+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

200816日 日本基督教団信告白講解説教3

ミカ書
51節、ヨハネによる福音書53940

「キリストを証し」


1.導く星

 私たちは今年初めの主日礼拝をこうして共に守ることが許されました。私たちは毎年、年の初めには、今年の目標や抱負を語り合います。今日もこの礼拝の後、新年交歓会や親石・婦人会合同親睦会において、新年の抱負を語り合います。人それぞれいろいろな抱負があると思います。「あれもしたい、これもしたい」と期待に胸を膨らませていることと思います。

しかし、私たちの人生は、なかなか計画した通りには進んで行かないものです。むしろ、自分の思いだけに捕らわれてしまいますと、とんでもない落とし穴に落ちてしまうことがあります。私たちは誰でも人生を確実・安全に歩むための地図を持っているわけではありません。それを手引きにすれば、人生すべてが上手く行くというようなマニュアルがあるわけでもありません。私たちは皆暗闇の中を手さぐりで歩んでいるような者たちです。そこで大切なことは、私たちが自分の思いで突き進んでしまうのではなくて、私たちの人生を導いてくれる明確な指針、あるいは、例えて申しますならば、私たちの人生を導いてくれる「星」を見出すということです。

 今日は公現日の礼拝ということで、「星」に関する賛美歌を幾つか選びましたが、先ほど礼拝の初めに歌いました賛美歌3番の4節には次のような歌詞がありました。

導く星なる 主のみことばを

われらに与えて つねに慰め、

弱きこころに 力をたまえ」 

聖書の御言葉は、私たちが暗い夜道を歩いている中で、夜空に明るく輝き、私たちの歩みを導いてくれる星に例えることができます。聖書の御言葉は私たちの人生を導く星となり、私たちが小さな石にも躓かないように、私たちが歩む道を上から照らし、導く光となってくれるのです。


2.聖書が証する方

その聖書について、先ほど読みましたヨハネによる福音書53940節は語っていました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

 この言葉はイエス・キリストが2千年前のユダヤ人たちに対して語られた御言葉です。ユダヤ人は聖書の中に人を生かす永遠の命があると思って毎日一生懸命聖書を読み、聖書を研究していました。ユダヤ人は私たちとは比べ物にならないほど、聖書の御言葉に精通しています。この当時はまだ新約聖書はありませんから、ここでいう「聖書」とは旧約聖書のことです。旧約聖書はイエス・キリストを証するために書かれた書物であるとはっきり言っているのです。先ほどお読みしましたミカ書の御言葉はキリストがお生まれになる何百年も前に語られた御言葉ですが、キリストがユダヤのベツレヘムにお生まれになることを約束した御言葉です。そのように旧約聖書は救い主なるキリストが、やがてこの地上にやって来られることを証している書物なのです。

ところが「聖書読みの聖書知らず」ということがあるものです。何度も何度も聖書を最初から最後まで通読している。聖書に精通している。ところが、何のために聖書が書かれたのか、その核心部分については全く理解していない人がいるものです。当時のユダヤ人がそうでした。彼らは毎日熱心に聖書を読み、聖書を研究していましたが、いざ聖書が証していたキリスト本人が来られても、それと気づかず、この方を受け入れようとはしなかったのです。彼らは聖書の文字は大切にしていましたが、結果的に、その聖書が証しているイエス・キリストを十字架に架けて殺してしまったのです。本末転倒とはまさにこのことです。

聖書とイエス・キリストとの関係を例えて申しますならば、それは太陽と月の関係に例えることができます。イエス・キリストが太陽だとすれば、聖書は月の役割を果たしています。月は夜空に輝き、暗い夜道を照らす光となります。しかし、月はそれ自体が光を放っているわけではありません。太陽の光を受けて輝いているのです。月は夜輝くことによって、目には見えない太陽の存在を私たちに間接的に示しているのです。本当に私たちを生かす真の命は月そのものではなく、月の背後にある太陽なのです。私たちはこの月を通して、太陽の存在を知ることが大切なのです。月はこの太陽へと私たちを導く役割を負っているのです。ですから、聖書は聖書そのものが人を生かす命なのではなく、その中に宿るイエス・キリストを指し示す書物なのです。

 聖書の御言葉は、あの東方の占星術の博士たちをキリストの下に導いた星に譬えることができます。東方の博士たちはあの明るく輝く星に導かれて、救い主がお生まれになったユダヤのベツレヘムの馬小屋へと導かれてやって参りました。この星が導いてくれなければ、救い主の下に辿り着くことはできなかったのです。聖書の御言葉は世界でただ一つ、私たちを真の救い主の下へと導くことのできる星なのです。この星に導かれなければ、私たちはキリストの下に辿り着くことはできませんし、真の救いに与ることもできないのですその意味において、聖書は他の書物とは全く異なる「聖なる書物」、神の啓示の書物なのです。日本基督教団信仰告白は、この聖書のもっている独一無比の性格を「キリストを証し」という言葉で要約し、それこそが聖書が何をおいても果たすべき役割であると告白しているのです。


3.『仏教よりキリストへ』

 最近ある本を読みまして、聖書が如何に素晴らしい書物であるかを改めて知らされました。それは亀谷凌雲という人が書いた『仏教よりキリストへ』という書物です。私はこの北陸に赴任致しまして、何度となくこの本について信徒の方から聞かされてきましたが、やっとそれを読む機会に恵まれました。この人は、仏教王国、特に浄土真宗の最も盛んな北陸の越中富山における大谷派の一寺院の長男として生まれ、その寺院の住職にまでなった人です。しかし、「真剣に信仰を求めた結果、唯一の救い主をキリストにおいて見出し、キリスト信者となって、その生まれた寺院のある郷土にキリストの福音を伝え」る牧師となったのです。それが今の富山新庄教会です。

 この方は寺の住職の長男ですから、その寺の住職となって寺を継ぐために、東大の哲学科に進みます。しかし、この方は学問そのものよりも、むしろ、純粋に信仰の道に進みたいという願いが強くあり、宗教学へと進んで行きます。しかも、宗教の儀式よりも、信仰が具体的にどのようにしたら日々の生活に生かされるかということに強く関心を持たれたのです。つまり、宗教と道徳の関係です。この方は信仰が生活に与える影響について興味を持ちました。そして、まず仏教において宗教と道徳の関係について探究した結果、自らが育ってきた「浄土真宗では往生極楽を強調するだけで、道徳実践への指導に欠けている」という認識に到達するのです。そこで、他の宗教の中に、もっと日々の生活に役立つような、具体的に指針を与えてくれる宗教はないものかと探究した結果、キリスト教にたどり着いたというのです。そこでまず旧新約聖書を貪るように読みました。すると、その教えが余りに浄土真宗の教えと似ているので驚いたと言っています。ただ信仰によってのみ救われる他力本願の信仰などがその典型です。私も親鸞の『歎異抄』を呼んだ時、全く同じような感想を持ちました。

 さて、この方はそのような研究を経た後、最初は学校の教師として働きますが、その後、家を継ぎ、寺の住職となります。そこで真剣に仏教の復興について考えたのです。多くの人々は仏教から遠ざかっている。そのような人々をどのようにして仏教に連れ戻すかということで悩んだのです。確かに浄土真宗の説く、往生極楽の道はありがたいが、「しかしどうも日常の力強い道徳の指導に欠けている。…もっと徹底した積極的な道徳生活のあらゆる面にわたれる指導もあってほしいものではないか。私はこれがほしくてたまらなかった。」そう思って、何とかキリスト教の良い点を仏教の中で生かそうとしたのです。

注目すべき点は、この方がどのような点に、仏教の経典と聖書の違いを見たかということです。それについて次の様に言っています。仏教の「経典は漢文である。読む者もよくわかっていないし、聞く者またほとんど分らないのだ。…これをもし聖書のように日本語に翻訳されて拝読していたら、皆の受くる恩恵はばくだいであるは必然である」というのです。この人は段々に聖書の魅力に取りつかれて行きます。聖書の「一つ一つが霊感である。聖書は世界一の私の愛読の書となってきた。心中するなら、聖書と心中したいと思うほどになってきた。」そこまで言うほどになったのです。しかし、その理由が大切です。「どうして聖書がそんなに私になくてならぬものになってきたのだろうか。いうまでもなく、その中に語りたもうイエス・キリストのみことばがあまりにもよかったからである。そのみことばを語りたもうイエス・キリスト御自身が、まさに何ともいえぬよい方だったからである。もう私はそのイエス・キリストにとらえられてしまったのだ。私の入信の動機はまったくここにあったのだ。」「聖書には天地の主なる神が、全宇宙の救い主が、証しせられているのである。他に絶対に見られぬ書である。人類のゆくべき至上の道の示されているただ一つの書である。神の書である。…旧新約聖書こそ人類あらん限りの最大の至宝である。私はこの聖書を通して神を知りまつったのだ。

 もちろん、この方は寺の住職までした方ですから、仏教の教えの素晴らしさについても熟知しているのです。この方は決して表面的に仏教を批判したり、否定する人ではありません。むしろ、仏教はキリスト教に劣らず深遠な宗教であると言っています。両方の宗教とも真理を証している点においては、何ら変わりはないのだというのです。ですから、仏教のことを良く理解もせず批判するキリスト者は愚かだと言っていますし、反対に仏教徒であっても、本当に真理を愛し、信仰を純粋に求める者ならば、必ずキリストに辿り着くはずだというのです。

しかし、一点に関して、この方ははっきりと次のように言います。「キリスト教にて仰ぐ神は、仏をはるかこえた方である。人のだれでも成れる程度の御方ではなく、実に万物の創造者、天地の唯一の主であらせられるのである。人はこの神によって創造されたものなのだ。仏には成れてもこの神に人は成れるものではない。」仏教にこれほど精通している方だからこそ言える言葉かも知れません。この人の言葉を通して、私は改めて、「キリストを証する」とはどういうことかということを深く学ばされました。


4.証の生活

 聖書は唯一の救い主キリストを「証しする」書物です。そして、私たちクリスチャンの生活も「証しの生活」として理解されます。今日は、私たちにとって証しとは一体何かということについて共に考えてみたいと思います。私たちはどのようにして、キリストを証することができるでしょうか。そのことについて、また後の会で、お一人お一人のご意見を聴かせて頂ければ思いますが、一つ例えて申しますならば、私たちの場合も星に例えることができると思います。イエス・キリストが太陽であり、聖書が月であるならば、私たちはその周りに輝く無数の星ではないでしょうか。夜空には月だけではなく、無数の小さな星が輝いています。星は一つだけではありません。私たちもキリストを指し示す星になることができるのです。

 それは皆さんご自身が信仰へと導かれた過程を振り返って見れば分かると思います。皆さんも、この聖書というただ一つの大きな星にだけ導かれたのではなくて、その周りにある無数の星によって、聖書へと導かれ、そして、イエス・キリストの下に辿り着いたはずです。そこには大きな星もあれば、小さな星もあったはずです。星はクリスチャンだけではありません。亀谷凌雲牧師のことを考えてみても、浄土真宗の寺の住職の息子として生まれ、その家庭の飽くなき信仰と真理に対する探求心を幼い時に養われたからこそ、最終的に真理そのものであられるイエス・キリストへと辿りつくことができたのです。そこには仏教徒である両親を始め、東大でお世話になった仏教の教授たちや、他の住職たち、大勢の人々との関わりの中で、この方は最終的にキリストへと導かれたわけです。

私たちも経験することですが、クリスチャンよりも、真理を真剣に追い求めるノンクリスチャンの方がいます。そのような方々の生きる姿勢から多くのことを学ばされることがあります。その点、自分たちだけが真理を知っているというような傲慢な態度は改められなければならないでしょう。真理は一つです。どんな人の語る言葉にも一片の真理は含まれているわけですから、謙遜に耳を傾ける必要があるでしょう。どんな人の言葉にも謙遜に耳を傾ける姿勢を持っていることがまた、クリスチャンとして証になるでしょう。私たちクリスチャンの証というのは、単にこちらが一方的に宣べ伝えるというものではないと思います。むしろ、それは相手からも真理について聞こうとする謙遜な姿勢、その対話の中から生まれて来るものではないでしょうか。すべての人が真理を求めています。真理を求めていない人など一人もいないのです。ですから、私たちはその求めに一つ一つ丁寧に応えて行くことが証になるのではないでしょうか。

 しかし、同時に、やはり私たちは「信仰の確信」という点においては、揺るぎないものを持っていなければなりません。イエス・キリストのみが人となりたもう真の神であり、ただこの方だけが人類を罪から救い出すことのできる唯一の救い主であるという点においては、絶対に譲ってはならないと思うのです。「どの宗教でも辿り着く所は結局は一緒だ」というような曖昧な態度では決して伝道はできません。私たちは聖書が証するこのイエス・キリストこそが、私たちすべての者を罪から救い出すことのできる唯一の救い主であるということを確信を持って宣べ伝えて行かなければなりません。そして、聖書を人々の手に手渡し、教会の礼拝に招き、具体的にこの方の下へと導いてくることが大切なのです。

 夜空には無数の星が輝いています。そこには明るく輝く星もあれば、小さな星もあるでしょう。しかし、太陽は一つです。私たちはすべてのものを照らす、この真の太陽であられるイエス・キリストの下へと人々を招くために、先に救いへと召された者たちです。私たちも、この方の光を受けて、人々にキリストを証する生活を送って参りましょう。

天の父よ

 新年最初の礼拝をみ前に捧げられましたことを感謝致します。どうか主よ、新しい年もまた、あなたの御言葉によって私たちの歩みを一歩一歩導いて下さい。どうか、私たちが絶えず謙遜な思いを持って、御言葉に聞き従うことを忘れませんようにお導き下さい。

 主よ、過ぐる日に私たちは愛する一人の兄弟を御許にお送りしました。この世にあって、あなたを証した兄弟があなたに呼ばれて、あなたの下に帰って行かれました。しかし、兄弟の残された生きた証は今も私たちを導く星となり輝いていることを信じます。どうか主よ、今悲しみの中にあるご遺族の上に上よりの慰めを与え、私たちも兄弟の歩んだ道を後から歩んで行くことができますようにお導き下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。