+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

2008413日 日本基督教団信告白講解説教6

申命記
649節、使徒言行録202832


「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与え
ふる神の言にして」


1.キリストの体なる教会を建てる

 先日、私たちは白銀教会の創立記念日礼拝を守りました。今年、白銀教会は創立100周年を迎えたわけですが、この節目の時に「教会とは何か」、「教会は誰がどのようにして建てるのか」ということについて、エフェソの信徒への手紙の御言葉を通して聞きました。そこで私たちは「神の子に対する信仰と知識において一つとなる」ことの大切さを学びました。教会がキリストの体として建てられ、成長するためには、本当に深い所で、神の子を信じる信仰と知識において一致することが大切なのです。自己中心的な私たちを一つに結び合わせることができるのは、イエス・キリスト以外にはおられないからです。そんなことは当たり前だと思うかも知れません。しかし、実際には、教会においても、しばしば、その場の雰囲気によって一つになっているかのように思っていることや、あるいは、ただ表面的にだけ一致しているように見えるが、実際には深い信仰と知識の一致にまで至っていない場合が多いのではないでしょうか。私たちの教会も例外ではありません。神の子に対する信仰と知識において一致していない教会は、様々な人間関係のトラブルによって揺さぶられてしまうのです。ですから、私たちは教会創立100周年を迎えるに当たって、私たちの教会が本当の意味で、神の子に対する信仰と知識において一つとなるために信仰告白の学びを続けてきたのです。



2.神の言としての聖書

 さて、私たちはこれまで日本基督教団信仰告白を順番に学んで参りましたが、今日はその第6回目、

されば、聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして

の部分を学びたいと思います。これは聖書に関する信仰を告白している部分です。日本基督教団信仰告白の一つの特徴は、まず初めに私たちの教会が聖書をどのような書物として理解しているかということを告白していることです。

 ここは「されば」という言葉から始まります。これは前の文章を受けて、「そうであるから」とか、「それゆえに」という意味です。つまり「それゆえに聖書は神の言である」と言っているのです。ただ単に「聖書は神の言である」と言っているのではなく、聖書は「神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる」神の言であると言っているのです。どうして、そう言えるのでしょうか。それは聖書がイエス・キリストを証する書物だからです。前の部分で旧新約聖書は「キリストを証し」とありました。「されば」というのは、そのことを指しているのです。聖書はイエス・キリストを証する書物である。それゆえに、聖書は「神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言」であると言うことができるのです。

 ここで「神の言」と言われている言葉に注目して頂きたいのです。ここでは単に話し言葉の「言葉」ではなく、「言」と一文字で表されています。これを読んで皆さんは恐らく、すぐにヨハネによる福音書の初めの言葉を思い起こされるのではないでしょうか。そこには次のように記されています。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネによる福音書115節)

 ここでは「言葉」ではなく「言」と言われています。この「言」はこの世界が造られる前から神と共にあり、その「言」それ自身が神であったと言われています。しかも、世界のすべてのものはこの言によって成ったと言われているのです。この「言」は単なる話し言葉に使われるコミュニケーションのための道具ではなくて、それ自体の内に命があり、すべてのものに命を与えることのできる「言」なのです。このヨハネによる福音書の初めの部分は、明らかにあの創世記の初めの部分を意識して書かれたと言われています。創世記の初めには、神がこの「言」によって世界を創造したことが記されているのです。創世記13節には次のようにあります。

神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。

 ここでは神が「光あれ」と語られると、その通りになったということが語られています。神の言は私たちが語る言葉とは違います。私たちが語る言葉は実際にあった出来事や物事について語ることはできます。「太陽の光が明るく輝いている」とか、「光がなければ、何も見ることができない」など、実際にあることを語ることはできます。しかし、私たちが語る言葉がそのまま現実になるかというと、決してそんなことはありません。私たちが「光あれ」と言っても実際に光を造り出すことはできません。しかし、神の言は違うのです。神の言は現実そのものを造り出すことができるのです。なぜなら、神の言には「命」が宿っているからです。神はこの命の言によって、世界のすべてのものをお造りになられたのです。私たち人間も神の言によって命を与えられ、造られた者たちです。神の言は生命の源なのです。


3.肉となられた言

更にヨハネによる福音書114節には驚くべきことが書かれています。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 ヨハネによる福音書は、世の初めから神と共にあった「言」の存在を証しているのですが、この命の源である神の言が今や肉となって、わたしたちの間に宿られたのです。つまり、神が人となられたのです。ここでは明らかに、イエス・キリストのことが証されています。ヨハネによる福音書は、イエス・キリストというお方が単なる人間ではないと証しているのです。イエス・キリストは、その方自身の中に永遠の命を宿しておられる神の言であり、父の独り子に他ならない。そのお方が人となって私たちの所に来て下さったのだと証するのです。

 更に続く118節では次のように言われます。

 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 私たちの中で神をこの目で見たという人はいません。神は目には見えない御方です。しかし、ただ一人だけ神を見たことがある方がおられるのです。ただ一瞬だけ見たというのではなく、その温かい懐に安らいで、いつも父なる神と共におられた方が存在するのです。ここで「父に懐にいる独り子」という表現が使われていることは注目に値します。父の懐の温もりは他人の子供には決して知ることのできないものです。その親の子だけが知っている温もりです。父なる神の温もりをただ一人味わったことのある方。それが御子イエス・キリストというお方なのです。このお方は世界が造られる前から、永遠に天の父と共におられたのです。そのお方が人となって私たちの所に来て下さり、神を示して下さったのみならず、私たちのために必要な救いの御業をすべて成し遂げて下さったのです。

神を見たことがある方はイエス・キリストただお一人でありますから、私たちはイエス・キリストによらなければ、決して本当の神を知ることも、救いに与ることもできないのです逆に言えば、神について知るために、もはやイエス・キリスト以外の方を必要としないのですイエス・キリストは神について完全な知識を私たちに与えて下さるお方ですそれのみならず、私たちの救いに必要なことを一切成し遂げて下さったのですイエス・キリストが与えて下さる救いは、私たちにとって完全であり、それ以外の救いや助けは一切必要ないのです聖書はその意味で「神につき、救いについて全き知識」を私たちに与えてくれるのです。私たちは聖書を通して、イエス・キリストと出会ったならば、もはや神について知るために他の書物を読む必要はなくなるのです

イエス・キリストは十字架の死を遂げられ、三日目に復活なされた後、天に昇り、全能の父なる神の右に座されました。今、私たちはその御姿を目で見ることはできません。しかし、イエス・キリストは御自身の聖霊により、御自身を証する聖書の御言葉を通して、今、私たちに現実に生きて働きかけ、私たちを罪と死の支配から救い出して下さるのです。今日学んでいる信仰告白の箇所でも、「聖書は聖霊によりて…」と、わざわざ「聖霊によりて」という言葉が入っています。私たちが聖書の御言葉を読み、そこに「聖霊」が働く時に、それは私たちを救い、生かす神の言となります。神はそのような仕方で、私たちを救いへと導いて下さるのです。神は聖書の御言葉を通して働く聖霊によって、私たちを救いへと導いて下さるのです。神はこの神の言によって教会を造り上げるのです


4.教会を造り上げる言葉

 今日与えられました使徒言行録2032節の御言葉は、そのことについて深く私たちに教えてくれます。そこには次のように記されています。

 「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。

 これは、使徒パウロがエフェソの教会の信徒たちに今、別れを告げる場面です。31節によりますと、パウロは3年間、エフェソの信徒一人一人に昼も夜もなく、寝る間も惜しんで、時には涙を流して聖書の御言葉を教えてきたのです。しかし、今パウロは聖霊に促されて、エルサレムに行こうとしている。そこで彼は自分が人々から迫害を受けることを予想していました。恐らく、もう二度とエフェソの教会の信徒たちと会うことはできないことを知っていたのです。37節によれば、エフェソの人々もパウロとの別れを惜しんで、彼の首を抱いて涙を流したのです。それほどにパウロとエフェソの教会の信徒たちとは深い絆で結ばれていたのです。

 しかし、それは単なる人間的な親しさによる結びつきではありませんでした。それはキリストによる結びつきでした。そのキリストの僕として、パウロはエフェソの教会の信徒たちと共に、キリストの体なる教会を建てる業に励んだのです。彼は自分が努力して、エフェソの教会をここまで築き上げてきたと思うことはありませんでした。あるいは、ここでは特にエフェソの教会の長老たちに別れを告げている場面でありますが――長老たちというのは、私たちの教会で言ったら役員のこと、神に選ばれ、群を守るために選らばれた人々のことです――その有力な長老たちの力によって教会が建てられたと言っているのでもありません。パウロは次のように言っているのです。

そして、今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。

パウロは神の御言葉を語る務めを委ねられて、エフェソの教会へと遣わされて参りました。そのパウロが今や別の場所に行ってしまうということは、この教会の信徒たちに神の御言葉を語ってくれる伝道者がいなくなるということです。これは今の私たちの教会で言えば、教会が無牧になるということです。しかし、無牧になった教会におきましても、神は決して御言葉を語る務めをそのまま放っておかれるのではなくて、その務めを長老たちに委ねるのです。しかし、委ねると申しましても、パウロがいなくなった後、後は長老たちの力によって教会を支えて、成長させて行くと言っているのではありません。ここでは「神と恵みの言葉にあなたがたをゆだねる」と言っているのです。その逆ではありません。「あなたがたに神の言葉を語る言葉を委ねる」と言っているのではないのです。これは非常に大切なことです。パウロのような伝道者でありましても、神の言葉に仕える一人の僕に過ぎません。彼が忠実に神の言葉の務めに仕える限りにおいてのみ、彼は教会を建てる器として用いて頂けるのです。これは教会の長老、あるいは役員についても同じことが言えます。長老として、あるいは役員として相応しい資格は何でしょうか。それは特にこの世で有名であるとか、活躍しているとか、そういうことではありません。そうではなくて、本当に自分自身を神の御言葉に委ね、その御言葉に仕える僕となり切ることができる。そのことが長老、あるいは役員に求められている資格です。そのような人々の働きによって、キリストの体が造り上げられて行くのです。

 ここでは「この言葉は、あなたがたを造り上げ」とあります。「造り上げる」という言葉は、それだけ読みますと、聖書は人間にいろいろと人として生きる上で大切なことを教えて、立派な人間を造り上げる、そういう書物なのだと理解できなくもありません。「造り上げる」という言葉は、人を「教育する」とか「啓発する」というような内面的な意味で用いられる言葉です。そうすると、人を造り上げるというのは、その人を内面的に成長させる。聖書はそのような書物であると言っているようにも理解できます。

しかし、ここでは「あなたがた」と複数で言われていることに注意しなければなりません。パウロが「あなたがた」と複数で語る時には、いつも「教会」のことを念頭に置いているのです。そうすると、ここでパウロは神の言葉が、ただ個々の人間を内面的に立派な人間へと造り上げるというようなことを語っているのではなくて、神の言葉は人と人とを結び合わせ、組み合わせて、キリストの体なる教会を造り上げるのだと語っているのです。先週学びましたエフェソの信徒への手紙412節においても、「キリストの体を造り上げてゆき」とありましたが、新約聖書の中で「造り上げる」という言葉が使われる時には、いつも教会のことが考えられているのです。神の言葉は私たち一人一人を整え、組み合わせて、キリストの体なる教会を造り上げることができるのです


5.神の子に与えられる相続

 さらにパウロはそれに続いて次のように言っています。この言葉は、

聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。

 聖書はしばしば教会の信徒のことを「聖なる者」あるいは「聖なる者とされた人々」と呼びます。それはその人自身が立派で、聖い人だと言っているのではありません。そうではなくて、この「聖」という字は、神がご自分のものとして、他のものから取り分けられる、別にされるという意味の言葉です。つまり、「聖なる者とされた人々」というのは、イエス・キリストのものとされた人々のことを指しているのです。ですから、「聖徒の交わり」とは、体も魂も完全にイエス・キリストのものとされた人々の交わりのことを言っているのです。

神の恵みの言葉は、そういう人々と共に、あなたがたに恵みを受け継がせることができるのです。ここで「恵みを受け継がせる」と訳されている言葉は、元の文を見ますと「恵み」という言葉はありません。むしろ、文字通りに訳しますと、「相続を与える」となっています。「神の恵みの言葉は、あなたがたに相続を与えることができる」と言っているのです。相続というのは、親から子へと受け継がれる遺産のことです。つまり、ここで言う相続とは、天の父なる神様から神の子らに与えられる相続のこと、すなわち、神の国における「永遠の命」に他なりません。私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって、罪赦され、神の子として生まれ変わらされた者たちです。その私たちには天において「永遠の命」が相続として約束されているのです。神の恵みの言葉は、その相続を私たちに約束するものであるのです。

 神は礼拝において、御自身の恵みの御言葉の説教を通して、キリストに対する信仰を私たちの内に起こし、キリストの救いに与らせて下さる。そして、私たちを罪から贖い出し、キリストの御身体なる教会の肢として繋ぎ、そこにおいて、復活の命に生きるようにして下さるのです。私たちにとって、キリストと一つに結び合されるということは、キリストの体なる教会の肢として兄弟姉妹と一つに結び合されることに他なりません。この聖徒たちの交わりに連なることによって、私たちはキリストの体として結び合され、建てられ、成長させられる。そして、遂には、救いに至り、天における永遠の命に与ることができるのです。聖書の御言葉は、そのようにキリストの体なる教会を造り上げ、私たちを救いに与らせる力を持っているのです。私たちが今ここで生ける神の言葉を聞くことが許されている。その御言葉を通して、生ける復活のキリストに出会い、その救いに与ることができるということは何と幸いなことでありましょうか。私たちも聖書が証する神の言であるイエス・キリストによって一つとされる教会を目指して歩んで参りましょう。

天の父よ

 今日も、聖書を通し、聖霊を通して、あなたの命の御言葉をお与えくださり感謝致します。私たちはこうして、御前に礼拝に集うことを通して、この世では聞くことのできない、命の御言葉を聞き、根本から新しく造り変えられ、生きる力を与えられることを心から感謝致します。どうか、これからも私たちが傲慢で頑なな心を捨て、神の言によって打ち砕かれ、整えられて、キリストを通してしっかりと組み合わされ、キリストの体なる教会を形造って行くことができますようにお守り下さい。どうか、私たちの信仰生活が単なる自己満足に終始したり、自分自身に栄光を帰するような者となりませんように、本当に兄弟姉妹の救いのために自らを捧げ、互いの救いと益のために労する者とならせて下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。