+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

200832日 日本基督教団信告白講解説教5

申命記
649節、テモテへの手紙U31417

「教会の拠るべき唯一の正典なり」


1.「教会のよるべき唯一の正典なり」

 私たちは白銀教会の創立100周年を迎えるに当たりまして、もう一度、私たちの信仰の原点に立ち返るために、これまで日本基督教団信仰告白を続けて学んで参りました。本日はその第五回目、旧新約聖書は「教会のよるべき唯一の正典なり」という信仰告白に基づいて説教を致します。私たちはこれまで続けて、日本基督教団信仰告白の聖書に関する部分を学んで参りましたが、ここでは聖書が私たちの教会にとってどういう書物であるかということを明確に告白しています。つまり、旧新約聖書は私たちの

教会のよるべき唯一の正典なり

と告白しているのです。これは当たり前のことのようですが、必ずしもそうではないのです。教会はいつでも聖書だけを教会のよるべき唯一の正典としてきたかというとそうではないのです。それによって、教会が誤った方向へと進んでしまったこともありました。

 私たちはここでまず「正典」という言葉に注目したいと思います。この「正典」という言葉は、ギリシャ語で「カノン」と言います。「カノン」と言いますと、音楽でも最初に歌い出した旋律を後の人がそれを忠実に模倣しながら進んで行くやり方を指します。輪唱もその一つです。最近では「カノンちゃん」という女の子もいますし、カメラで有名な「キャノン」も同じ語源から来ています。

これは元々「定規・規準」を意味する言葉です。旧約聖書の言葉では植物の「葦」を意味する言葉に由来するそうです。当時、葦は物の長さを測る物差しとしての役割を果たしていたからです。教会においてはすべてのことがこの一つの物差しによって測られるのです。私たちが信じていることが果たして正しいことか否か、私たちが自分勝手な信仰を持っていないか、それを測る基準が正典としての聖書なのです

 しかし、聖書の影響力は教会の中だけに留まりません。聖書は世界のベストセラーと言われます。聖書ほど人々に読まれ、そして、決定的に世界史に影響を与えてきた書物は他にありません。これこそまさに生ける神の言葉が記された啓示の書なのです。聖書がこの世界に与えた影響は測り知れません。一つ例を挙げるならば、アメリカ合衆国の初代大統領であるジョージ・ワシントンは「神と聖書を抜きにして世界を正しく治めることは不可能である」と言ったと伝えられています。まさに、世界をリードするアメリカ社会の根底には聖書に対する信仰があるのです。


2.生きる上での基準

 さて、私たちは生きる上で良いことと悪いこと、正しいことと間違っていることを判断する基準を必要としています。では、私たちは何を基準として生きているでしょうか。私たちが大抵の場合、自分を基準にして生きているのではないでしょうか。自分の経験とか、理性とか、物の考え方とか、いずれにしてもいつも判断の基準は自分にあります。ところが、まさにそこに問題があるのです。聖書はそれを問題としているのですが、私たちが自分を基準として生きる時に、人間は知らず知らずの内に誤った方向へと進んでしまうことがあるのです。問題はそのことに気づかないということなのです。なぜなら、私たちはどうしても、自分の欲に目が眩み、目が曇ってしまって、きちんと物事を見ることができないからです。あの創世記のアダムとエバの物語が示すように、人間が自分自身を善悪の基準とする所から、人間の罪の歴史がはじまり、堕落が始まったのです。ですから、私たちには私たちの足元を照らし、人生を導いてくれる確かな言葉が必要なのです。人間の欲に捕らわれることのない確かな基準が必要なのです。それがまさに聖書なのです。

 今日与えられました御言葉はそのことを私たちに教えてくれます。

だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。

これは、使徒パウロが最も信頼していた同労者のテモテに語った言葉です。テモテはパウロによって導かれ、キリストを救い主と信じるようになったのです。彼にとってパウロは信仰の父でした。パウロも彼のことを信仰によって生み出した子として愛していました。元々、テモテは母親の影響で、ユダヤ教の教育を受けて育ちました。申命記649節に記されておりますように、ユダヤ人は幼い時から聖書を暗記することによって教育を受けます。

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

テモテは旧約聖書を通して、主なる神を唯一の主として愛することを学んで来たのです。しかし、テモテに一つだけ欠けていることがありました。それは旧約聖書が本来イエス・キリストについて書かれた書物であるということを知らなかったことです。彼はパウロを通して、「主」とはイエス・キリストに他ならないことを知るようになりました。彼はイエス・キリストを知って、初めて本当の意味で旧約聖書を理解できるようになりました。

 幼い時にどういう教育を受けるかは、その子の生涯に決定的な影響を及ぼします。白銀教会の関係幼稚園である、白銀・馬場両幼稚園では、毎年卒園する子どもたちに聖書をプレゼントすることにしています。私たちは聖書を子どもたちがこれから希望をもって、大きく成長してほしい。そう願って聖書をプレゼントします。幼稚園の子供たちは幼稚園にいる間、毎日聖書の御言葉を聞いて育ちます。毎月決められた聖句を暗唱します。子どもたちはとっても素直です。大人でも覚えられないような長い聖句や難しい聖句でも、子どもたちは見事に暗唱してしまいます。そのことがこれから成長してゆく子供たちに、どれだけ大きな影響を与えることでしょうか。必ずしもすべての子供たちがキリスト教の信仰を持つとは限りません。しかし、意識していなくても、きっと将来大人になった時、幼い時に学んだ聖書が知らず知らずの内に、彼らの判断の基準になるのではないかと思います。


3.プロテスタントの聖書信仰

 特に私たちのプロテスタント教会は、この聖書を「教会の拠るべき唯一の正典」として歩んできました。これはローマ・カトリックの伝統と比べると明らかに違いがあります。ローマ・カトリック教会においては、聖書以外にもう一つの基準として、「教会が受け継いできた言い伝え」を持っています。そのような教会のあり方に対して抗議をしたことから生まれたのが、私たちのプロテスタント教会でした。宗教改革者マルチン・ルターは、当時のローマ・カトリックの贖宥券(免罪符)のあり方を批判しまして、「聖書にはそのようなことは一切記されていない。聖書は、ただ人がイエス・キリストを真の救い主として信じ、心から自らの罪を悔い改めることによってのみ罪赦され、救われると教えているのであって、贖宥券を買うことによって罪赦されるのではない」と言って、もう一度、聖書に立ち帰ることによって教会の堕落を正そうとしたのです。「プロテスタント」という言葉は「抗議する者たち」という意味の言葉です。その意味は、聖書を唯一の正典として、教会の間違った教えやあり方に対して抗議して行く。絶えず聖書を基準として抗議して行く。それが私たちのプロテスタントの「聖書のみ」という信仰なのです。私たちはこの宗教改革の時代に明確にされた信仰を「信仰告白」という仕方で受け継いできたのです。日本基督教団信仰告白は「聖書が教会の拠るべき唯一の正典なり」と告白することによって、このプロテスタント教会の信仰を受け継いできたのです。私たちの白銀教会も、この「聖書のみ」という信仰を受け継いでこれまで歩んできました。


4.天に召された兄弟姉妹たちの生涯

 先日、長く私たちの白銀教会の会員として仕えて来られた一人の姉妹が96歳で天に召され、その葬儀の式を営みました。姉妹は28年前に亡くなられたご主人と共に、白銀教会の100年に亘る歴史において大きな働きを担って来られました。私が白銀教会に牧師として赴任致しましてから、まだ4年半ほどしか経っておりませんが、その間に9人の白銀教会の兄弟姉妹を天にお送りしました。その中でも特にこの姉妹を含めて、これまで白銀教会の婦人部において中心的なお働きを担って来られた方々を次々に天にお送りしました。それらの方々のご生涯を振り返りますと、それぞれの歩んできた人生の道のりは全く異なるのですが、一つだけ共通することがあるのです。それは皆、聖書の御言葉によって人生を導きかれてきたということです。

特にこの度天に召された姉妹に関して申し上げますと、姉妹は「賛美の人」であったと言うことができます。生涯オルガニストとして教会に仕え、特にバッハのマタイ受難曲を愛されました。姉妹はご自分の葬儀の時に、ご自分で演奏されたマタイ受難曲のテープを録音され、それを流すようにとの遺言を遺されたのです。それを献花の際に流して、故人を偲びました。


5.マタイ受難曲

 今、私たちは丁度受難節の時を歩んでいますが、マタイ受難曲はヨーロッパの音楽史上最高傑作と評されるほどの荘大な宗教曲と言われます。バッハはプロテスタント教会の信者です。彼の音楽はプロテスタントの信仰を明確に表わしています。彼は作曲家であり、オルガニストでありました。彼の音楽は礼拝の中から生まれてきたものであり、礼拝に仕えるためのものです。日本にはバッハ愛好家は大勢います。その音楽の深い宗教性に心打たれる人が多いのです。しかし、どの程度の人が本当にバッハの音楽の深い宗教性を理解しているでしょうか。もちろん、彼の音楽の宗教性が他に類を見ないほど深いことは誰でも認めることです。しかし、彼の音楽の本当の深さは、それが聖書を忠実に音楽の基盤としていることにあります。彼はまさに聖書を「教会のよるべき唯一の正典」として作曲しました。それを荘大な宗教曲でもって表現しているのです。

マタイ受難曲は、マタイによる福音書の受難物語に基づいて、キリストの十字架の死に至る道を一つ一つ心に刻みつけるようにして、言葉を何度も重ねながらゆっくりと進んで行きます。ところどころ独唱によって歌われる所や、合唱によって歌われる個所がありますが、すべてはただ一点を目指して進んで行くのです。それは最後の「キリストの十字架の死と葬り」です。私たちの罪を贖うために十字架の死を遂げられ、墓の中に横たわるキリストに向って、涙を流しながらキリストに対する愛と信仰を合唱によって告白するのです。78曲に及ぶ壮大なスケールの受難曲はすべてこの最後の一点に集約されて行くのです。聖書の焦点とマタイ受難曲の焦点はぴったりと合っています。聖書も全巻を通して、ただこの一点に向かっているのです。つまり、十字架に架けられ、血を流されたキリストです。このイエス・キリストこそ真の神であり、真の救い主であること、そして、この方の十字架の死と復活を信じることによってのみ私たちの罪が赦される。そこにのみ救いがある。そこにまさに聖書が語ろうとしている中心的なメッセージがあるのです。聖書の焦点とマタイ受難曲の焦点は見事に一致しています。

 聖書が教会のよるべき唯一の正典であるということは、ただその文字に固執するということではありません。そうではなく、聖書が全巻を通して証しているイエス・キリストに目を向けることが大切ですキリストは今も生きておられます。キリストは聖霊を通し、聖書の御言葉を通して、今私たちに語りかけて下さる。だから、聖書は教会の拠るべき唯一の正典なのです。聖書に拠らなければ、私たちはこの方の御言葉を聞くことはできないのです。私たちの教会もこの聖書を教会の拠るべき唯一の正典として掲げ、この真の救い主の御言葉に導かれて歩んで参りましょう。

天の父よ

 今、受難節を歩む中で、聖書を通して、あなたの生ける御言葉を聞くことができ感謝致します。あなたは私たちに聖書という掛け替えのない宝を下さいました。どれだけ多くの人々がこの聖書を通して、真の救い主なるキリストに出会い、慰めを与えられ、生かされてきたことでしょうか。あなたの深い愛を感謝致します。どうか、教会創立100周年を迎える私たちの教会が正しい信仰に立ち、聖書において啓示された神の言葉によってのみ固く立つ教会として、これからも歩んで行くことができますようにお守り下さい。

 過ぐる日に私たちは、私たちの教会の歴史を歩み続けてきた一人の姉妹を天にお送りいたしました。あなたは生涯の間姉妹を憐れみ、真の救いへと導いて下さいました。そして、姉妹を通して私たちにも大きな励ましと慰めを与えて下さいました。どうか、今、地上の別れを経験して悲しみの中にあります方々の上に、特にご遺族の上に、あなたが上よりの慰めをお与えください。私たちも姉妹が生涯見上げ続けた主を仰ぎ見つつ歩んで行くことができますようにお守り下さい。この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、お捧げ致します。アーメン。