+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教2

旧約聖書:イザヤ書61章1節 新約聖書:テモテへの手紙二3章15‐17節

「旧新約聖書は神の霊感によりて成り」

T.旧約と新約の関係

 本日、私たちはアドベント第一主日を迎えました。アドベントは、私たちの救い主イエス・キリストが、この世にお生まれになることを待ち望む期間です。今から約2千年前に、神の御子は処女マリアを通して、この世にお生まれ下さいました。しかし、主イエス・キリストはある時、何の前触れもなく、突然生まれてきたわけではありません。救い主がお生まれになることは、ずっと前からイスラエルの民に約束されていたことでした。そのことが記されているのが旧約聖書です。ですから、私たちはイエス・キリストの誕生の意味を本当に理解しようと思うならば、長い間語られてきた旧約聖書の言葉をまず学ばなければなりません。反対にイエス・キリストを抜きにしては、旧約聖書の言葉の意味も理解できないのです。聖書には旧約・新約と両方ありますが、ユダヤ教では旧約だけです。しかし、聖書は旧・新合わせて初めて、完結した一つの書物となることができるのです。

U.信仰告白の意味

 さて私たちは、本日、日本基督教団信仰告白の聖書に関する部分について学びますが、そこには次のように告白されています。

「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会のよるべき唯一の聖典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」

 使徒信条と比べて特徴的なことは、日本基督教団信仰告白では、聖書に関する告白から始めていることです。聖書は全世界で最も多くの人々に読まれている書物です。これほど人々の心を引きつけて来た書物は他にありません。聖書と並ぶような書物はこの世に存在しません。しかし、聖書は人によって、いろいろな読み方ができます。この分厚い聖書を正しく理解するということは簡単なことではありません。そこで私たちの教会は、どうしたら聖書の正しい読み方を受け継いで行くことができるのかということで悩みました。その結果、信仰告白が生み出されたのです。信仰告白は一体何のためにあるかと言えば、それは聖書が正しく読まれるためにあるのです。聖書の中心メッセージは何であるのか、そのことを明らかにするのが信仰告白なのです。信仰告白は長いキリスト教の歴史において、私たちの教会がどのように聖書を読み、理解してきたかを簡潔な文書でまとめたものです。本屋に行けば、聖書を読むための入門書が沢山出版されていますが、信仰告白こそ、聖書を読むための最善の手引きであり入門書なのです。これ以上簡潔に、かつ的確に聖書の内容をまとめた文書は他に存在致しません。

 私たちはこれから来年の5月まで月に一回、計6回に亘って、聖書について告白を順番に学んで行きます。今日はその第一回目、特に

「旧・新約聖書は神の霊感によりて成り」

という告白について、聖書の御言葉を通して学びたいと思います。

V.「神の霊感によりて成り」

 この告白の典拠となっている聖書の箇所は主に二つあります。一つは先ほどお読み頂いたテモテへの手紙二3章16‐17節です。もう一つはペトロの手紙二1章20−21節です。そこをお読みしたいと思います。

「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」

 テモテへの手紙二3章16節では「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」と語られていました。どちらにも「聖書」という言葉が出てきます。この場合、この手紙が書かれた時代には、新約聖書はまだ文書として記されておりませんでしたので、ここで「聖書」と言われているのは具体的には「旧約聖書」のことです。それをペトロの手紙の方では「預言」という言葉に置き換えています。これも具体的には旧約聖書のことを指しています。いずれにしても聖書に記された言葉は「人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語った」ものであるのです。

 しかし、聖書はある時、突然天から降って来たわけではありません。ある時代に、長い年月をかけて、多くの人々がこれを書き続けてきました。ですから、そこに記されている言葉は、何か特別な言葉ではありません。私たちが普段使う言葉です。それを語ったのも人間です。私たちと同じように弱さを持ち、失敗もすれば、悩みもする、そういう普通の人たちが書いた書物です。しかし、大切なことは、そういう人々が自分の思いで聖書を記したのではなく、「神の霊」、すなわち、「聖霊」に導かれて、神からの言葉を語ったのだということです。つまり、聖書の本来の著者は聖霊に他なりません。聖霊が人間の口を通して、神の言葉を語り、それを記したのが聖書なのです。ですから、聖書の御言葉は何一つ、私たちが自分勝手に解釈してはならないというのです。その意味は、どんな書物を読む時も一緒ですが、その書物を一番正しく読むためには、その書物を書いた「著者」の意図をよく理解して読む必要があるわけです。聖書を正しく読むためには、聖霊の御意志、意図というものをよく理解して読む必要があるのです。聖書はこの神の霊の導きを受けなければ、正しく理解することはできないのです。

W.神の霊:風・息・呼吸・生命の息吹

 では神の霊とは、私たちにとってどのような存在なのでしょうか。それを一番分かりやすく語っているのは創世記2章7節の御言葉です。

 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

 これは私たち人間がどのような存在であるのか、見事に言い表した御言葉です。主なる神様は、私たち人間を土の塵でお造りになられたのです。そのままでは生きた存在ではないのです。私たちは土の塵のように弱く脆い存在です。ちょっとしたことに傷つき、倒れ、やがては滅び、土の塵に帰って行くようなはかない存在でしかありません。私たちは誰しも、自分の内にそのような弱さを感じながら生きていると思います。私たち人間は土の塵のように弱く脆い存在です。

 しかし、主なる神様は土の塵でお造りになられた人間の鼻にご自身の命の息を吹き入れられたのです。そうして初めて人間は生きるようになったのです。ここで「命の息」と訳されている言葉は、他に「風」とか「霊」とも訳すことのできる言葉です。私たちは呼吸をしなければ生きては行けません。それと同じように、私たちは神の霊を欠いては生きて行けない存在なのです。神の霊こそ人を生かす力なのです。

 ところが、人間は神様のことを忘れてしまうと、この霊の働きも失われてしまうのです。罪の中にある人間の中では、神の霊は眠ってしまっているのです。神の霊の働きが眠ってしまいますと、私たちの心は固く、冷たくなってしまいます。人に対しても心の余裕を失ってしまいます。生きる気力が湧いてこないのです。私たちが人生の中で経験するあらゆる問題は、神の霊が私たちの中で眠ってしまって、本来の働きをしていないことに由来しているのです。

X.霊を呼び起こす聖書の御言葉

 では、どうしたら神の霊を呼び覚ますにはどうしたら良いのでしょうか。それは聖書の御言葉を通してなのです。聖書はすべて神の霊感によって書かれた書物です。聖霊の導きの下に書かれた書物です。その聖書の御言葉を通して、神の霊は私たちの内に豊かに働くようになるのです。神の言葉の内に宿る霊と、私たちの内に眠っている霊とが呼応して、互いに響き合い、木霊するのです。私たちが聖書を開く時、そこには神の霊が支配する世界が開かれます。そこで私たちは神の命の息を体いっぱいに吸い込み、聖霊を呼吸して、私たちは新しく造り変えられて行くのです。聖書の世界には独特の雰囲気といいますか、空気が漂っています。見えざる神の霊が支配しているのです。

 このことをどうしたら皆さんにお伝えできるかと思い、いろいろと考えてみました。私たちは目には見えませんが、いろいろな目には見えないものを意識しながら生きていると思います。皆さんは、金沢という文化都市に住んでおられますから、そのことが良く分かると思うのです。文化ある町には、他では味わえない、独特の雰囲気と言いますか、伝統の香りがあります。外から来た者にとっては、それは非常に新鮮に感じられます。それは長い歴史をかけて培われてきたものであり、金沢でしか味わえない空気というものがあります。それを毎日吸って生きていると、豊かな人間性が養われて行くのだと思います。

 私がドイツのミュンヘンという所に最初に行きました時、そこには何かしら口では言い表せない、ヨーロッパ文化と言いますか、芸術の盛んな雰囲気が町の中に漂っているのを感じました。そこに流れている空気は、やはり日本で流れている空気とは違うのです。また同じヨーロッパの中でも、場所によって違う空気が流れています。イギリスのオックスフォードという町を旅行したことがありましたが、そこは町全体が大学の町です。そこには何かしら大学町の空気というようなものが流れています。

 そのような意味で金沢の町を見るならば、やはりここにも他とは違う、金沢独特の文化、伝統というものの空気が流れています。それは私たちが造り出そうとしても造り出すことのできない、長い年月をかけて培われてきたものです。

 私は以前説教の中で、夕方、日が沈む頃、卯辰山に登って、そこから金沢の町を眺めるのが好きだということをお話ししました。確かに夕方、日が沈む頃の金沢の町も良いのですが、また早朝、まだ人気の少ない金沢の町を眺めるのもとても良いものです。時々時間がある時に金沢の町を走る時があります。まだ人気の少ない金沢の町を走って行きまして、卯辰山の頂上から金沢の町を眺めて、そこから浅野川の方向に向かって下りてきます。そう致しますと、卯辰山の特別な空気と言いますか、静かに吹く朝風を浴びて、山の新鮮な空気を吸い込み新たな気分にさせられます。時々すれ違う人とお互いに「おはようございます」と声を交わします。そのように金沢の空気を頂いて、気分がリフレッシュするということがあるわけです。

 私たちにとって礼拝というのは、そういう場所だと思うのです。礼拝はそこで気分を新たにすると言いますか、もっと深い所で、魂を新たにされる場所です。礼拝では聖書が開かれます。聖書の御言葉が読まれます。そうすると、そこに聖書の世界が開けてくるのです。それは独特の世界です。他では経験することのできない世界です。人を生かす神の霊が豊かに宿る世界です。私たちは一週間様々な人間関係の中で傷つき、それこそ渇いてひび割れした大地のように心が荒んでしまう。そのような心を携えて、礼拝の場に集います。そういう渇いた心に、神の御言葉を通して、神の命の息吹が吹き込まれる時、私たちの心はもう一度、血の通った、温かな心に生まれ変わることができるのです。一週間の疲れを癒され、リフレッシュして、新しい一週間を始めるのです。

 聖書には長い歴史の中で神の霊によって生かされ、神の霊によって語った人々の言葉が記されています。それはアブラハムであり、モーセであり、ダビデあり、イザヤであり、エレミヤであり、バプテスマのヨハネであり、ペトロであり、パウロです。彼らを生かした霊が今私たちの内にも働くのです。そして、何より、あのイエスを死者の中から復活させられた神の霊が私たちの内にも働いて下さるのです。この神の霊が私たちの内で働く時、私たちは根本から新しく造り変えられます。そこで大切なことは、聖霊は必ず聖書の御言葉と結びついた仕方で働くということです。聖書の御言葉を離れては聖霊は私たちに働きません。必ず聖書の御言葉を通して私たちの内に働くのです。だからこそ礼拝は神の霊が豊かに働く場所なのです。

Y.聖書を中心とした交わりの豊かさ

 聖書を中心とした交わりは本当に豊かなものです。私たちはこの白銀教会のいろいろな集会において、そのことを経験していると思います。ここ何年間か、白銀・馬場両幼稚園の保護者の方々と一緒に「聖書のお話を聞く会」を持っています。普段、保護者同志ではなかなか子育ての悩みなど、深い話を素直に話すことができないそうです。お互いに気を使うところもあるでしょうし、見栄を張ることもあるでしょうし、なかなか他の人に心を開いて素直に話すことは難しいというのです。しかし、教会に来て、聖書の御言葉を共に学ぶことを通して、一人一人の心が不思議な仕方で開かれて行くのです。聖書は本当に不思議ですが、閉ざされた人の心を開く力を持っています。普段、人には見せないような姿を引き出す力を持っているのです。それは聖書を通して働く神の霊が働くからです。神の霊が私たちの内で眠っている神の霊を呼び起こすからなのです。聖書の御言葉を通して働く神の霊によって、一人一人の内に眠っている神の霊が呼び起こされ、そして、お互いの中にある霊が響き合うのです。だから、お互いに心を開き、お互いの話に共感し、心が満たされる経験をすることができるのだと思います。

 聖書には

「主の霊のおられるところに自由があります」

という御言葉があります。つまり、神の霊は私たちに「自由」をもたらすのです。私たちはこの主の霊の働きによって、主イエスと同じ姿に造りかえられて行くのです。霊は人を罪の支配から自由にします。自分自身から自由にされるのです。私たちは自分に拘って、なかなか人に心を開くことができないと思います。しかし、そういう固く凍りついた心も、霊の息吹によって融かされ、温かな心に造り変えられるのです。まさに神の霊がもたらす第一の賜物は「愛」でありますが、神の霊の働きは人と人とが心を通わせ合う所にこそあるのです。聖霊はそのような仕方で本当に人間らしく生きる力を私たちに与えてくれるのです。

 私たちの教会では、祈祷会でもキリスト教入門講座日曜コースにおきましても、これまでずっと旧約聖書の御言葉を学んで来ました。最初は創世記の初めの部分だけを読むつもりで始めたのですが、続けている内に、聖書が持っている豊かさに触れ、途中でやめられなくなってしまったというのが本当のところです。旧約聖書は一般的に、教会でも馴染みが薄く、難しいという印象を持たれているようです。しかし、決してそんなことはないのです。旧約聖書は下手な小説よりもずっと面白いものです。これまで入門講座では、ヨセフ物語を続けて学んできましたが、ヨセフ物語はどんな小説よりもドラマチックで、ハラハラドキドキします。それを読む者はただただ溜息をついて、余りに壮大な神様の救いの御計画に驚かされるばかりです。「神は万事を益とされる。私たちにとってマイナスに思われるような経験も、すべてをプラスに転じて、すべてのことを私たちにとって益として下さる。」そのことを私たちは聖書を通して知ることができます。

 不思議なことに、聖書はどこを切っても、すべてつながっています。小さな子供が毛糸の玉をいたずらして、糸を手繰り寄せて全部ほどいてしまうということがあると思います。それと同じように、聖書の一ヵ所をひもとくならば、それはたぐってもたぐっても決して終わることなく、すべてが一本の長い糸でつながっている書物なのです。そして、どこをひもときましても、最終的にはイエス・キリストという一人のお方に辿り着くのです。とても人が書いた物語とは思えません。

Z.聖書が書かれた目的

 そして、そこにこそ聖書が書かれた目的があるのです。聖書が書かれた目的は一体何であるのか。それはヨハネによる福音書20章31節に明確に記されています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 ここにこそ、聖書が書かれた目的があります。聖書が書かれた目的はただ一つです。それはこの聖書を通して、私たちの救い主、人生の主であられるイエス・キリストと出会うためです。私たちの罪のために十字架に架けられて死に、そして、三日目に復活なされた方が真に神の子であり、救い主であると告白するようになる。この方を礼拝するようになる。そのために聖書は書かれたのです。聖書の力はこの方の力なのです。ルターというのは「聖書はその中にイエス・キリストが眠る飼い葉桶だ」と言いました。聖書の中にはイエス・キリストが眠っているのです。私たちは聖書を通して、この方と出会うことができます。この方を通して、私たちは神の霊を豊かに注がれて、新しい人に生まれ変ることができるのです。
イエス・キリストは今日も、聖書の御言葉を通して、私たち一人一人に語りかけておられます。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

と問いかけておられるのです。その問いかけに対して、わたしたちは何と答えるでしょうか。ペトロと同じように

「あなたはメシア、生ける神の子です」

とはっきりと答えて、主を証する生活を送って参りましょう。

天の父よ
 あなたは聖書の御言葉を通し、聖霊の働きを通して、私たちの心に豊かに働いて下さいます。どうか、今日聞いた聖書の御言葉が、単なる文字としてではなく、聖霊の働きによって、私たちを生かす力となることができますように、どうかあなたが御言葉と聖霊の力によって、私たちを根本から新しく造り変えて下さいますようにお祈り致します。イエス・キリストを死者の中から復活させられた霊は、聖書の御言葉を通して、私たちの内にも働くことを信じます。私たちがこの言葉を内に宿している限り、私たちには永遠の命が約束されていることを覚えて、希望を持ち続けることができますように祈ります。この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。