+日本基督教団信仰告白講解説教

-白銀教会 野崎卓道牧師による 日本基督教団 信仰告白 講解説教-

日本基督教団信告白講解説教1

旧約聖書:ヨエル書3章5節a 新約聖書:ローマの信徒への手紙10章9−15節

「われらは信じ、かつ告白す」

1.「聖徒の日」の意味

 本日は「聖徒の日」(永眠者記念日)を覚えて礼拝を守っています。白銀教会の永眠者名簿を見ますと宣教師や教職を含め、この100年に亘る歴史の中で、85名の兄弟姉妹がすでに天に召されたことが分かります。私が白銀教会に赴任してから今年で5年目になりますが、すでにその間に8名の方々を天にお送り致しました。お一人お一人のお顔と共に、いろいろな思い出が甦って参ります。ご遺族の方々や長く教会生活を共に歩まれた方々にとっては尚更のことと思います。

 しかし、永眠者記念日というのは、単に私たちが過ぎ去った日々の思い出の中に愛する人を思い起こし、記念するための日ではありません。この日が「聖徒の日」と呼ばれることには、深い意味があるのです。「聖徒」というのは、イエス・キリストのものとされた人々のことを言います。決してその人たち自身が特別に聖なる人々だというのではなくて、聖なるイエス・キリストに結ばれている人々のことです。私たちの主イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に架かって死に、そして、三日目に死を打ち破り、死人の中から復活なされました。主は今も生きておられます。このお方に結ばれているならば、この世での生涯は終わっても、天にあって主と共に生き続けることができるのです。主に結ばれた聖徒たちは今も生きています。私たちがこうして地上の教会において礼拝を捧げる時、天にある聖徒たちも共に神の御前に礼拝を捧げているのです。私たちが賛美歌を歌う時、すでに天に召された兄弟姉妹たちも声を合わせて賛美の歌を歌っているのです。「聖徒の日」は、先に天に召された兄弟姉妹たちと地上に遺された私たちが今も主にあって一つに結ばれていることを思い起こす時なのです。「聖徒の日」だけではありません。私たちが毎週日曜日、この教会に来て、礼拝を捧げる時には、いつも天にある私たちの家族や兄弟姉妹に会い、一つに結ばれ、共に交わることができるのです。礼拝は、天に召された私たちの愛する人たちと交わることのできる唯一の場所なのです。

2.「口で公に言い表す」


 先ほどローマの信徒への手紙10章9節以下の御言葉をお読み頂きました。ここにはキリスト教の信仰において、最も大切なことが語られています。それは

「神がイエスを死者の中から復活させられたことを信じること」

に他なりません。そのことを本当に信じる時、私たちは初めて「イエスは主である」と告白できるようになります。「主」というのは「主人」ということです。主人は自分に属するものを何でも自由にすることができます。「イエスは主である」と告白する時、そこでは「イエスは死をさえも打ち破り、死に勝利された」という信仰が言い表されているのです。

 その際、大切なことは、私たちがただそのことを「心」の中で信じていれば良いというのではないということです。私たちはよく、信仰は「心」の問題だと言います。「だから、何も人々に言わなくても、自分の心の中で信じていればそれで良いのだ」と言います。しかし、本当にそうでしょうか。私たちの心ほど変わりやすいものはありません。心の中だけに留めて置くと、私たちはしばしば無責任になりやすいものです。それは気が変った時のために逃げ道を作っておくことにもなります。

 しかし、一度、口に出して人々の前に公に表明してしまったら、それは撤回不可能な言葉になります。もし、それを撤回すれば人々からの信用を失います。「公に言い表す」ということは、人々が見ている前で、あるいは人々が聞いている前で、自分の信仰をはっきりと言い表すということなのです。「公に」というのは、ここでは「礼拝の中で」ということです。これは具体的には、洗礼を受ける際になされる信仰告白のことを指しています。信仰は口に出して告白して、初めて本物になります。心の中だけで信じている内は、まだ本物とは言えません。口で公に「イエスは主である」と人々の前に告白して、始めて救われるのです。

3.浄土真宗(親鸞)の信仰との類似

 大変興味深いことでありますが、これはこの北陸の地に深く根を張っています浄土真宗の信仰と相通じる所があると思います。私もこの北陸の地に赴任致しまして、この地が仏教、特に浄土真宗の影響を強く受けている地であることを、時が経つにつれて深く感じるようになりました。教会を訪ねて来られる人たちと話をしている時にも、親鸞の『歎異抄』にまで話が及ぶことがあります。『歎異抄』は親鸞自身が書いたものではなくて、その弟子の唯円という人が書いたものだと言われます。師が亡くなった後、その言葉を人々に正しく伝えるために弟子が書いたものであると言われています。恥ずかしいことなのですが、私は金沢に来るまで、親鸞の『歎異抄』を読んだことがありませんでした。そこでいつかこれを読んでみたいと思っていたのですが、幸いにも先日、五木寛之さんの『私訳歎異抄』という本が出版されましたので、早速それを買って読んでみました。元々『歎異抄』の原文は古い文語体で書かれておりますから、原文をそのまま読んでも私のような者にはよく理解できません。しかし、五木寛之さんはそれを非常に分かりやすい現代語で訳してくださっていますので、とても良く分かりました。以前から、親鸞の唱える「他力本願」という信仰は、キリスト教の信仰、特に私たちのプロテスタント教会の信仰に近いということは知っておりました。しかし、私は今回初めて親鸞の『歎異抄』を直に読んで本当に驚かされました。そこには私たちの信仰ととても似たことが書かれていたからです。

 浄土真宗の念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えられますが、「南無阿弥陀仏」の「南無」というのは「帰依する」とか「帰命する」(命を捧げる)ことを意味するそうです。つまり、「南無阿弥陀仏」と唱えることは、「阿弥陀仏に自分の命を捧げます」と告白することに他なりません。そうすると、浄土真宗でいう「念仏」は、キリスト教でいう信仰告白のようなものです。それを唱えさえすれば、善人や悪人の区別なく、どんな人でも救われ、極楽に往生できるという教えです。そこには何らの区別もありません。

 興味深いのは、浄土真宗においても、やはり、心の中で信じていることを口に出して公に言い表すことによって救われると教えていることです。人は善行をしたり、難行苦行の修業を積んで悟りを開くことによってのみ救われるのではないのです。そうではなくて、悪人であろうと、善人であろうと、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるすべての人に救いが与えられる。それが浄土真宗の教えです。
ローマの信徒への手紙10章11節以下には、それと大変似たことが語られています。

 聖書にも「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
 
 浄土真宗においては、「阿弥陀仏」の名を唱える人々は誰でも救われ、キリスト教においては「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と教えているのです。全く同じことを言っているのではないでしょうか。ただ一つ違うのは、そこで唱えられる名前だけなのです。すなわち、「阿弥陀仏」の名が唱えられるか、それとも「主イエス・キリスト」の名が呼び求められるかという違いだけです。そして、そのことが決定的な違いを生むのです。

 いずれにしても、この北陸の地にキリスト教が広まることができたのは、浄土真宗がすでに深く根を張っていたことと無関係ではないと思われます。

4.「われらは信じかつ告白す」

 ところで聖書において「公に言い表す」と訳されている言葉は、普通「告白する」と訳されますが、元々の言葉を直訳致しますと「同じ言葉を語る」という意味なのです。この言葉は一般的には、他の人の意見と「一致する」とか、他の人の意見に「同意する」という意味で使われていました。つまり、それは自己流の信仰ではなくて、他の人たちと同じ信仰を共有していることを表す言葉なのです。信仰は私たちが勝手に造り出すものではありません。それは長い歴史をかけて、教会を通して受け継がれてきたものです。信仰を告白するということは、「教会が受け継いできた信仰を私も受け入れます」ということです。私たちが救われるためには、「神がイエスを死者の中から復活させられた」ことを信じ、また「イエスは主である」と告白しなければならないのです。

 私たちの教会では「信仰告白」という形で、私たちが救いに至るための「正しい信仰」を受け継いできました。先ほど礼拝の中でも信仰告白がなされました。その際、お気づきになられた方もおられると思いますが、使徒信条と日本基督教団信仰告白を比べますとある違いに気づかされます。それは使徒信条では「われは信ず」となっているのに対して、日本基督教団信仰告白では「われらは信じかつ告白す」となっているのです。単数と複数の違いがあるのです。使徒信条の方が「われは信ず」となっているのは、洗礼を受ける人がそれを告白したことと関係しています。洗礼を受ける時には、「あなたは教会が守り続けてきた信仰を受け入れますか」と問われます。それに対して、洗礼を受ける人は、会衆の前で、「はい、わたしは信じます」と答えて、使徒信条を唱えたのです。

 それに対して、日本基督教団信仰告白の方は、礼拝の中で兄弟姉妹が声を合わせて告白するために作られたものです。この「われら」という言葉の中には、特別な力が隠されているように思われます。キリスト教の信仰は「われら」の信仰なのです。

5.交わりの生活

 ドイツ人の牧師でボンヘッファーという人がいます。この人は第二次大戦中、ナチス・ドイツに抵抗し、ヒットラーの暗殺計画に加わったことで有名です。しかし、それが発覚し彼は捕えられ、強制収容所で2年間を過ごし、最後は殉教の死を遂げました。彼は『交わりの生活』という大変有名な本を書きました。これはキリスト教の信仰がどのようなものであるかをとても分かりやすく書いたものです。キリスト教とは、一言で言えば「交わりの生活」です。それは何よりもまず、私たちの主イエス・キリストとの交わりを表しますが、同時に主にある兄弟姉妹との交わりをも表わしています。教会の兄弟姉妹との交わりが与えられていることは決して当たり前のことではありません。私たちはそれに慣れてしまって、何の有り難味も感じなくなっていますが、一度、病気になったりして、教会の礼拝に来られなくなると、そのことがどんなに恵まれたことであるかに気づかされるのです。病院で入院生活を送っている人、あるいは高齢で家で生活を送っている人の多くは孤独を経験しています。そのような時、教会の兄弟姉妹が訪問して言葉をかけ、祈ってくれることでどれほど力を与えられることでしょうか。その人にとっては、それはイエス・キリストが来てくれたことと一緒なのです。

 それは訪問される方にとってだけではなくて、訪問する方にとっても言えることです。私たちは病気の人を訪問致しますと、反対に力を与えられることがあります。私たちは兄弟姉妹を通して、イエス・キリストと出会うことができるからです。イエス・キリストは兄弟姉妹の中に生きているのです。私たちはイエス・キリストを心の中で信じていても、ちょっとしたことですぐに心が揺らいでしまいます。しかし、兄弟姉妹の中にいるキリストは違います。私たちは兄弟姉妹の証を通して、兄弟姉妹の中にキリストが力強く生きておられることを経験します。ボンヘッファーはそのことを次のような言葉で見事に表現しています。

「自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのである。」

私たちは自分一人でイエス・キリストを信じ続けようとしても、それは大変難しいことです。しかし、私たちは兄弟姉妹の中により強くキリストが生きておられることを兄弟姉妹の証を通して見出すことができます。だから、私たちはどうしても共に歩む信仰の兄弟姉妹を必要とするのです。わたしに御言葉を語ってくれる兄弟姉妹を必要としているのです。
パウロはそのことをローマの信徒へ手紙10章14節で

「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」

と言っています。神は兄弟姉妹の口を通して、私たちに御自身の御言葉を語って下さいます。それは牧師だけではありません。私たちにとっては、すべての兄弟姉妹が、私たちに神の御言葉を伝えるために神から遣わされてきた人たちなのです。神はそのような仕方で私たちを兄弟姉妹と共に堅く結びあわせようとなされたのです。

6.聖徒の交わり

 教会は本当に不思議な場所です。ここには不思議な力が働いています。どんな人でも癒し、生かす力が働いています。兄弟姉妹の交わりの中で、豊かに命を養い、人を成長させる力があります。私自身、この白銀教会における兄弟姉妹との交わりを通して、どれだけ自分を正され、変えられ、成長させられたか分かりません。そのように白銀教会は100年に亘る長い歴史の中で、ここに主にある豊かな交わりを形造って来たのです。

 それは目に見える兄弟姉妹との交わりだけではありません。今は世を去り、目には見えない兄弟姉妹たちも、この交わりの中で生き続けているのです。私は白銀教会に赴任してから、何度か私が会ったことのない兄弟姉妹の記念会を致しました。私は全く存じ上げない方なのですが、ご遺族の方々や教会の兄弟姉妹の方々から故人についていろいろなお話を伺う中で、その方がどのような証を地上に遺して行かれたかを目の当たりにすることがあります。そして、その方が遺された証が今もこの白銀教会の交わりの中で生き生きと働いていることに気づかされるのです。世にあるものも、世を去りし者も、主にあって豊かな交わりを経験することができる場所。それが教会です。ここに人を生かす真の命があります。

 本日はこの後、聖餐式が執行されます。私たちは聖餐式においてこそ、本当に一つとされます。聖餐のパンとぶどう酒を通して、イエス・キリストの体と血とに与ることによってのみ己のエゴを取り去られ、兄弟姉妹と一つに結ばれるのです。聖餐においてこそ、兄弟姉妹との交わりは完成されます。聖餐は私たちを一つにします。天にある民も、地にある民も主にあって一つにします。このような豊かな交わりを与えて下さった主に感謝をし、この豊かな交わりの中に新しい人々が加えられるように、私たち一人一人が御言葉を携えて遣わされて参りましょう。

天の父よ、
 本日はすでに天に召された御前における聖徒たちと共に礼拝を守ることができ感謝を致します。あなたは、私たちの教会に必要な兄弟姉妹を与え、この100年に亘る白銀教会の歴史を守り導いてくださいました。今、私たちがこの礼拝の席に連なり、兄弟姉妹との交わりの中に置かれていることが、どれほど大きな恵みであることか、どうかそのことを悟らせて下さい。どうか、私たちが傲慢になったり、心を頑なにし、自己中心的な思いになって、兄弟姉妹との間に壁を作ることがありませんように、どうか、主御自身が十字架の死と復活の力によって、そのような壁を打ち砕き、兄弟姉妹に至る道を開いて下さい。

 特に愛する者を天に送り、愛する人を目の前から取り去られ、この地上での別れを経験して悲しみの中にあるご遺族の上に、復活の主が真の慰めをお与え下さい。どうか、私たちが気休めの慰めではなくて、生きるにも死ぬにも唯一の慰めを与えることのできるイエス・キリストにより頼み、生きることができますようにお導き下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げ致します。アーメン。