+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

200854日 日本基督教団信告白講解説教7

詩編
119105節、テモテへの手紙二31417

「信仰と生活との誤りなき規範なり」


1.規範としての聖書

 本日は日本基督教団信仰告白の講解説教の第7回目、

聖書は「信仰と生活との誤りなき規範なり」

という告白について、聖書の御言葉に基づいて説教を致します。ここには「規範」という言葉が出てきます。「規範」とは何でしょうか。「規範」の「範」という字は「竹でこしらえたわく」を意味するそうです。そこから「はみ出てはいけないわく、物事の手本となるかた」のことを意味するようになりました。「規」と字は円を描くためのコンパスを表す字です。それが転じて、物事の基準あるいは、物事の基準の枠にはめることを意味するようになりました。そうすると「規範」という言葉は、私たちが生きる上でいろいろなことを比べ、選択し、判断する際の「拠るべき手本・規準」であると言えます。

日本基督教団信仰告白において特徴的なことはただ聖書が「信仰の誤りなき規範なり」とは言わずに、「信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白していることです。日本基督教団信仰告白の中で「生活」という言葉が入っているのはここだけです。このことは非常に重要なことです。「信仰告白」というのは、私たちの生活とはかけ離れたことを問題としているのではないのです。そうではなく、私たちの生活を視野に入れて、それをきちんと位置付けているのです。この点に私たちがこれから学ぼうとしている「生活綱領」との結びつきを見て取ることができます。先日は私たちの教会の定期教会総会が持たれました。そこにおいて、私たちは今後4年間に亘って「生活綱領」を学ぶことを決議しました。この「生活綱領」は日本基督教団が日本基督教団信仰告白を定めた時に同時に制定したものでありまして、この信仰告白から具体的にどのような生活が生み出されるのかを語ったものです。


2.規範の必要性

ところで「規範」という言葉は最近になって、特に私たちの国で非常に注目されるようになりました。今、私たちの社会では大人も子供も「規範意識」が失われつつあり、いろいろな犯罪が起こっている。性の乱れや学級崩壊が起こったりしている。どうしたら子どもたちの内に規範意識を育てることができるのか。そのことがもう一度問われるようになり、公立の学校でも道徳教育に力を入れるようになりました。

私たちは普段生活する中であまり規範ということを意識しないかも知れません。しかし、意識はしていなくても、私たちは誰でも心の内に規範を持っているのです。「私には規範など必要ない。そんな堅苦しいものはいらない。もっと自分の思う通り、自由に生きたい」と思う人が大半かも知れません。そういう人でもやはり心の中に規範を持っているのです。そういう人にとっては何より「自分」が規範であり、「自分の思う通り、自由に生きる」という考え方そのものが一つの規範になって、その人の生活を形造っているわけです。私たちは朝起きてから夜寝るまで、様々な事柄をある基準に照らして測りながら選択し、生活していると思うのです。朝起きたらまず何をするか。歯を磨いて、新聞を読む。そのこと一つとっても、私たちは無意識の内にある基準をもって選択をしているわけです。

そのような規範意識はどこに由来するものなのでしょうか。それは幼い子どもの成長に目を向ければ分かることです。幼い子どもたちの内に最初に規範意識が芽生える場は何といっても家庭です。日頃身近に接しているお父さんやお母さんの影響を受けて、子どもの内に規範意識が育てられて行きます。特に子どもが幼い時は、何といってもお母さんが重要な役割をはたします。幼い子供にとって、お母さん自身が生活の規範になっていると言えます。子どもはお母さんの言葉や行動を注意深く観察して、これはして良いことか悪いことか、その区別を段々と覚えるようになります。子どもが少し大きくなると今度はお父さんの役割が大きくなります。社会のルールを教えることなどがお父さんから求められるようになります。

いずれにしても、私たち自身のことを省みても分かりますように、私たちが大人になってから、いろいろなことを選択し、決めなければいけない時に、必ず最初に基準となるのは自分が家庭において両親から学んだことです。自分の将来の進路を考えたり、家庭を持ち、子どもを持った時に、どのように子どもを育てたら良いのか、そのように悩む時、自分が親から受けたしつけや教育が一番の規範になるわけです。ですから、私たちは家庭において、自然な仕方で誰でもこのような規範意識を養い育てられていることが分かります。

それから、もう一つ重要なのは子どもが幼い時の教育です。特に幼児教育は、子どもたちの内に規範意識を芽生えさせる上で、非常に重要な役割を持っています。それは建物に例えて申しますならば、建物の一番重要な土台の部分を建てるようなものでありまして、それがしっかりと真っ直ぐ建っていなければ、その上に建物を建てることはできません。そこにおいて養われた規範意識は、子どもの全人格がその上に建てられる土台の役割を果たします。ですから、幼い時にどういう教育を受けたのか、ということがその子の生涯をある程度方向づけるわけです。ここにもまた規範というものが必要になってきます。


3.テモテ

先ほどお読みしましたテモテへの手紙二314節以下の御言葉は、そのことを私たちに具体的に教えてくれます。この手紙は使徒パウロが彼の最愛の弟子であったテモテに宛てて書いた手紙です。ここで「あなた」と呼びかけられているのはテモテです。以前にお話しましたが、テモテという人は年若い青年でありまして、パウロの愛弟子でした。パウロはテモテにとって信仰の産みの親でした。テモテはユダヤ教の割礼は受けていませんでしたが、母親の影響で幼い時からユダヤ教の教育を受けて育ちました。そのことが1415節に記されています。

だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。

ユダヤ人は幼い時から徹底して聖書に基づいて子どもを教育します。この手紙が書かれた当時はまだ新約聖書はありませんから、ここで言われている「聖書」とは「旧約聖書」のことです。ユダヤ人の教育は基本的に聖書を丸暗記することから成り立っています。最近、日本でも音読の効果が見直され、子どもたちにも毎日音読の宿題をさせていますが、ユダヤ人は聖書の御言葉を文字通り声に出して音読して、すべて暗記してしまうのです。そのことがユダヤ人の類まれな才能を培ってきました。ですから、ユダヤ人にとっては文字通り、聖書こそが信仰の規範であり、生活の規範であったのです。

テモテは幼い時から旧約聖書に基づいて教育を受けてきましたが、その後、パウロと出会い、実は彼が幼い時から学んできた旧約聖書はイエス・キリストについて証する書物であることを知り、キリスト者となりました。パウロはここで

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます

と言っていますが、「この書物」というのは「旧約聖書」のことです。つまり、旧約聖書はイエス・キリストを救い主として信じる信仰に基づいて読む時に、初めて本当に理解できるのです。その時、初めて、旧約聖書は私たちを救いへと導く書物となるのです。私たちの信仰生活においては、しばしば旧約聖書が軽んじられる傾向が無きにしも非ずですが、しかし、旧約聖書がなければイエス・キリストが救い主であるという信仰に至ることはできませんし、また逆にイエス・キリストへの信仰を抜きにして、旧約聖書を読むことはできません。その意味で「日本基督教団信仰告白」は旧・新、両方併せた聖書が私たちの信仰の誤りなき規範なりと告白しているのです。私たちの救いに必要なことはすべてこの聖書に記されているのです。


4.聖書の役割

さらにパウロは聖書について16節以下で次のように述べています。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

ここでパウロは4つの視点から、聖書が私たちにとって「有益な」書物であると語っています。「教え」というのは「真理を教える」ということです。聖書で言う真理とは神様の変わることのない御意志です。より具体的に言えば、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、私たちを罪から救い出し、神の子とし、永遠の命を与えようとなさる、その神様の変わることのない救いの御計画を教えるのが聖書です。それから聖書は人を「戒める」上で有益だと言っています。この言葉は元々、人の罪や過ちを暴き、それを責め、懲らしめるという意味があります。それから第三にただ人の罪を指摘するだけではなく、人の「誤りを正す」上で有益だと言っています。歪んでしまった心を正し、真っ直ぐにする。それが聖書の御言葉の力です。

そして、最後に聖書は「義に導く訓練をする」うえに有益だと言っています。ここで「訓練をする」と訳されている言葉は元々、「幼い子どもをしつける、教育する」という意味の言葉です。元の言葉では「聖書は義において教育する」のに有益だと言っているのです。この「義」という言葉は聖書では非常に深い意味を持った言葉です。「義」というのは元々、神様から喜んで受け入れてもらえる状態を表す言葉です。パウロは「人はただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされる」と言いましたが、イエス・キリストを救い主と信じること人を神様は喜んで受け入れて下さるのです。そうすると、聖書で「義」とは、イエス・キリストのことに他ならないのです。つまり、聖書は神の前にただ一人義と認められるイエス・キリストへと私たちを導く書物である。この方が聖霊を通して、私たちを教え、訓練し、育てて下さるのです

そして、続く17節において、パウロはこのように聖書によって教えられ、訓練される者が最終的に目指すべき目標を示しています。

「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

ここでは「神に仕える人」と訳されていますが、これはもっと単純に訳すと「神の人」という意味の言葉です。「神の人」とは、神のものとされた人のことです。つまり、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して罪から贖われ、神のものとされた人のことです。私たちはイエス・キリストを救い主として信じ、洗礼を受けることを通して、新しく「神の子」として生まれ変わります。洗礼は第二の誕生です。罪にまみれていた私たちが罪から清められ、幼子のように新しい神の人として生まれ変わる。それが洗礼において起る出来事です。ですから、洗礼を受けたばかりの人はお赤ん坊と一緒で、信仰の面において幼い子供なのです。その幼い私たちを立派な神の人として育て上げるのが教会であり、聖書なのです。教会は昔から信仰者にとって「母なる教会」と呼ばれてきました。教会は信仰において未熟な人に必要な栄養を与え、育てる母親としての役割を果たすのです。幼い赤ん坊がお母さんのおっぱいを吸って育つように、私たちも最初は柔らかい食べ物を食べて段々に成長して行きます。そこから、少しずつ背丈も伸び、知恵も増し、固い食べ物も食べられるようになります。そのように聖書は私たちの成長の段階に応じて、必要な栄養を与え、知恵を与え、段々に神の人として成長するように導いてくれるのです。


5.「天職」(神の召し、呼びかけ):calling(コーリング)

 さて次に日本基督教団信仰告白の「信仰と生活との誤りなき規範なり」の「誤りなき」という言葉に注目したいと思います。聖書が生活の誤りなき規範であるというのは、少し誤解を与えるかも知れません。これは、聖書というものが、私たちがそれに従って生きれば、絶対に間違わない答えを与えてくれるマニュアルのようなものであるという印象を与えてしまうかも知れません。しかし、聖書はそのような意味での人生のマニュアルとは違います。私たちは生活を歩む中でどちらにしたら良いのか迷うことが多いのです。例えば、今の仕事が自分に向いているのか、もっと自分に合った仕事があるのではないか、もっと条件の良い仕事を探して転職した方が良いのではないかと迷うこともあるでしょう。あるいは、ある人と結婚を考えている。果たしてその人が自分に与えられた運命の人であるかどうか、その確信がない。そのことで迷っている。そのような時、聖書にどちらにした方が良いとはっきりと答えが書かれていれば良いのですが、残念ながらそういうわけには行かないのです。聖書はそのような意味では、私たちが絶対に間違うことのない答えを与えてくれるマニュアルとは違います。ではなぜ、日本基督教団信仰告白においては、聖書を「信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白しているのでしょうか。どうして、そのようなことが言えるのでしょうか。

 ここでキリスト者の生活について考える上で、英語の「コーリング」(“calling”)という言葉に注目してみたいと思います。これは英語の辞書を引きますと、第一の意味は「天職」となっています。天職というのは、その人にしかできない、神様から与えられた務め、職業のことです。そして、次に「職業」、「義務感」、「召集」、「呼び出し」、「神のお召し」、「召命」、「呼ぶこと」などの意味が挙げられています。これは英語の「コール」(“call”)という動詞に由来する言葉ですが、「コール」(“call”)という動詞は「呼ぶ」という意味です。それが名詞として使われれば「電話の呼び出し」や「通話」のことを意味するのです。

 話は少し脱線しますが、今、私たちの社会では携帯電話が普及している時代です。どうして、これほど携帯電話が普及したのでしょうか。それはもちろん、それが便利であるということもありますが、それとは別の意味があるように思われるのです。私たちは余り重要でない会話も携帯を使ってします。特にその時でなければ困るような用事はそうそうありません。それでも誰でも携帯を持っている時代です。なぜ誰でも携帯を持ちたがるのか。それは、自分に一日何回電話がかかってくるか、それによって、自分の存在価値を確かめることができる。だから、携帯電話を肌身離さず持ち歩いているのではないでしょうか。人から必要とされて嫌な気持ちがする人はいないと思います。携帯にかかってくれれば、それだけ自分は人から必要とされていると感じることができます。誰かがいつも自分のことを気に留めてくれている。そのことが確認できるのです。私たちは知らず知らずの内に、愛に飢え渇き、孤独な心の癒しを携帯電話に求めているのではないでしょうか。

 ところで、この「コーリング」(“calling”)という言葉は、元々は聖書では神が人を呼び出される、必要な働きのために呼び出される、その「神の召し」を表す言葉でした。今日の礼拝においても、神が選ばれた人を役員や教会学校の教師としてお立てになる。それが神の「召し」です。中世までは聖職者だけが神の召しを受けていると考えられていました。しかし、宗教改革者マルチン・ルターは、ドイツ語に翻訳する時に「コーリング」(“calling”、ドイツ語では“Beruf”(ベル‐フ))という言葉を普通の職業に当てて訳しました。そのことが後の歴史に大きな影響を与えました。ルターは、人はどんな境遇に置かれていても一人一人、神様から呼び出され、必要とされて、そこに置かれているのだと言ったのです。すべての人が神様からの呼びかけ、(コーリング)を受けていると言ったのです。

 これは先ほどの携帯電話に例えて申しますならば、信仰を持って生きるということは、心の中に神様と通じている携帯電話を持っているということではないでしょうか。どのような場にあっても神様からの呼びかけ(“calling”)がそこから聞こえて来る。神様が私たちを必要とし、呼び出して、私たちに語りかけて下さる。その「心の携帯電話」が「信仰」ではないでしょうか。私たちは普段の信仰生活を歩む中で、聖書の御言葉を通して、神の呼びかけを聞き取ることができます。信仰を持っていると、どこにいても神様から電話がかかってくるのです。「わたしはあなたのことを愛しているよ。あなたを必要としているのだよ。あなたは置かれた場所で、精一杯自分にできることをしなさい。私はそれをいつも見ていますよ」と神様から電話がかかってくるのです。

 人は誰にでも神様から特別な務め、「天職」を与えられているのです。それは何も有給の仕事だけに限られたことではありません。どんなに小さな務めであっても、私たちが神から与えられた義務として、その務めを忠実に果たすことを神様は喜んで下さるのです。ある人が次のように言いました。「靴屋は人がそれを履いて喜んでくれるような靴を作ることに全力注ぐ。それが神の召しに応えることだ。また母親が心をこめて自分の子どもを育てる。家族の健康を考え、日に三度の食事を作る。それがその人にとっては神からの『コーリング』に応えることであり、神の栄光を現わすことだ」と言ったのです。病の床に伏している人は病の中にあって、神の呼びかけを聞き取り、神はその病を通して自分に何を語りかけようとしておられるのかを聞き取り、それに応えて生きることが、その人にとっての神からの「コーリング」に応えることなのです。病人の看病をしている人は、病を患っている身近な人が少しでも心が楽に療養生活を送ることができるように寄り添って生きることが、神からの「コーリング」に応えることでしょう。学生は学びに励むことが神からの「コーリング」に応えることです。神はそのようにそれぞれに与えられた務めを忠実に果たすことを喜んで下さるのです。

このように考えるならば、私たちはどのような場にあってもいつも神様からの呼びかけを受けていることが分かります。日本基督教団信仰告白が聖書を「信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白している意味はそこにあると思います。私たちはこの聖書を通して、主イエス・キリストの呼びかけをはっきりと聞き取ることができます特に毎日曜日の礼拝において、私たち一人一人に呼びかけて下さる主の御声を聖書を通してはっきりと聞き取ることができます礼拝はこの主の呼びかけ、「コーリング」をはっきりと聞き取る場所なのです私たちは礼拝において、復活のキリストに出会い、この方の御声をはっきりと聞き取ることができるのです私たちが聖書を通して、その主の御声を確かに聞き取る時、聖書は私たちにとって「信仰と生活との誤りなき規範」となるのですその意味で「規範」とは、聖書の御言葉を通して私たちに呼びかけられる、私たちの主イエス・キリストに他なりません私たちは聖書の文字に仕えるのではなく、聖書を通して語りかけられる、私たちの生ける主イエス・キリストに仕えるのです。この方こそ「信仰と生活との誤りなき規範」に他なりません。最後に詩編119105節の御言葉を読んで終わります。

あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。

天の父よ!

 今日も聖書の御言葉を通して、あなたの御声を確かに聞かせてくださり感謝致します。あなたは私たちあなたに背いた者たちのために、大切な御独り子の命を十字架において捧げ、私たちの罪を贖う捧げ物として下さいました。そのキリストの犠牲によって、私たちは罪赦され、その復活の命に与り、今を生かされています。どうか、主の深い愛と私たちに対する期待に応えて、今週一週間を過ごすことができますようにお守り下さい。どうか、どのような場にありましても、あなたはいつも私たちを召し、必要とされていることを確信することができますように、聖書の御言葉を通して、私たちの生活を導いて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。アーメン。