体何なのでしょうか。その答えが今日の信仰告白の言葉の中にあるのです。実はこの部分はこの前に学んだ箇所も含めて読むべき個所です。すなわち

主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる三位一体の神にていましたまふ。

聖書はまさに神の啓示の書物です。すなわち、イエス・キリストを通して、父・子・聖霊なる三位一体の神が御自身をお示しになられた。そのことが証されている書物なのです。その点において、他に並ぶ書物はないのです。


U.「神の啓示」:唯一の神

前回の説教においてお話しましたように、「啓示する」という言葉の意味は、覆いが被さっているものの覆いを取り去って、中に何があるのかを明らかにする行為です。すなわち、イエス・キリストは、それまでベールに包まれていた神の存在を明らかにして下さった御方なのです。ここでは特に、イエス・キリストを通して明らかにされた神が「唯一の神」であると告白されています。これは特に旧約聖書との関係を強調する言葉です。先ほどお読み頂いた旧約聖書出エジプト記31315節には、モーセの前に初めて神様が姿を現された時のことが記されていました。これは「啓示」とは何かを理解する上でとても大切な箇所です。

この時、モーセは自分の生まれ故郷であるエジプトから逃亡し、遠くミディアンの地にいました。彼は40歳の時に、仲間のイスラエル人を助けようとして、エジプト人を殺し、そのためにエジプトの王ファラオに命を狙われ、また同朋からも受け入れてもらうことができず、誰も知る人のいないミディアンの地へと放浪の旅をして来たのです。彼はそこで生涯の伴侶となるツィポラと出会い、子どもを与えられることになります。

さて、彼がこのミディアンの地に逃れて来てから更に40年の月日が流れた時のことです。彼はいつものように、羊たちに草を食べさせるために荒野へと放牧に出かけました。すると、彼は偶然にも神の山と呼ばれるシナイ山において神と出会うことになったのです。彼はそこで燃え尽きることのない柴を見つけ、その中から、神が呼びかける御声を聞いたのです。「モーセよ、モーセよ」と神はモーセに呼びかけました。「エジプトに帰って、奴隷とされているイスラエルの人々をエジプトから導き出すように」と神はモーセに命じられました。しかし、モーセはエジプト人を殺して、命を狙われてこの地へと逃げて来たのです。しかも、もう彼は年を取っており、人々を指導する力などありません。「どうして、私のような者が、イスラエルの人々をエジプトから救い出すことができるでしょうか」とモーセと神の命令に逆らいました。すると、神はモーセに言われました。

わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。

そして、「主」という御自身の御名を明らかにして下さったのです。15節にそのことが記されています。

「神は、更に続けてモーセに命じられた。『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々にわたしの呼び名。』」

この「主」という名前の意味は長い間、謎とされてきました。しかし、元の言葉では、その名前の綴りが、その前に出て来た「わたしはある」という言葉と似ていることから、段々とこの名前が「わたしはある」という意味であることが分かってきました。しかも、ただそこにいるというのではなくて、「わたしは必ずあなたと共にいる」という力強い約束が込められた名前であることが分かってきたのです。

モーセは過去に取り返しのつかない罪を犯してしまい、現実から逃避して生きていたような人でした。そのモーセに対して、主なる神は御自身の御名を啓示されることを通して、

わたしは必ずあなたと共にいる

と約束して下さったのです。この主なる神との出会いはモーセにとって、まさに罪を赦される経験であり、新たに生まれ変って、神と共に新しく人生を出発する出来事であったのです。

主なる神は後に別の場所において、モーセを通して、エジプトから救い出されたイスラエルの民に対して次のように言われました。

聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂をつくし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記645節)

 ここで主なる神は、御自身が唯一の主であることを大変強調しておられます。その場合、「唯一」という言葉は、単に「神がただ一人しかいない」ということだけを語っているのではありません。私たちの周りには沢山の神々が存在するのではないでしょうか。日本は多神教の世界です。エジプトも同じでした。そこには様々な神々が存在していたのです。その中にあって、イスラエルの民をエジプトから導き出された神は、御自身が「唯一の主」であると主張なされるのです。つまり、「わたしと並ぶような神は他に存在しない」ということを語っておられるのです。「他に誰かあなたがたをエジプトから導き出すことができた神が存在したであろうか。わたしだけがどんな時もあなたがたと共にいる神である」と主張しておられるのです。

「どんな時も、あなたがたと共にいる神はわたし以外にはいない。どんなことがあってもわたしはあなたから離れない。たとえ、すべての人があなたを見放しても、わたしはあなたを見捨てない。あなたがこの世の人生を終えて、一人死に赴く時も、わたしだけはあなたを見捨てない。わたしだけはどこまでもあなたと共にいる神である。わたしだけはあなたを罪と死の支配から救い出すことのできる神である。」

この「主」という名前には、そのような力強い約束が込められているのです。そうであるがゆえに、私たちはこの主なる神を「唯一の神」と誉め讃えるのです。


V.父・子・聖霊なる三位一体の神

 そして、この唯一なる主なる神が、父・子・聖霊なる三位一体の神であるということが、イエス・キリストを通して初めて啓示されたのです。

ところで、「三位一体」という言葉そのものは、聖書の中にはありません。ですから、皆さんにとっては、「三位一体」という言葉はあまり馴染みがなく、難しい言葉のように響くかも知れません。しかし、聖書は「三位一体」という言葉こそ使ってはいませんが、三位一体の信仰を抜きにして、聖書を正しく理解することはできません。三位一体の神を信じる信仰は、明らかに聖書を正しく読もうとした結果、生まれてきた信仰なのです。

それを如実に示す言葉がマタイによる福音書2818節以下にあります。復活なされた主イエスは天に昇られる前、弟子たちに向って次のように命じられました。

わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 ここには、洗礼を授ける時、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ように命じられています。皆さんが洗礼を受けた時のことを思い起こしてください。皆さんも、父・子・聖霊なる三位一体の神の名によって洗礼を施されたはずです。なぜ、洗礼は、父・子・聖霊なる三位一体の神の名によって授けられるのでしょうか。それは、洗礼において働かれるのは、父・子・聖霊なる三位一体の神だからです。私たちが洗礼を受ける時、目には見えない仕方で、父・子・聖霊なる三位一体神がその人の上に働いておられるのです。洗礼というのは、キリストと共に十字架にかけられて罪に汚れた古き自分に死に、キリストと共に新しい永遠の命に復活させられる出来事です。そこにおいて、父・子・聖霊なる三位一体の神が働いておられるのです。父なる神は、主イエスを死者の中から復活させられた聖霊の力を通して、私たちをも罪から贖い出し、新しい命に復活させて下さるのです。それは父・子・聖霊なる三位一体の神の働きがなければ、決して起こりえない出来事です。この取るに足りない、罪に汚れた小さな私の救いのために、父・子・聖霊なる三位一体の神が相共に働いて下さるのです。何と心強いことでしょうか。私たちの救いのために、父・子・聖霊なる三位一体の神が、それぞれの役割に応じて働いて下さり、前からも、後ろからも、上からも、下からも、私たちを支えて下さるのです。そのことを信じることが三位一体の信仰です。


W.信仰告白の目的:三位一体の神への信仰を告白すること

 そもそも、信仰告白それ自体が、洗礼の際に、父・子・聖霊なる三位一体の神に対する信仰を告白するために作られたものなのです。使徒信条においても、「三位一体」という言葉こそ出てきませんが、その構造を見れば、明らかに三位一体の神に対する信仰を告白する形になっています。使徒信条は大きく三つの段落に分けることができます。第一の段落は、天地の造り主にして、全能の父なる神に対する告白です。第二の段落は、子なる神、すなわち、私たちの主イエス・キリストに対する告白です。そして、第三の段落は、聖霊なる神に対する告白です。

大変興味深いことに、この使徒信条は元々、古代の教会において、洗礼を授ける際に、洗礼を受ける人が告白する信仰告白として用いられていたのです。その証拠に、この信仰告白は「われは信ず」と一人称単数になっています。洗礼を受ける人がその信仰を問われた時に、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白したのです。そうすると、一回目の水が頭の上に注がれました。そして、第二の「われはその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」と子なる神に対する信仰が告白されると、二回目の水が注がれます。そして、「われは聖霊を信ず」と聖霊なる神に対する信仰が告白されると、三回目の水が注がれました。そのようにして洗礼が授けられたのです。まさに洗礼において、父・子・聖霊なる三位一体の神が私たちの上に働いて、私たちを罪から贖い出し、新しく神の子として生まれ変らせて下さるということがよく分かると思います。

「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」というのは、洗礼を受けた人がその名を唱えられた方の御支配の下に置かれることを意味します。つまり、洗礼においては、父・子・聖霊なる三位一体の神が、洗礼を受ける人の上に御手を置き、「これはわたしのものだ!」と宣言なさるのです。そのような仕方で、父・子・聖霊なる神は、三度繰り返して、御自身が私たちの主であることをお示しになられるのです。ニカイア信条も、父・子・聖霊なる三位一体の神に対して、三度「主」という言葉を用いて告白していることには深い意味があります。


X.祝福の言葉

このような視点から、改めて私たちの礼拝を考えてみますと、父・子・聖霊なる三位一体の神への信仰を抜きにして、私たちの礼拝は全く成り立たないことが分かります。今日礼拝の中で歌った讃美歌1番の4節に「父と子と聖霊 ひとりの御神に」という言葉がありましたし、353番にも「父・子・聖霊の ひとりの神」とありました。私たちは、これらの讃美歌を通して、父・子・聖霊なる三位一体の神を誉め讃えたのです。

更に礼拝の最後には祝祷がなされます。それは

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりがあなたがたと共にいつまでもあるように

という言葉です。これはコリントの信徒への手紙二1313 節の言葉に基づいて作られた祝福の言葉です。そこを見ますと、

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

とあります。パウロは手紙の終わりをこのような祝福の言葉でもって締めくくったのです。ここでまず目につくことは、ここには「父なる」という言葉が抜けていることです。しかし、内容から言えば、これは明らかに「父なる神の愛」となります。

もう一つ、使徒信条などと比べて特徴的なことは、順番が父なる神、子なる神、聖霊なる神の順番ではなくて、子なる神、父なる神、聖霊なる神となっている点です。しかも、イエス・キリストには「恵み」が結びつけられ、父なる神には「愛」が結びつけられ、聖霊には「交わり」が結び付けられている。これには一体、どのような意味があるのでしょうか。実は、これは私たちが信仰を持つようになる過程をそのまま表わしているのです。私たちはどのようにして信仰生活に入るのでしょうか。それは、イエス・キリストを真の救い主と信じ、神の恵みを頂くことによってです。それは具体的には、私たちの罪を赦して頂き、神の子として新しく生まれ変わり、キリストの体なる教会の肢とされるということです。それがすなわち、主イエス・キリストの恵みの内容です。

私たちは、このイエス・キリストの恵みを通して、初めて神を父と呼ぶことができるようになります。父なる神とは、第一には「イエス・キリストの父なる神」だからです。御子が人となり、私たちの所に来て下さったからこそ、私たちはその父を知ることができたのです。私たちはイエス・キリストを通して、罪を赦して頂くことなしに、神を父と呼ぶことはできないのです。このイエス・キリストの十字架の贖いを抜きにして、父なる神の愛を確信することはできません。ですから、まずイエス・キリストの恵みが先にあって、その後に父なる神の愛が続くのです。

 では、「聖霊の交わり」とは何でしょうか。聖霊は主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けることを通して与えられる賜物です。私たちが洗礼を受ける時、聖霊が私たちの上に注がれ、聖霊なる神との交わりに入れられるのです。聖霊なる神は今、生きて私たちの内に働かれる神です。私たちはこの聖霊を通して、父と子の豊かな愛の交わりの中に入れて抱けるのです。誰も聖霊によらなければ、「イエスは主である」と信じ、告白することはできませんし(Tコリ123)、父なる神の愛を確信することもできないのです。私たちがイエスは主であると告白し、父なる神の愛を確信するようになるのは、すべて聖霊なる神が私たちの内に働いておられる結果なのです。

この手紙を締め括る最後の言葉が、礼拝の度毎に最後の祝祷の言葉として用いられるようになったということは非常に意味のあることだと思います。コリントの教会というのは、今の教会と同じように、信徒同士が互いに争い合い、分裂があり、非常に問題のあった教会です。パウロはこの手紙においても、非常に激しく、厳しい言葉を語っている所が随所に見られます。しかし、どんなに厳しい言葉を語っても、最後はこのような祝福の言葉によって、手紙を締め括ったのです。なぜなら、パウロが厳しい言葉を語るのは、決して相手を責めることに目的があったのではなく、この祝福に言い表されている事柄をコリントの信徒たちに伝えることにあったからです。パウロが彼らにこの手紙を通して伝えようとしたことは、この祝福の言葉にすべて言い尽されていると言っても良いでしょう。パウロは全生涯を賭けて、このことを人々に伝えようとしたのです。

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にいつまでもあるように。

 私たちはこの言葉を聞く時に、父・子・聖霊なる三位一体の神が、どれほど大きな恵みと愛と交わりとを私たちのために用意して下さっているかを知ることができるのではないでしょうか。私たちはどれほど大きな恵みと愛と交わりの中へと招かれていることか、そのことを改めて深く心に留め、この祝福を人々に伝えて参りたいと思います。

天の父よ、

 あなたはあなたの愛する御子イエス・キリストを通して、御自身の愛をお示し下さいました。あなたの測り知れない恵みを感謝致します。どうか、私たちに豊かに聖霊を注ぎ、ますますあなたとあなたの御子とを信じる信仰を強めて下さい。どうか、あなたが私たちの救いのためにどれだけ深い御計画があったかを悟ることができますように御導き下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。