+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

200823日 日本基督教団信告白講解説教4

詩編861113節、ローマの信徒への手紙11618

「福音の真理を示し」


1.信仰告白の学びの意味

 私たちの白銀教会は今年教会創立100周年を迎えます。すでに100周年を記念して幾つかの事業が実行され、また行事が計画されていますが、その中でも私たちが最も大切にしてきたのが「信仰告白の学び」です。これまで毎月第一日曜日の礼拝においては「使徒信条」ならびに「日本基督教団信仰告白」の連続講解説教を行ってきました。それと並行して、今日も礼拝の後に行われます「教会セミナー」におきましても、「日本基督教団信仰告白」を二年間、計六回にわたって学んで参りました。

なぜ教会創立100周年を迎えるに当たり信仰告白を学ぶのでしょうか。それは私たちが「教会とは何か」「教会が果たすべき使命とは何か」ということをもう一度原点に立ち返ることによって確認し、しっかりとした信仰の土台の上にこれからの教会を築いて行くために他なりません。信仰告白は私たちの教会が何を信じ、何によって教会が立つのかを最も簡単明瞭に表わした文書です。

 使徒信条は世界信条とも呼ばれ、世界の教会(主に西方教会)が共通して告白している信仰告白です。それは紀元2世紀に遡ります。大変古くからある信仰告白です。それに対して「日本基督教団信仰告白」は1954年に制定されたもので、日本基督教団に属する教会においてだけ告白されているものです。他の教団で用いられることはありません。ですから、その教会が日本基督教団に属する教会であるかどうかは、この「日本基督教団信仰告白」を告白するかどうかによって決まるのです。日本基督教団は歴史的な事情もあり、様々な教派的背景を持った教会が集まった合同教会です。そのような教派的な背景の違いを越えて、私たちの教団が本当に一つの教団であると言えるのは「日本基督教団信仰告白」を告白しているからなのです。この信仰告白こそが日本基督教団に連なる1730の教会を一つに束ねている帯紐であり、私たちの教会の信仰の旗印なのです。私たちの教団がどのような信仰を持った教団であるのか、そのことを一番はっきりと示すのがこの信仰告白なのです。

 とは申しましても、その中で告白されている内容は私たちの教団が勝手に考え出したものではありません。それは聖書の信仰から逸脱したり、あるいは他の正統なキリスト教会の信仰と比べて何か異質なものであるというわけではありません。そうではなく、この信仰告白は私たちの教会が正統なプロテスタント教会の信仰を持った教団であるということを公に示す信仰告白なのです。そのことは日本基督教団の中だけにいたのではあまり意識する機会がないかも知れません。しかし、他の教団に行きますと、改めて私たちの教団の信仰とは一体何であるのかを意識させられることがあります。


2.「日本基督教団信仰告白」の普遍性

 私は2001年から2003年までドイツ福音主義教会の奨学金を受けて、ドイツと日本のプロテスタント教会の交流のために派遣され、ドイツのミュンヘンにおいて学んでおりました。あちらの受け入れの母体となったのは、ドイツ福音主義教会に属する「キリスト教社会奉仕事業団」でした。普段はミュンヘンにあります教会の学生寮に住んでいましたが、年に2度、社会奉仕事業団主催の研修旅行があり、ドイツのあちこちの教会やキリスト教の社会奉仕団体を見学して回りました。ドイツ福音主義教会は23の州教会によって成り立っていますが、丁度私がドイツに留学して半年ほど過ぎた時、ドイツの一番北の州教会(ノルドエルビエン)を見学することになりました。ドイツは唯一北だけがバルト海と北海に面していますが、そこでドイツで初めて海を見ました。

 その時の研修旅行では、丁度私が朝の礼拝当番に当たり、説教をすることになりました。礼拝の中で日本基督教団の紹介も兼ねて話をするようにということでしたが、どうしたら私たちの教団を一番的確に紹介できるかといろいろと考えました。そこで一緒に「日本基督教団信仰告白」を告白しようと考えたのです。そこには様々な国の留学生が来ていました。ロシア、キルギス、ウクライナ、アルメニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、インド、ギリシャ、エジプト、レバノンの正教会の留学生、ルーマニアやハンガリーの改革派教会の留学生、カザフスタン、エストニア、ハンガリー、ブラジル、リトアニアのルター派教会の留学生、スロバキアの学生、それから韓国や台湾の長老主義教会の留学生、マダガスカルの留学生など、実にさまざまな国の教派出身の学生たちが50名ほどそこに集まっていました。その礼拝において、共に日本基督教団信仰告白を告白して、私たちの教団を紹介できたらどんなに素晴らしいことかと思い、四苦八苦してドイツ語に翻訳しました。あちらではドイツ語が唯一の共通語であったからです。当日は礼拝の前にドイツ語に訳された日本基督教団信仰告白を印刷して、一人一人の手許に配り、皆で告白しました。それは感動的な瞬間でした。

さて礼拝が終わった後、あるルーマニアから来た改革派教会の留学生から声をかけられました。それまで彼とは一言も言葉を交わしたことがありませんでしたが、突然向こうから声をかけて来たのです。そして、「先ほどの信仰告白の言葉にとても感銘を受けました」と感想を聞かせてくれたのです。それは「自分の心が揺り動かされる」という意味の言葉でした。彼は東欧のルーマニアの改革派教会の出身です。私たちとは国も文化も全く違う学生です。そういう見ず知らずの学生と突然そこで出会い、信仰告白を通して信仰による一致を経験することができたのです。その時、「福音の真理」は国や時代を越えて変ることのないものだということを肌で実感することができました。確かに「日本基督教団信仰告白」は私たちの教団独自の告白です。しかし、そこで告白されている内容は時代を超え、民族を超えた、聖書が証する福音の真理なのです。そのことを確かめることができて本当に感激しました。


3.「福音の真理を示し」

今日は「日本基督教団信仰告白」の講解説教の第四回目、

「福音の真理を示し」

の部分を取り上げます。ここは聖書に関する告白の部分です。「日本基督教団信仰告白」は聖書に関する告白から始まっています。

 「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会のよるべき唯一の聖典なり。」

 「日本基督教団信仰告白」は聖書の内容を二つの言葉で言い表しています。一つは、聖書が「キリストを証する」書物であるということ、そして、もう一つは「福音の真理を示す」書物であるということです。これは同じことを言葉を換えて表現しているのです。「キリストを証する」ということと、「福音の真理を示す」ということは全く同じことです。なぜなら、「福音の真理」とはイエス・キリストのことに他ならないからです。それは新約聖書だけではなく、旧約聖書を含めた聖書全巻について言えることなのです。旧約聖書こそ「キリストを証する」書物であり、「福音の真理を示す」書物なのです。私たちは果たして旧約聖書をそのように読んでいるでありましょうか。パウロはローマの信徒への手紙において、実はそこに目的があったのです。つまり、この旧約聖書が「キリストを証する」書物であるということ、「福音の真理を示す」書物であるということをローマの教会の人々に示そうとしたのです。


4.真理とは何か。

 パウロは、特に先ほどお読みしましたローマの信徒への手紙11618節において、「福音の真理」とは何であるかを的確に表現しています。18節には「真理」という言葉が出てきます。そこでは

不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます

とあります。「不義」とは人間の罪のことですが、ここでは人間の罪とは「真理の働きを妨げる」ことであると言われているのです。

そもそも「真理」と何でしょうか。一般的には真理というのは「変わることのないもの」のことです。時代を超えたものです。国境を越えたものです。その時々の状況によって変わることのないもの、すべての時代の人々に当てはまるものです。

 皆さんは果たして「真理」を求めているでしょうか。改めてそう聞かれますと自信がなくなるかも知れません。しかし、私たちは気付かなくても、みんな真理を求めて生きていると思います。むしろ、私たちは「真理」がなければ生きては行けないのです。何も信じることができるものがなくなったら、私たちは生きては行けないのではないでしょうか。真理があるからこそ、私たちはいろいろ辛いことや悲しいことがあっても、それに耐えて生きて行けるのです。真理こそ私たちを生かす力なのです。

 私たちは人生の中でいろいろな経験を致します。人から裏切られたり、騙されたり、あるいは、反対に人を裏切り、傷つけてしまうこともあります。そういう経験を致しますと、「一体何を信じたら良いのか分からない。もう人を信じたくない。これ以上傷つきたくない」と自分の殻の中に閉じこもってしまうのではないでしょうか。

昨年一年を表す言葉に「偽」が選ばれたということからも、私たちを取り巻く環境がいかに厳しいものであるかが分かります。ある人は「政治の世界からスポーツ選手に至るまで、社会の到る所で偽が発覚し、何を信じたら良いのか分からなくなった一年であった」と言うのです。今、私たちの社会は余りにも嘘、偽りが蔓延り、人間の不義が支配しているために、私たちは何を信じたら良いか分らなくなっています。

実際にこうして皆さんが教会に来られたのも、人生において人から裏切られたり、騙されたりして人間不信に陥り、そのことがきっかけで教会に足を運んだという人が少なくないと思います。教会には何か、変わることのない真理がある、そこには真実なものがあると期待して教会に来られたのではないでしょうか。私たちは他の人やあるいは自分自身に失望すればするほど、反って変わることのない真理を求めるようになるのです。誰でも世の中に一人くらい正義を行う人がいて欲しいと思うものです。私利私欲に捕らわれず、本当に正義に立って真理を語ってくれる人がいて欲しいと思うものです。


5.神のまこと

 ところで、新約聖書で「真理」と訳されている言葉は、旧約聖書では「まこと」と訳されます。先ほどお読みしました詩編8611節にその言葉が出てきました。

主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。

ここで詩編の詩人は「あなたのまことの中を歩みます」と言っています。「主なる神のまこと」です。それは変ることのない神の愛を示しています。より具体的に言えば、それは「契約に基づいた愛」です。主なる神はイスラエルの民と結ばれた契約をどこまでも忠実に守られる方です。そこに「神のまこと」があり、「信実」(真実)があります。たとえ、相手が裏切ったとしても、神は御自分の立てられた契約を破ることはなさらないのです。神様だけは絶対に私たちを裏切らず、見捨てることはなさらないのです。それが「神のまこと」です。

しかし、それは甘ったるい、何でも水に流すような愛とは違います。真実な愛は裏切られた時には怒りに変わります。裏切られても怒りにならない愛は真実な愛ではありません。真実の愛は不義を赦すことはできません。裏切る者に対しては、炎のごとく怒りを燃やす。それが真実な愛です。聖書の神は義なる神です。どこまでも正義を貫く神です。裏切られた時には真剣に怒る。人間の罪に対して怒り、その罪を罰するのが真実な神の愛です。

しかし、神はその裁きを罪を犯した人間に下すのではなく、自らが人間となってその裁きを身に負われたのです。罪を犯した人間を滅ぼしてしまうのではなくて、むしろ、自らがその罪の罰を負うことによって人間を救う。それが福音において啓示された「神の義」なのですまさにイエス・キリストの十字架の死と復活を通して「神のまこと」は示されました。一体これほど真剣に私たちのことを愛して下さる方が他にいるでしょうか。

 私たちの信仰生活は、私たちの熱心さによって成り立っているのではありません。そうではなく、この変わることのない「神のまこと」によって支えられているのです。そのことが17節において言われていることなのです。17節の言葉は

福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです

とあります。前の口語訳では「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」と訳されていました。ある学者によりますと、この「信仰」と訳されている言葉は「信実」とも訳すことのできます。旧約聖書の「まこと」と同じ言葉です。そして、最初の「信仰」という言葉は「神の信実(まこと)」を表し、後の「信仰」は「人間の信仰(信頼)」を表すと理解するのです。そうすると、ここで言おうとしていることは、「神の義は神の信実から始まり、人間の信仰へと至らせる」という意味になります。つまり、まず最初に変わることのない神の信実があるからこそ、私たち人間は信じ続けることができるということなのです。人間の信仰は神の信実によって支えられているのです。それが真理ではないでしょうか。

そのように読むと、その後に続く言葉も違う風に読むことができます。そこには

正しい者は信仰によって生きる

とあります。これは旧約聖書のハバクク書24節の御言葉です。これだけ読みますと「正しい人が固い信仰をもって生きる」と解釈できないこともありません。

しかし、興味深いことは、イエス様の時代に使われていた旧約聖書のギリシャ語訳というのがあるのですが、そこでは

正しい者は私の真実の中で生きるであろう

と訳されているのです。「わたし」というのは「神様」のことです。パウロは明らかにこのギリシャ語訳を知っていて、この手紙を書いたと思われます。つまり、ここでは「熱心な信仰を持っている人だけが正しい生き方をできる」というようなことを言っているのではなくて、私たちのように頼りない、揺らぎやすい信仰であっても「神のまことの中で生き続けることができる」。神の信実に支えられて、私たちは信仰生活を送ることができると読むことができるのです。先ほどの詩編の詩人が「わたしはあなたのまことの中を歩みます」と語ったように、正しい人は神の真実の中を歩むのです。それが本当ではないでしょうか。私たちの信仰は実に当てにならないものです。ちょっとしたことに揺れ動いてしまう弱い信仰です。しかし、それでもなお信じ続けることができるのは、神の信実が変ることがないからです。人間は何度揺らぎ、何度躓いても、神の信実に立ち帰ることができる。立ち帰る場所がある。私たちの信仰生活はまさにこの変わることのない神の信実によって支えられているのです。この「神のまこと」を詩編の詩人は詩編8613節で見事に言い表しています。

 「あなたの慈しみはわたしを超えて大きく、深い陰府からわたしの魂を救い出してくださいます。

 私たちが神を裏切り、罪の中に陥ったとしても、神は変ることのない真実な愛をもって私たちを深い陰府から救い出してくださる。この神の真実な愛がイエス・キリストの十字架の死と復活を通して示されたのです。私たちの世界は偽りに満ちています。しかし、本当に深い所で私たちの世界を支えているのは神の信実なのです。私たちを絶対に裏切らないものがこの世界にたった一つ存在する。それが神の真実な愛なのです。この神の信実が私たちの人生を導き、この世界の歴史を導いている。だとするならば、私たちは希望をもって歩むことができます。この変わることのない福音の真理を人々に宣べ伝えて参りましょう。

天の父よ

 今御言葉を通して、永遠に変わることのない福音の真理を私たちに示してくださり感謝致します。主よ、私たちの周りには、人間関係の中で傷つき、何を信じたら良いか分らなくなっている人々が大勢います。どうか、それらの人々に、一つだけ変ることないもの、信じても良いものがこの世に一つだけあるということ、それがキリストの十字架の死と復活を通して示されたあなたの愛であることを人々に伝えることができますように、真実なるものが教会にあることを伝えて行くことができますようにお導き下さい。私たちの白銀教会がこの福音の真理に固く立つ教会として、これからも成長することができますように。また、この地域に立てられた諸教会や全国、世界各地で立てられた諸教会を通して、福音の真理がこの世にはっきりと示されますようにお導き下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。