+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

200861日 日本基督教団信告白講解説教8

イザヤ書956節、ヨハネによる福音書118


「主イエス・キリストによりて啓示せられ」


T.神の子に対する信仰と知識における一致

 先週の聖日、私たちは白銀教会創立100周年記念感謝礼拝を共に守りました。主にある多くの兄弟姉妹方が集められ、この会堂一杯に賛美の声が響き渡りました。

私たちの教会はこうして宣教第二世紀に入ったわけですが、これから私たちの教会がしっかりとした土台の上に、より堅固な教会を造り上げて行くためには、一体どうしたら良いのでしょうか。教会を根底で支えている土台とは一体何なのでしょうか。聖書で教会は「キリストの体である」と言われます。教会を一人の人間として理解するならば、これから私たちの教会が成熟した人間に成長するためには、一体何が大切なのでしょうか。

 人の生涯の中で一番初めの乳幼児期は、その人の人格の基礎の部分を形造る上で決定的に重要な時期だと言われます。この時期に「人を信頼する力」を身につけることが、その後に豊かな人間関係を造るための基本になるというのです。「人を信頼する力」というものは、何よりもその家庭において身近に生活している親や家族との関係を通して養われるものですが、幼稚園や保育園の幼児教育においても、子どもたちに「人を信頼する力」を身につけさせることが一番大切なのです。

 ではどうしたら、乳幼児期の子供は人を信頼する力を身につけることができるのでしょうか。それは単純に言えば、子どもの欲求を満たしてあげることです。赤ちゃんは泣くことによってしか自分の要求を表現できませんから、赤ちゃんが泣いた時に、お父さんやお母さんが赤ちゃんの欲求を満たしてくれる。赤ちゃんが何を望んでいるのか、おっぱいなのか、おむつなのか、眠いのか、それを敏感に読み取って、赤ちゃんの欲求を満たしてくれる、その繰り返しを通して、お母さんが自分にとって無くてはならない存在だということを学んで行くわけです。肌と肌の触れ合いを通し、お母さんが自分を守ってくれる存在だということが段々に分かってくるのです。そのようにお母さんを信頼することのできる子どもは、大きくなってから他の人をも信頼することのできる力を身につけるようになるのです。

 私たちの白銀教会は100年の歴史を歩んで参りました。人の一生で言ったら、長い年月を歩んできたわけです。しかし、2千年という長い教会の歴史から見れば、私たちの教会はまだまだ乳幼児期の段階です。そうすると、今は私たちの白銀教会にとって、その土台の部分を建てる上でとても大切な時期を歩んでいることになります。この土台がどう据えられるかによって、これからの成長が大きく左右されるのです。では、その土台とは一体何でしょうか。主イエスは御言葉を通して、そのことをはっきりと教えておられます。すなわち、主イエスは

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ1618

と約束なされたのです。「この岩の上に」と言われているのが、教会の土台でありますが、先日から学んでおりますように、「この岩」というのは、ペトロが弟子たちを代表してなした「信仰の告白」です。

あなたはメシア、生ける神の子です。

これは主イエスに対する信頼を言い表した言葉ですが、この主イエスとの信頼関係という土台の上に教会は建てられるのです。それならば、白銀教会が成長する上で何よりも大切なことは、主イエスとの間により堅固な信頼関係を築いて行くということではないでしょうか。しかも、私たちが個々ばらばらにではなくて、わたしたちすべての者が「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなる」ことによって、教会は成熟した人間となり、頭であるキリストに向って成長して行くことができるのです。


U.「主イエス・キリストによりて啓示せられ」

主イエスとの信頼関係をより堅固なものとするために、私たちはこれまで信仰告白を学んで来ましたが、今日は日本基督教団信仰告白の講解説教の第8回目、

「主イエス・キリストによりて啓示せられ」

という告白を共に学びたいと思います。これは日本基督教団信仰告白の第二段落の始めの部分です。これまで学んできた第一段落においては「聖書」が私たちの教会にとってどのような書物であるかが告白されてきました。それに対して、この第二段落は、具体的に聖書が何を証しているのかを告白しています。これは次のように続いています。

 「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。」

 ここでは「啓示せられ」という難しい言葉が用いられています。これは平たく言えば「それまで隠されていたものが明らかにされる」という意味です。それまで覆いがかぶさっている。今日も聖餐式の用意がされて、パンとぶどう酒が入れられた器の上に覆いがかぶさっています。中に何があるのか、私たちは関心をもって見るわけですが、この覆いが取り除かれて、中身が何かがはっきりと示される。それが「啓示される」ということです。

神は私たちの目には見えない方です。つまり、私たちにとってはベールに包まれているお方です。しかし、主イエス・キリストはそのベールを取り去って、神がどのような御方であるかを私たちに示してくださるお方なのです。主イエス・キリストを通して啓示せれるのは、それまで隠されていた神なのです。


V.まことの神からのまことの神

今日与えられましたヨハネによる福音書118節はそのことを次のように言っています。

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

これほどイエス・キリストがどのようなお方であるかを分かりやすく語っている御言葉は他にないと思います。私たちの中で誰一人として神を見たという人はいません。しかし、この世に一人だけ、本当の神を見たことのある方がおられるのです。しかも、一瞬だけ神を見た、というのではなくて、「神様はわたしのお父さんです」と確信を持って言うことができる方がおられるのです。

私たちの教会にとって使徒信条と並んで重要な信仰告白として、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」という信仰告白があります。『讃美歌21』の9342にありますが、これは基本的には使徒信条と同じように、三位一体の神について告白していますが、使徒信条よりももっと詳しく主イエス・キリストについて告白をしています。その第二段落は次のように告白しています。

「またただひとりの主イエス・キリストを信じます。

        主は神のみ子、御ひとり子であって、

        世々に先立って父から生まれ、光からの光、

        まことの神からのまことの神、

        造られたのでなくて生まれ、

        父と同質であって、

        すべてのものは主によって造られました。」

ここでは「まことの神からのまことの神、造られたのではなく生まれ、父と同質であって」と告白されています。私たち人間は神によって造られたもの、被造物です。神以外のものはすべて被造物です。しかし、主イエス・キリストはただ一人、単なる被造物ではなくて、父なる神からお生まれになられた方なのです。主イエス・キリストという方は神の独り子、この世でただ一人、真の神と呼ぶことのできるお方なのです。そのお方が私たちと同じ肉を取り、人となられて、この地上に来て下さったのです。ですから、この方は「まことの神であると同時にまことの人」と告白されるのです。


W.父のふところにいる独り子なる神

ヨハネによる福音書において、特徴的なのは、この方のことを「父のふところにいる独り子なる神」と表現していることです。ここでは、小さな子どもがお父さんの膝の上にのって、抱っこをしてもらっている情景がイメージされていると思われます。

少し話は逸れますが、最近幼稚園に礼拝のお話をしに行くと、その度に「抱っこ!」と言って、抱っこをせがんでくる子どもがいます。最近は子供たちも、礼拝のお話よりもその後に抱っこをしてもらうのを楽しみにしているようです。どうして、子どもはそんなに抱っこをしてもらうのが好きなのでしょうか。それは、膝のうえが一番安心感を覚えるからではないでしょうか。自分が守られている。懐の温もりが伝わってくる。子どもはお父さんやお母さんの胸にぴったりと依りかかって、お腹の中で聞いていたのと同じ心臓の音を聞いて安心するのだとも言われます。子どもはそのようにしてお父さんやお母さんに抱っこされ、肌と肌とが触れ合い、愛情を注がれて、健やかに育って行くのです。そのようにして人を信頼する力を身につけて行くのです。

それと同じように、イエス・キリストというお方は、ただ一人、父なる神の膝の上に乗り、その心臓の鼓動を聞き、懐の温もりを知っている方なのです。父なる神様の胸に横たわり、そこに安らいでおられた。父なる神様がどれほど愛に満ちた御方であるかを本当に知っておられる方なのです。だから、弟子たちに主の祈りをお教えになられた時にも、「アッバ、父よ」と祈りなさいとお教えになられたのです。「アッバ」というのは、幼い子どもがお父さんの膝の上にのって、甘えて「パパ」と呼ぶ呼び方です。神様にお祈りする時には、子どもがお父さんに甘えるようにお祈りして良いと教えて下さったのです。イエス・キリストはそれほどに父なる神様のことを信頼しておられたのです。目には見えない神様が、そのような父なる神であられることを教えて下さったのは、イエス・キリストが初めてであったのです。神様が本当に信頼することのできる、愛に満ちた父なる神様である。そのことは独り子であるイエス・キリストを通してでなければ、絶対に知ることのできなかったことなのです。


X.「その独り子をお与えになったほどに」

 そのことを知れば知るほど、父なる神様が愛する独り子を私たちのために下さったことはますます不思議でなりません。ヨハネによる福音書316節にはそのことが次のように記されています。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ここに私たちの理解を遥かに超えた、神の深い愛が示されています。イエス・キリストは父なる神様の膝に抱かれ、心臓の鼓動を聞いて、その懐に安らいでいた御方です。そこには何ら不足するものはなかったはずです。父なる神にとっても、主イエスは無くてはならないたった一人の子どもであったのです。父なる神と子なる主イエスは深い信頼によって結ばれていたのです。それは誰も引き裂くことのできない厚い信頼関係です。父なる神様にとって、この独り子を失うことは、御自分の命を失うよりももっと辛いことでした。ところが、父なる神様は、その掛け替えのない、膝に抱いていた、この独り子を私たちにお与え下さったのです。その時、どれほど辛い思いがしたことでしょうか。まさに身が引き裂かれるような思いで、御子をこの世にお送りになられたのではないでしょうか。

なぜ、敢えて父と子の幸せな関係を捨ててまで、人を救わなければならないのか。その必要は全くありません。私たち人間は自ら神に背いたのです。神の怒りを買い、滅ぼされても当然なのです。しかし、そのような私たち人間のために、父なる神は愛する独り子を私たちのために下さったのです。

 私たちはこの独り子なるイエス・キリストを通して、父なる神の本当の愛を知ることができます。父なる神が大切な独り子を犠牲にするほどに私たちを愛して下さるお方である。そのことを主イエスの十字架の死と復活を通して知ることができるのです。私たちは主イエスを信じることによって、目には見えない父なる神を信頼する力を身につけることができるようになります。私たちがどんなに罪を犯し、この方を裏切っても、主イエスは私たちをお見捨てにならない。罪深い私たちでも、その罪を心から悔い改めて、罪の赦しを求めるならば、必ず罪を赦して頂ける。私たちにはそのように繰り返し立ち返る場所があるのです。その安心感の中で私たちは生きることができるのです。そのような安心感があると、私たちは他の人に対しても接し方が変わってくるのです。

すべての人間関係の基本には、親と子の信頼関係があると最初に申しました。しかし、実はそれよりももっと深い所で、すべての人間関係を支えている土台があるのです。それは、神と人との信頼関係なのです。それを聖書では「信仰」と呼ぶのです。相手が神ですから、ただ「信頼」というのではなくて、「信仰」と言うのです。「信仰」というのは、平たく言えば、神に対する私たちの信頼のことです。


Y.すべての人間関係を支える土台:神と人との信頼関係

私たちは普段、神との関係を余り意識することはないかもしれません。しかし、私たちが意識していなくても、それは私たちの生き方に大きな影響を及ぼすのです。それは、乳幼児期の子どもが親との関係の大切さを意識していなくても、それが子どもの成長に決定的な影響を及ぼすのと一緒です。私たちにとっても、神との関係が上手く行っているかどうかということが大きな影響を及ぼすのです。幼い時に宗教教育が大切だと言われる理由はそこにあるのです。自分が神から愛されている、本当に必要とされている、受け入れられている、そのことを肌で感じて育つ子どもと、自分は誰からも必要とされていない、誰からも愛されていないと思って育つ子どもとでは明らかに差が出てくるのです。神の愛は、私たちの人生のすべてを根底で支えている土台なのです。この神の愛を教えて下さるのが、イエス・キリストというお方なのです。

 ですから、私たちの教会にとって一番大切なことは、何よりもまず、主イエス・キリストとの基本的な信頼関係を築き上げて行くことです。

あなたがたはわたしのことを何者だと言うのか

という主イエスの問いかけに対して、本当に心から

あなたはメシア、生ける神の子です

と告白できるようになる。繰り返し、御言葉を聞き、聖餐に与り、罪を赦され、新しく生まれ変わらされる中で、そのような信頼関係が形造られて行くことが大切なのです。この信頼関係は、私たちの方がそれを破ったとしても、キリストの方は決してそれを破ることはなさらないのです。キリストはどんなことがあっても、私たちをお放しになることはありません。この信頼関係は、繰り返し私たちの罪を赦し、新しく生まれ変わらせる、キリストの十字架の贖いの死と復活に基づいています。そのような堅固な土台の上に教会は建てられるのです。

私たちの教会が本当に成熟した人として成長するためには、わたしたちすべての者がこの「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなる」ことが大切なのです。この信仰告白という土台の上に、私たちの教会がしっかりと建てられることを祈りつつ歩んで参りましょう。

天の父よ!

 あなたは愛する御子をこの世へお遣わしになり、私たちの罪を贖う供え物として、十字架にお捧げになられました。そのことの中に、どれほど深いあなたの愛が隠されていることか、御言葉を通して、そのことを教えて下さり感謝致します。しかし、同時に、あなたはそれほどまでに私たち人間の罪を嘆き悲しんでおられることをも知らされます。どうか、イエス・キリストの十字架の前に、己が罪を真実に悔い改め、赦しを求める者となることができますように御導き下さい。

この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。アーメン。